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灰冠の指輪 ~愛を知らず死んだ俺は、異世界で没落マフィアを再建する~  作者: ぬゅうた
第2部<母の帰還と新しい居場所> 1章 白い灯をたどる

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第54話 母は母のまま



二日目、母は俺の名を呼ばなかった。


朝から調子が悪い、と院長に聞いた。


昨夜ほとんど眠れず、廊下を歩く足音で三度、寝台の下へ隠れたという。


面会するかは、母が決める。


昼まで待った。


午後になって、今日は会わないと伝言が来た。


「昨日、来てと言った」


俺は受付で言った。


修道女は困った顔をしない。


何度も同じ言葉を受けてきた人の顔だった。


「昨日は、昨日のエミリアさんです」


正しかった。正しいだけに、怒りをぶつける隙がなかった。


門の外へ出ると、ソフィアが待っていた。


「会えた?」


「会わないと」


「そう」


「来いと言ったのに」


「そうね」


「何か言え」


「腹を立てていい。でも、扉は開けられない」


「分かっている」


「分かっている顔を――」


「今日は、それを言うな」


ソフィアは口を閉じた。


俺たちは麦畑の道を歩いた。


護衛のマルコは十歩後ろ。


話さない時間を守る距離だった。


母が生きていると分かれば、止まっていた年月が一度に動き出すと思っていた。


実際には、療養院の扉は昨日開いて今日閉じた。


手掛かりを集めれば先へ進めた捜索と違い、ここでは相手の朝が来るまで待つしかない。



三日目、母は食堂にいた。


俺を見ると、先に謝った。


「昨日は、ごめんなさい」


「会えないことを?」


「来てと言ったのに、待たせたことを」


「会いたくなかった?」


「会いたかった。会うと、あなたが五歳ではないと分かるから、怖かった」


俺も似たことを考えていた。


知らない母を見るのが怖い。


同じ恐れでも、十年間待たせた側と待った側で重さは違う。


似ているから同じ、にはしない。


「今日は、二人を紹介します」


リーナとソフィアを呼んだ。


母は最初にリーナを見た。


白い前掛け。


診療記録を抱える癖。


「大きくなったわね」


「はい」


リーナの声が硬い。


「診療所を守ってくれたのね」


「守れなかった時もあります」


「それでも――」


「奥様」


リーナは母の言葉を止めた。


「山の産屋で、眠り草を二匙使おうとしましたか」


俺は聞いていなかった質問だった。


最初の再会で、憧れた医師へ礼を言うと思っていた。


リーナは診療記録を先にした。


母の右手が震える。


「はい」


「往診簿に量を書かなかった」


「はい」


「なぜです」


「怖かった。医師でなくなるのが」


「患者が死ぬより?」


食堂の空気が固まった。


院長は止めない。


母も逃げなかった。


「あの時は、自分の間違いを認めれば、もう誰も助けられないと思った。

だから、結果として助かったことを使って、量を隠した」


「いまなら、どう記録します」


「投与前に制止。予定量は過量。産婆マーヤの判断で減量。医師エミリアの判断誤り」


リーナは鞄から証言書を出した。


最後の行へ、母自身に書かせた。


震える字。


数字の下に引く線。


十年前に薄くした記録が、ようやく一枚になった。


書き終えた母へ、リーナが頭を下げる。


「お帰りなさい、奥様」


順番が逆に見えた。


リーナにとっては、これが正しい順だった。


母は泣かなかった。


「ただいま、と言っていいのかしら」


「まだ療養院です」


「そうね」


二人とも少し笑った。


次に、ソフィアが向かいへ座った。


「ソフィア・オルシーニです」


母の顔から笑みが消えた。


オルシーニの名。

劇場街の襲撃。

父の死後、利益を得た家。


「レオーネの、共同事業者です」


