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灰冠の指輪 ~愛を知らず死んだ俺は、異世界で没落マフィアを再建する~  作者: ぬゅうた
第2部<母の帰還と新しい居場所> 1章 白い灯をたどる

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第52話 偽の白灯



劇場街を出る前に、白い灯が二つ届いた。


一つは宿の窓へ。


もう一つは、俺たちの馬車の御者台へ。


どちらにも差出人の名はない。


白い蝋燭の芯へ、赤い糸が一本巻かれていた。


「白灯の救援符丁です」


リーナが言う。


「意味は?」


「負傷者一人。追跡なし。医師を一人だけ寄越せ」


母の手紙には、一人では来るなとある。


符丁は、一人だけ来いと告げている。


「本物なら、困っている患者がいる」


リーナは蝋燭を見た。


偽物だと切り捨てるには、彼女が知りすぎている印だった。


「本物でも、従わない」


俺は言った。


「患者がいる可能性を捨てるのですか」


「一人で行け、だけを捨てる。診療は別の医師を手配する」


劇場医務室から医師を一人、護衛を二人。


俺たちは少し遅れて別の道を使う。


白灯の指示どおりに動く者と、動かない者を分けた。


罠であれば、どちらを見ているか分かる。


指定場所は、劇場街南門の外にある廃陶器工房だった。


窯の煙突は崩れ、庭に白い皿の破片が散っている。


医師の馬車が正面へ着く。


誰も出てこない。


三分後、二階の窓に白い灯がともった。


一つ。


追跡なし、の合図。


だが灯りの位置が低すぎる。


「窓台ではなく、床へ置いてる」


リーナが小声で言った。


「外から見せる印なのに、なぜ」


「置いた者が、印の意味だけ知っていて使い方を知らない」


マルコは裏手の塀を見た。


新しい泥が一か所だけ剥げている。


誰かが何度も乗り越えた跡だ。


ソフィアは地面の轍を調べる。


荷馬車二台。


一台は今朝入り、出ていない。


「人質がいるかもしれない」


「患者かも」


「同じことです」


正面の医師には、合図どおり待たせる。


俺とマルコは北の塀。


ソフィアとリーナは西の物置。


劇場警備の二人を、南の逃げ道へ回した。


突入の合図は出さない。


先に声を掛ける。


「白灯の要請を受けて来た!」


医師が正面で叫ぶ。


中から返事があった。


「レオーネを」


女の声。


「レオーネを、ひとりで」


胸が強く打った。


母の声に似ている。


五歳の頃、熱を出した夜に聞いた高さ。


記憶は、十年で都合よく丸くなる。


似ていると言われれば、似ているところだけを拾ってしまう。


俺は塀へ掛けた手に力を入れた。


マルコが首を横に振る。


まだだ。


「患者の容体を!」


医師が返す。


「レオーネを。ひとりで」


同じ言葉。


間も、抑揚も同じだった。


三度目も、一音も変わらない。


生の声ではない。


工房の奥で、細い金属板が震える音がした。


劇場で使う台詞箱。


俳優が吹き込んだ短い声を、溝の付いた蝋筒と薄板で数回だけ再生する道具だ。


高価で、音は悪い。


それでも、思い出の声に飢えた人間を一歩動かすには足りる。


「母の声ではない」


口にして、自分へ言い聞かせた。


塀を越える。


庭には見張りが一人。


こちらへ気づき、短銃へ手を伸ばす。


マルコの杖が手首を打った。


銃を落とす。


俺は男の襟を掴み、地面へ押さえた。


発砲はない。


西側で窓硝子が割れた。


ソフィアたちが物置へ入った音だ。


正面扉が内側から開く。


医師の護衛が一人を取り押さえる。


二階へ上がると、声の主がいた。


母ではない。


白髪の女優だった。


椅子へ縛られ、口元に打撲がある。


「すみません」


縄を切る前から、彼女は謝った。


「台詞を読まされた。息子の名を呼べば、孫を帰すと」


「孫はどこに」


「下に」


西の物置で、リーナが十歳ほどの少年を見つけていた。


薬で眠らされているが、呼吸は安定している。


符丁は偽物だった。椅子の老婆の腫れた口と、物置で眠る少年だけが本物だった。


工房の主は、裏口から逃げようとして劇場警備に捕まった。


名をジーノ・ヴェッキオ。


かつてサルヴィ家の記録係で、家が崩れた後は手紙と印の偽造を請け負っていた。


「誰の命令だ」


一階の作業台へ座らせる。


「命令なんかない」


「では、何が欲しかった」


「灰冠の若頭を一人で捕まえれば、買う奴はいくらでもいる」


