第55話 帰る場所を選ぶ
母が港へ戻る日、鐘楼の鐘を止めた。
街じゅうの鐘を止める権限は、ベランディ家にもない。
だから、市役所、港湾組合、三つの教会、鉄道駅へ一軒ずつ事情を説明した。
正午から一時間。
緊急の火事鐘だけを残し、時刻鐘を鳴らさない。
「ドンの母親一人のために?」
教会の司祭は眉をひそめた。
「一人の患者のために」
リーナが答えた。
「次に、音で発作を起こす別の患者が通る時も、同じ申請を出せます」
母のためだけに鐘を黙らせれば、灰冠が街から音を奪ったことになる。
リーナは申請書の用途欄へ、音刺激を避ける患者の移送、と書いた。
司祭は条件付きで認めた。
停止する鐘と時刻を掲示する。
火事鐘は通常どおり。
商人の時刻損失に、ベランディ家が補償を求められないこと。
最後の条件は、こちらへ金を請求するな、ではなく、こちらが見返りを求めるなという意味だった。
署名した。
正午、母を乗せた列車が入った。
駅は静かだった。
静かすぎて、車輪が継ぎ目を踏む音だけが遠くまで響く。
出迎えは十二人に絞った。
テオ、ルカ、ブルーノ、エヴァ、ニコ、マルタ。
診療所から二人。
工房から二人。
それに俺とソフィア。
古参たちは百人で並ぶつもりだった。
白灯の者も、白い花を持って集まろうとした。
全部断った。
母が列車から降りる。
白い髪に、灰色の外套。
右手には杖。
療養院の看護人が隣にいる。
階段を一段ずつ降りた。
最後の段で杖先が滑る。
俺は手を伸ばした。
母は一度、自分で立て直そうとした。
それから俺の腕を取った。
頼るまでの短い間。
その癖も、母のままだった。
「静かね」
「鐘を止めました」
「街の鐘を?」
「一時間だけ」
母は喜ばなかった。
「迷惑を掛けた」
「手続きを作りました。次の患者も使えます」
「そう」
そこで、少し安心した顔になった。
駅前には、それでも人がいた。
掲示を見た市場の者。
白灯の古い患者。
父の時代を知る組員。
皆、声を出さない。
帽子を取り、胸へ当てる。
母は立ち止まった。
最前列に、アンドレアがいた。
杖をつき、姉と並んでいる。
療養院から手紙を出し、帰港日を知らせたのは俺だった。
来るかどうかは、彼に任せた。
母の顔から血の気が引く。
「アンドレア」
「まだ歩いてます」
男は、俺へ言ったのと同じ言葉を自分で伝えた。
母が一歩近づく。
彼は下がらない。
「ごめんなさい」
「ここでは聞かない」
「ええ」
「診療所で時間を取れ。俺が決めた日に」
「行きます」
アンドレアは帽子を取らず、母も取らせようとしなかった。
二人の間には、駅の石床二枚分の距離が残った。
駅から屋敷までは、馬車を使わず歩いた。
急がない。
母は三度休んだ。
二度目の休憩で、白い服の一団が近づいてきた。
白灯修道会の港支部。
先頭は、母と同年代の修道女だった。
「エミリア様」
膝をつく。
後ろの者も続いた。
「灯主がお戻りになった」
母の右手が震え始める。
呼吸が浅い。
リーナが間へ入った。
「立ってください」
「あなたは?」
「ヴァレノ診療所長、リーナ・サルトです。患者の前で一斉に膝をつかないで」
「患者ではありません。白灯を導いた方です」
「患者です」
修道女の顔に、怒りが浮かぶ。
「エミリア様ご本人へ、お聞きします」
視線が母へ集まる。
選ばせるように見えて、大勢で答えを囲んでいる。
俺が前へ出ようとすると、ソフィアに袖を引かれた。
母自身の答えを待つ。
「私は、灯主ではありません」
母の声は小さかった。
修道女が聞き返す。
「追跡を避けるためのお言葉ですね」
「違います」
今度は少し強い。
「私は、白灯の印を守るために人を置いていった。失敗を記録しなかった。
助けた人数を使って、自分の判断を正しいと思おうとした。
もう、人を導く席には座りません」
「では、私たちは誰を」
「一人を選ばないで」
母は息を整えた。
「診療所ごとに責任者を決めて。
患者記録を、その人だけの箱に入れないで。
私の名前を使って寄付を集めないで」
命令の形になりかけていた。
母も気づいたらしい。
「これは、お願いです。従う義務はありません」
修道女は納得していない。
それでも立ち上がった。
白灯の一団が去るまで、母はその場にいた。
角を曲がったところで、杖を落とした。
リーナが拾う。
「ご自分で拾えますか」
「いまは、無理」
「では、渡します」
手渡された杖を、母は左手で握った。
「いまは、無理」
その五文字を、母は白灯を退けた言葉より小さな声で言った。
俺には、そちらの方が遠くまで届いた。
屋敷には、母の昔の部屋が残っていない。
襲撃後に壁が焼け、再建の時に会議室へ変えた。
代わりに診療所の裏へ、小さな部屋を用意した。
寝台。
机。
音を和らげる厚い布。
右腕を支える肘置きの長い椅子。
呼び鈴は置かなかった。
強い音ではなく、紐を引けば廊下側の白布が動く仕組みにした。
ニコの仕事だった。
「奥様の部屋としては、狭い」
ブルーノが言った。
「患者一人には、ちょうどいいです」
リーナが返す。
母は部屋へ入り、窓を開けた。
港の匂いが入る。
塩、石炭、魚、油。
「帰ってきた匂いがする」
「嫌なら閉めます」
「今日は、このまま」
荷物は鞄一つだった。
十年を生きた者の荷物としては、少ない。