ソフィアは続けた。


「恋人でもあります」


母が俺を見る。


俺は頷いた。


「あなたのお父様を、私は知っています」


「私も、あなたが父の劇場で診療していたことを知りました」


ソフィアは診察券を机へ置いた。


「これは、父が隠していました」


「守るために?」


「父自身の関与も隠すために」


母はカードへ手を伸ばし、途中で止めた。


「あの子は」


「カルロは生きています。舞台装置の職人です」


「腕は」


「少し曲がったままです」


母は目を閉じた。


「私が診た。

オルシーニの若者が場所を売って、追っ手が腕を折った。

でも、治療費を出したのもオルシーニだった」


「父は、自分の名を隠して」


「ええ」


カルロの曲がった腕には、オルシーニの脅しと治療費が一緒に残っていた。


「あなたを、お父様の代わりに責めるつもりはありません」


母が言った。


「ありがとうございます、とは言いません」


ソフィアは答えた。


「責めないことは、贈り物ではないから」


母はしばらく彼女を見た。


「レオーネが、あなたを好きな理由が少し分かった」


「少しで十分です」


俺のいないところで話してほしかった。


耳が熱い。



四日目、母は薬を一回分、多く飲もうとした。


朝の薬を飲んだことを忘れ、昼の箱へ手を伸ばした。


看護人が止めた。


「寝ていなかったから」と母は言い、すぐに口を閉じた。


言い訳にしたと自分で気づいたらしい。


「忘れました」


言い直す。


翌日から、薬箱に朝・昼・夜の色札を付けた。


母はその札を嫌がった。


「患者みたい」


「患者です」


院長とリーナが同時に言った。


俺まで笑ってしまった。


母は不満そうに二人を見て、それから自分も笑った。


色札を嫌がる母を見て、俺たちは笑った。十年前の二匙には誰も笑わなかった。


母もその違いを分かっていた。笑いが止んだ後、自分から昼の箱を看護人へ返した。



五日目、帰港について話し合った。


母は帰りたいと言った。


院長は、完全な退院には反対した。


長旅、鐘の多い港、人の出入り、ベランディ家という名そのもの。


症状を悪化させる要因が多い。


「では、どうすれば」


俺は聞いた。


「まず二週間、王都の外来宿へ移る。

夜間の状態を確認。

港へ戻った後も担当医を決め、月ごとに報告を送る。

一日に働く時間を制限する」


母が口を挟む。


「働けます」


「働けることと、働いてよい時間は別です」


リーナが言った。


「診療所へ戻っても、所長は私です」


母の灰色の目が、大きくなる。


「もちろん」


答えるまでに、ほんの少し間があった。


それを誰も見逃さなかった。


母は母のままだった。


患者を先にし、自分を後回しにし、そのことを善だと思い、間違いを認めるまで少し時間がかかる。


十年で弱くなっただけでも、聖人になったわけでもない。


「一日二時間。週に三日。必ず別の医師が同席」


リーナが条件を出す。


「相談役として。診療所の最終判断は私か担当医が行います」


母は右手を左手で押さえた。


「分かりました」


今度は、間を置かずに答えた。



六日目、母の方から父の話をしたいと言った。


面会室は庭より狭かった。


卓と椅子が二つ。


窓の外には、刈り入れ前の麦が揺れている。


俺は灰冠の指輪をはめず、白い布へ包んで持ってきた。


母は、布の形を見ただけで分かった。


「触ってもいい?」


「母上の物でもあったでしょう」


「ヴィットリオの物よ。いまは、あなたの物」


許可を待つ手が震えている。


俺は卓の中央へ置いた。

母は左手で布を開いた。


灰色の輪が、午後の光を受ける。


指へ通そうとはしない。


掌にも載せない。


布の上へ置いたまま、縁を一度だけ撫でた。


「最期は、苦しんだ?」


最初の質問だった。


「分かりません」


答えると、母の指が止まった。


「聞かなかったの?」


「聞けませんでした。誰が何発撃ったかを聞けば、父の死を戦いの話にしてしまいそうで」


