第53話 王都の静かな病室
聖アニェッラ療養院には、鐘がなかった。
王都北門から馬車で半日。
麦畑の外れに、白い石造りの建物が三棟ある。
修道院の形だが、塔の上は空だった。
「音を怖がる患者が多いからです」
見上げる俺たちを見て、門番が言った。
訪問票へ四人分の名を書く。
武器は預けた。
マルコは短銃だけでなく、杖の中に仕込んだ細剣まで外した。
門番が眉を上げる。
「散歩には物騒ですね」
「足が悪いので」
「剣の方が?」
「私の方が」
マルコは真顔だった。
笑うところか、門番が迷っている。
俺は笑えなかった。
ここへ着くまでの四日間、手紙を胸元から出さなかった。
宿では戸口へ椅子を置いた。
眠るたび、療養院が空になっている夢を見た。
ジーノの仲間が先に来て、母はもう移された。
それか、そもそも、母などいない。
目覚めるたび、四枚の紙を確かめた。
受付の修道女へ名を告げる。
「エミリア・ベランディに面会したい」
彼女は名簿を開き、最初の頁から見た。
二度。
三度。
「その名の患者はいません」
聞こえていたのに、意味が身体へ入ってこなかった。
「十年以上前から、ここにいるはずです」
「入院記録にもありません」
「手紙が来た」
俺は封筒を出した。
修道女が封蝋を見る。
「これは当院の印ではありません」
分かっていた。
白灯の古い印だ。
それでも、否定される言葉が一つ増えるたび、椅子の背が遠くなる。
ソフィアが俺の前へ半歩出た。
「別名の患者を照合できますか。年齢は五十歳前後。右手に震え。
左耳の聴力低下がある可能性。出身はヴァレノ港」
受付係は首を振った。
「患者の別名を、ご家族だというだけでは」
「正しいです」
リーナが劇場の診察券を出す。
封を切らず、机へ置いた。
「私はヴァレノ診療所の記録係で、医療補助資格を持っています。
こちらは患者本人の古い診療記録です。
院長か担当医に、記録同士の照合をお願いします。
私たちは結果が出るまで中へ入りません」
母を見つけたい。
だがその焦りで、療養院の患者全員の名前を開かせれば、白灯を追った者と同じになる。
待機を、とのことで案内された待合室へ座った。
壁は薄い青。
窓に鉄格子はない。
庭へ続く扉には鍵がある。
庭の薔薇は見えるのに、取っ手は受付側にしかない。
療養院は、閉じ込めていることを鉄格子で見せない場所だった。
一時間経った。
誰も話さない。
二時間目、マルコが水を取りに立った。
戻ってきた盆には、俺の分だけ薄い茶がある。
「飲め」
「いらない」
「エミリア様なら、そう言わないでしょう」
「母を材料にするな」
強い声が出た。
待合室の奥で、患者らしい老人が肩を揺らす。
俺は謝った。
マルコにも。
茶を一口飲む。
冷めていた。
「若頭」
マルコは向かいに座った。
「見つからなかった場合も、帰りの馬車はあります」
「慰めか」
「予定の確認です」
彼らしい。
三時間目に、院長が来た。
六十代の女性医師。
診察券と手紙を持っている。
「患者本人が、面会を希望しています」
俺は立ち上がった。
足が椅子へ当たり、大きな音がした。
「ただし、条件があります」
面会は最初、家族一人と医療者一人。
二十分。
患者が中止の合図をしたら、理由を問わず終える。
武器だけでなく、指輪も外す。
「指輪も?」
「金属を怖がる患者がいます。彼女も、以前はそうでした」
ぼかしているが、単純に金属という意味だけではないだろう。
父の灰冠を外す。
受付の布袋へ入れ、番号札を受け取る。
指の付け根が白い。
重さが消えても、感覚は残った。
同行はリーナにした。
ソフィアは何も言わず、頷いた。
廊下を三つ曲がる。
消毒酒ではなく、煮た林檎の匂いがした。
窓辺で本を読む者。
壁へ向かい、指で何かを数える者。
看護人と一緒に毛糸を巻く者。
母は、どれだ。
庭へ出た。
白い髪の女性が二人いる。
一人がこちらを見た。
胸が止まりかける。