俺が手伝おうとすると、母は薬箱を自分で机へ置いた。
外套はソフィアへ渡した。
何を自分で持ち、何を預けるか、少しずつ選んでいる。
夕方、家の食堂へ集まった。
父の席はない。
空席にもしていない。
長机の中央には、工房から届いた七冊の報告書が積まれている。
「食卓へ仕事を持ち込んだのは誰だ」
俺が聞く。
「若頭が帰ったら、都合の悪いところから報告しろと言いました」
ルカが答えた。
「いまか」
「食後です」
テオが口を挟む。
「第八型を止めた」
「食後と言ったでしょう」
「都合が悪いから、早く言いたかった」
母が、二人を見て笑った。
俺も笑った。
工房は俺がいない間に商品を止めた。
回収命令を出した。
新しい石へ値段を付けた。
詳細は、これから聞く。
母を捜している間も、生きている者の仕事は進んでいた。
スープが配られる。
母は匙を右手で持ち、一度こぼした。
誰も先に助けなかった。
母が左手へ持ち替える。
それでも難しくなり、リーナを見る。
「少し、器を押さえてくれる?」
「はい」
頼んでから手を借りた。
「レオーネ」
母が言う。
「何」
「探してくれて、ありがとう」
「遅くなりました」
「お互いにね」
翌朝、母は父の墓へ行きたいと言った。
診療所から墓地までは、ゆっくり歩いて三十分。
母の今の脚では、休憩を入れて一時間かかる。
馬車を勧めると、首を振った。
「あの人が最後に歩いた道を知らないから、せめて私が歩いて行きたい」
父の遺体は屋敷から礼拝堂へ運ばれた。
俺はその行列の先頭にいた。
だが、何人の肩が棺を支えたか思い出せない。
黒い布と、重すぎた指輪と、白い花だけを覚えている。
母と俺は同じ道を通らなかった。
診療所の裏道から墓地へ向かう。
途中、母は四度休んだ。
三度目で、古いパン屋の前に止まる。
「まだあるのね」
「知っている店ですか」
「あなたが三歳の時、ヴィットリオが一人で買いに来た」
父は幼い俺と留守番をし、昼寝から起きた俺が泣き止まなくなった。
母が帰るまで待てず、俺を外套の中へ抱えたままパン屋へ来た。
何を買えばいいか分からず、店にある甘いパンを全部指した。
「全部?」
「あなたが泣くたび、一個ずつ渡したそうよ」
「三歳の子供に?」
「店主が止めた。だから、あの人は店主を褒めて、用心棒代を一月まけた」
「父らしいのか、らしくないのか分からない」
「両方よ」
母は小さな丸パンを一つ買った。
父の墓前へ供えるためではない。
歩きながら半分食べ、残りを俺へ渡した。
「墓へ食べ物を置くと、鳥が散らかすでしょう」
墓地には、俺と母だけで入った。
護衛は門に残す。
父の墓石へ、ヴィットリオ・ベランディと刻まれている。
母はその名を指でなぞらなかった。
少し離れた場所へ座り、杖を膝に置いた。
「遅くなりました」
墓へ向けた声は、俺へ謝った時より低かった。
「あなたが死んだと聞いてからも、私は確かめなかった。レオーネを一人にした。怒っていいわ」
風が草を鳴らす。
返事はない。
「でも、先に死んだことは、私も怒っています」
母の口元が歪んだ。
「私があなたを許していないことも、あなたが私の患者を怖がらせたことも、まだ話し終わっていなかった。」
愛していたと言う前に、怒った。
それが母の悲しみ方だった。
「レオーネは、あなたより面倒なドンになりました」
「母上」
「褒めているのよ」
「父にも、そう聞こえるでしょうか」
「聞こえなくても、言い直さない」
母は墓石ではなく、俺の右手を見た。
灰冠の指輪。
「似ている?」
俺が聞く。
「目つきは、あの人に似てきた」
「嫌ですか」
「怖いわ」
母は正直に言った。
「あなたまで、守るためなら自分が残ればいいと思う人になるのが怖い」
父の最後を知らない母が、それでも父の選び方を知っていた。
一緒に生きた年月が、死の場面より長い。
「俺も怖いです」
「では、怖いときは言って」
「痛い時みたいに?」
「同じよ。隠した人から悪くなる」
母は立ち上がろうとした。
一度では立てない。
俺へ手を伸ばす。
今度は、頼るまでに迷わなかった。
腕を貸すと、母は墓へ背を向ける前に一度だけ言った。
「愛していました。許してはいなかった。それでも....それでも、もっと一緒に生きたかった」
帰り道、母は一度も振り返らず、パン屋の前でまた一つ、丸パンを買った。
「今度は誰の分です」
「夕食を残しそうな人の分」
屋敷にいる誰かは、聞かなくても分かった。
夕食では、母の器を押さえるためにリーナが隣へ座る。
ソフィアは報告書を食卓の外へ追いやり、テオは止めた商品の話を我慢できずに始める。
昔と同じ席は一つもない。それでも母は、買ってきた丸パンを自分で二つに割った。
片方を俺へ渡し、もう片方を、空席ではなく自分の皿へ置いた。
墓へ向かう途中で半分にした丸パンを、帰り道でもう一つ。
食卓では、商品の話を始めたいテオが待っている。
母が自分の皿へ置いた半分も、今夜は誰かに譲らず食べられるといい。
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次回9/28日~、2部2章からは3話連続投稿。
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