「そう」


責められると思った。


母は、責めなかった。


「私も、確かめなかった」


同じにしようとした言葉ではない。


自分の逃げた場所を、もう一度示しただけ。


泣くでも、怒るでもない。


「最後に聞いた父の言葉は、生きろ、でした」


母が顔を伏せた。


笑ったようにも見えた。


「あの人らしい」


「らしいですか」


「自分は残るくせに、あなたには生きろと言う。ずるい人だった」


声の最後が掠れた。


「母上への最後の言葉は?」


母は長く黙った。


「食堂で、塩漬け肉を残さないで、と言われたわ」


「父が?」


「私が往診へ出る朝だった。あの人、自分の皿の肉を私の皿へ移したの。

忙しい時ほど食べろと言って」


「母上が、いつも言っていたことだ」


「ええ。私の言葉を、自分が考えたような顔で返した」


その朝、母は腹を立てていた。


診療所の周りへ護衛を増やすと父が決め、患者が怯えるから減らしてくれと母が言った。


父は危険だと答えた。


母は、あなたの部下が立つことも危険なのだと言った。


二人とも、相手の危険だけを大きく見た。


「それで、喧嘩したまま別れた?」


「喧嘩を終えないまま、いつもの朝みたいに出た。帰ったら続きを話すつもりだった」


帰れなかった朝は、別れの形をしていない。


だから十年経っても、母の中では会話の続きが残っていた。


「父さんは、母上のことを話しました」


母が顔を上げる。


「仕事を許しているのかと、俺が聞いた」


「あの人は何て?」


「許してはいない。一緒に生きている、と」


母の呼吸が止まった。


右手が大きく震える。

左手で押さえても止まらない。


「そんなふうに、言えたのね」


「母上には言わなかった?」


「言わない。私が責めると、黙って豆を食べていた」


「豆が嫌いだったからでは」


「嫌いだったわ」


母は泣きながら笑った。


涙を拭こうとした右手が頬へ届かない。


俺が布を差し出す。


母は受け取らず、左の袖で拭った。


きれいな泣き方ではなかった。


鼻をすすり、息を何度も取り損ね、途中で窓を開けてほしいと言った。


俺は窓を開けた。


麦の匂いが入る。


「許さないまま、一緒に年を取りたかった」


母は窓の外を見て言った。


「あの人が傷つけた人へ払い続けて、喧嘩をして、食事をさせて。

いつか私が先に死んだら、薬の箱を勝手に片づけないよう言うつもりだった」


「父は片づけないと思います」


「箱ごと地下室へしまう人よ」


あり得たはずの老後を、二人で少しだけ話した。


父は杖を嫌がっただろう。

母は診療所を辞めなかっただろう。

二人とも、俺の結婚相手へ口を出しただろう。


「ソフィアを見たら、父は何と言ったと思う?」


「相手の家の帳簿を先に見せろ」


「母上は?」


「食べたか聞くわ」


同じ答えに、また笑った。


笑った後の沈黙で、父が死んだことだけが残る。


母は灰冠の輪へ触れた。


「返してくれて、ありがとう」


「返していません」


「言葉をよ」


父が母へ直接言えなかった言葉を、十年遅れて渡した。


それで悲しみが軽くなるわけではない。


ただ、母が知らなかった夫と、俺が知らなかった父が、同じ卓の上に少しだけ近づいた。


帰る準備は、再会より多くの紙を要した。


紹介状。

薬の一覧。

発作時の対処。

面会を断る権利。


本人が働きたがった時に、周囲が止める権限。


どの紙も、母を昔の席へ戻すためではない。

戻った家が、弱った手へ昔の責任を押し戻さないためにあった。


俺は全部に署名した。


母も震える手で署名した。


帰港は、まだ二週間先。


見つけたからといって、すぐ連れて帰らない。


二週間という字を、母は震える手で丸く囲んだ。


すぐ連れ帰らないことが、見つけた母へ俺が初めてできた世話になった。




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