知らない顔だった。
女性は俺の後ろを見て、看護人へ手を振った。
もう一人は、背を向けている。
肩の線。
首を少し右へ傾ける癖。
五歳の記憶より細く、低く見えた。
「エミリアさん」
院長が呼ぶ。
女性は左からの声に反応しない。
右側へ回って、もう一度呼ぶ。
ゆっくり振り向いた。
灰色の瞳。
鏡を見るたび、父から受け継いだと思っていた色が、そこにあった。
母の目は、最初に俺の顔を見なかった。
左手、次に胸元。
最後に、顔へ。
「レオーネ」
声は、台詞箱より低かった。
俺は何を言うか決めていなかった。
責めたい。
抱きしめてほしい。
生きていたと叫びたい。
十年遅いと言いたい。
どれも口から出なかった。
母が先に言った。
「食べた?」
五歳の朝と同じ言葉だった。
「……食べました」
声が壊れた。
母は立とうとした。
椅子の脚へ足を引っかける。
リーナが動くより先に、俺が腕を支えた。
軽かった。
記憶の中の母は、俺を抱き上げられた。
いまは、俺の腕に体重を預けている。
右手が俺の頬へ上がる。
途中で震えが強くなり、止まった。
俺は身を屈め、手へ頬を近づけた。
冷たい指先。
薬草の匂い。
この手が母だと、身体の方が先に知っていた。
「大きくなった」
「十年です」
責める言葉になった。
母の指が頬から離れる。
「そうね」
「手紙を書けた」
「書けた」
「なぜ、もっと前に書かなかった」
院長が時計を見る。
まだ止めない。
母は椅子へ座り直した。
「最初は、追っ手から守るためだと思っていた」
「いつまで」
「一年くらい」
「その後は」
「あなたの顔を見るのが怖かった」
使命ではなかった。
病気だけでもなかった。
「嫌われるのが?」
「捨てたと、あなたの顔に書いてあるのを見るのが」
「書いてあります」
「ええ」
母は否定しなかった。
「療養院へ来た頃は、鐘の音で机の下へ隠れた。
自分の名前を聞くと、息ができなかった。
それが治ってからも、手紙を書かなかった。
病気を理由にして、怖さを隠した」
「俺は、死んだと思っていた」
「ごめんなさい」
「父も死んだ」
母の表情が止まった。
知っている顔ではない。
「知らなかった?」
「噂で、数年前に。確かめられなかった」
「確かめなかった」
「そうね」
怒りが湧いた。
父の死を一人で受けた夜。
指輪をはめた朝。
六分の一になった家。
母が生きていた喜びのすぐ隣へ、十年分の空席が椅子を引いた。
抱きしめれば消えると思っていた五歳の俺と、消えないと知っている今の俺が、同じ喉で息をした。
「あなたを許せるか、分かりません」
「許さなくていい」
「それを、あなたが決めないでください」
母が目を見開く。
それから、少しだけ頷いた。
「ごめんなさい。いまのも、逃げる言い方だった」
完璧な謝罪ではない。
言われて気づき、言い直す。
山の産屋と同じだった。
二十分の鐘は鳴らない。
院長が、卓を指で二度叩いた。
母の肩が跳ねる。
「今日は、ここまで」
母が言った。
中止の合図だった。
もっと聞きたい。
帰るのかと聞きたい。
今度こそ、俺を選ぶのかと聞きたい。
「明日も来ていいですか」
「来て」
母の返事は早かった。
「一人ではなく?」
「あなたが一緒に来た人を、私にも紹介して」
庭を出るまで、振り返らなかった。
廊下へ戻ったところで、足が止まる。
リーナが隣にいる。
彼女は泣いていた。
俺も泣いていると、そこで気づいた。
声は出なかった。
壁へ手をつき、しばらく動けなかった。
母は生きていた。
胸がほどけるほど嬉しいのに、頬を伝う涙は腹立たしいほど熱かった。
静かな廊下で、俺はどちらも拭わなかった。
母は生きていた。
最初に交わしたのは、十年分の謝罪でも問いでもなく、「食べた?」。
二十分で言葉は尽きず、明日の面会だけが残った。
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