「誰に売るつもりだった」


「まだ決めてない」


嘘だった。


だが拷問はしない。


作業台を調べる。


偽の封蝋。


白灯の古い符丁表。


台詞箱の蝋筒。


王都北部の療養施設一覧。


その中で、聖アニェッラだけに赤い丸が付いている。


「母の居場所を、どこで知った」


ジーノの目が一覧へ動いた。


「知らない」


「なら、なぜここに丸がある」


「客が付けた」


「客の名は」


「言えば殺される」


「言わなくても、誘拐と監禁で警吏へ渡す」


「あんたの地下室じゃないのか」


「公開の牢だ」


彼は鼻で笑った。捕らえた相手を地下室へ入れる家で働いてきた男には、警吏へ渡すという言葉の方が脅しに聞こえたらしい。


正面へ警吏を呼び、証拠を一つずつ引き渡した。


女優と孫の証言も、その場で二通取る。


ジーノ本人にも、押収品の一覧へ署名させた。


「本当に渡すのか」


「逃がしてほしいなら、取引材料を出せ」


「出せば逃がす?」


「逃がさない。裁判で協力を記録させる」


「それのどこが取引だ」


「お前が選べる範囲を、正確に言っている」


ジーノは唾を吐いた。


それでも、警吏の馬車へ乗せられる直前に一つ話した。


療養院一覧は、失踪した御者から買った。


御者は手紙の差出人を見ていない。


白い服の看護人から封筒を受け取り、港の修道院へ渡すはずだった。


途中でジーノの仲間が金を払い、封筒を開け、写しを取った。


原本はそのまま届けた。


「御者はどこだ」


「金を持って逃げた。俺も探してる」


殺されてはいない可能性が増えた。


だが、母の手紙は少なくとも一度、敵の手を通っている。


聖アニェッラの名も知られた。


急ぐ必要がある。


女優が帰る前、俺を呼び止めた。


「声は、似ていましたか」


「少し」


「誰の声かは知らされなかった。台本に、母親のように読めと」


「あなたのせいではありません」


「そう言っても、あなたは傷ついた」


否定しなかった。


彼女の罪ではない傷を、彼女が背負う必要もない。


「孫を先に」


俺が言うと、女優は少年のいる馬車へ向かった。


生きている者を先に。


母の手紙と同じだった。


少年が目を覚ますまで、女優は工房の外へ出なかった。


俺たちも待った。


急ぐべき王都への道がある。


それでも、救い出した者の呼吸を確認する前に立ち去れば、罠だけを解いたことになる。


夕方、少年が祖母の名を呼んだ。


女優は返事をし、何度も額へ触れた。


その声は、台詞箱から聞いたものと同じだった。


同じなのに、今は母の声に聞こえない。


間がある。


少年の呼吸へ合わせて高さが変わる。


返事を待って、次の言葉を選んでいる。


記憶の中の母の声も、そうだったはずだ。


熱はあるか。


食べたか。


痛いなら言え。


いつも俺の返事を待っていた。


台詞箱は言葉だけを似せた。


待つ時間までは盗めなかった。


「私は、上手く読みすぎました」


女優が言った。


「母親らしく、と言われたから。客席の誰もが母を思い出せる声にした」


「だから、俺も思い出した」


「本当のお母様の声は?」


答えようとして、出てこなかった。


高かったか、低かったか。


笑う時に息が混じったか。


十年前の声を、俺はもう正確に持っていない。


「分かりません」


口にすると、偽物を見抜いた時より痛んだ。


女優は謝らなかった。


代わりに、眠り直した孫の髪を撫でる。


「会えたら、新しい声を覚えられます」


「同じ声ではなくても?」


「役者は毎晩、同じ台詞を違う声で言います。それでも、相手が返した言葉まで同じにはなりません」


慰めとしては整いすぎていた。舞台で磨かれた言葉だと分かっていても、今は突き返す力がなかった。


会えれば、昔の声を取り戻すのではない。


いまの母が、俺の言葉へ何と返すかを覚えられる。


母の声を忘れかけても、母が何を先にしたかは覚えていた。


少年の呼吸へ合わせて言葉を変える老婆を見て、声とは高さではなく、返事を待つ時間なのだと知った。


俺たちも同じ道を王都へ行く。


聖アニェッラまで、馬車で四日。


偽物の白い灯を指で消すと、赤い糸が焦げて縮んだ。


煙の向こうに残った聖アニェッラの名は、朝より近く、朝より危険に見えた。


【用語紹介】

・台詞箱

溝のついた蝋筒と薄い金属板で、吹き込まれた短い声を数回だけ再生する劇場道具。

高価で、音は粗く、同じ言葉と抑揚しか返せないが、劇の練習には有用。


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