第51.5話 劇場街の診察券
ある日、ソフィアは父の劇場へ一人で入った。
正面玄関ではない。
衣装倉庫の裏にある、出演者用の細い扉からだった。
子供の頃は、ここを使えば父に見つからないと思っていた。
実際には、アルベルト・オルシーニは娘がどの扉を使ったか、夕食前には全部知っていた。
夕食の席で「裏口の蝶番が鳴る」とだけ言われた時、見逃されたのだと知った。
父は自由まで帳簿につける男だった。
舞台では、夜公演の稽古をしている。
女優が恋人の死を嘆き、同じ台詞を三度やり直す。
一度目は声が大きすぎる。
二度目は美しすぎる。
三度目で演出家が頷いた。
本当の悲しみに、客席から見える形を与える仕事。
ソフィアは足を止めず、地下へ下りた。
十年前、劇場の裏には白灯の診察室があった。
踊り子、舞台係、娼婦、住民票を持たない子供。
表の医院へ行けば名前を売られる者が、裏口から来た。
いまは衣装の染料庫になっている。
棚に診察券はない。
あるはずもない。
オルシーニ家は記録を捨てない。
だから、ここにはない。
ソフィアは父の執務室へ上がった。
アルベルトは、夜公演の売上予測を見ていた。
「ノックを忘れたか」
「娘がどの扉を使ったか、ご存じでしょう」
「裏口だな。連れは」
「いません」
父の目が細くなる。
護衛を外して来たことを叱りたい、そういう目だ。
だが、先に用件を聞く。
「エミリア・ベランディの診察券を見せて」
ペン先が止まった。
「患者記録は、劇場の帳簿ではない」
「だから、あなたが持っている」
父は否定しなかった。
沈黙の後、父は机の右側にある鍵を取った。
壁の金庫ではない。
窓際の、小さな薬箱を開ける。
中にカードが七枚あった。
すべて、すでに死んだ者の名だという。
一番下だけ、名がない。
女、三十代後半。
右手震顫。
睡眠障害。
音への過敏。
発作時、白い灯を見ると呼吸が速くなる。
治療継続を勧めるも、本人が拒否。
「これが、エミリア?」
「筆跡が同じだ」
診察欄の一部は、患者自身が書いていた。
医師が足りず、自分で症状を記録したらしい。
日付は、山の産屋から二か月後。
母親を捜す旅で、最初に見つかった母親自身の患者記録だった。
「なぜ、レオーネへ渡さなかったの」
「渡せば、あの頃の彼は一人で追った」
「いまは?」
「いまのお前たちなら、ここへ来る」
「答えになっていない」
「答えたくない」
父は、珍しく言葉を選ばなかった。
「お前が十五の頃にこれを渡せば、レオーネの所へ走った。
彼へ渡せば王都へ走った。二人とも、自分だけが傷つけば済む顔をしていた」
「それを止めるためなら、隠してよかった?」
「よかったとは言っていない」
「では、なぜ今日まで」
アルベルトは売上予測の紙を裏返した。
数字を見ないための動作に見えた。
「渡す日を逃した」
「十年も?」
「最初の一日は、お前たちを守るためだと思った。
次の一月は、オルシーニの関与を隠すためだ。
その後は、昨日まで隠したものを今日出す理由がなくなった」
「怖かったのね」
「そうだ」
認めた。
レオーネの母も、追跡から守る理由の後ろへ恐れを隠した。
自分の父も同じだった。
守るという言葉は、強い者が怯えていることを見えなくする時がある。
「私が来なかったら、いつ渡した?」
「中央か白灯が先に動いた時だ」
「また、必要になってから」
「ああ」
「父上は、私が小さい頃から何でも知っていた」
「知ろうとした」
「私が鐘楼へ行ったことも。レオーネと会ったことも。敵の家の子と友達になったことも」
「知っていた」
「なのに、私が何を失うかは、いつも父が先に決めた」
アルベルトは反論しなかった。
「今も、私たちが来られる年齢になったから渡すのではなく、私が取りに来たからでしょう」
「そうだ」
「なら、成長したのは父上ではないわ」
「知っている」
正しい返事だった。
アルベルトは椅子へ深く座った。
「診察室が襲われた夜、うちの若い者が二人、道を塞いだ」
「白灯を守るため?」
「逆だ。追っ手へ場所を教えた」
白灯が、オルシーニの保護する劇場で無断の診療をしている。
それを口実に金を取ろうとした。
小さな脅しのつもりだった。
追っ手が、子供の腕を折るまでは。
「父は知っていた?」
「後で」
いつ、とは言わない。
襲撃前か、襲撃後か。
その境目に、父の罪の大きさがある。
「後で、何をしたの」
「二人を劇場街から追放した。子供の治療費を払った」
「自分の名で?」
「白灯の寄付箱を通した」
善い行為をした。
責任者の名は隠した。
オルシーニ家の評判も、子供を売った若者が誰の部下だったかも、表へ出なかった。
「それで償ったつもり?」
「償いではない。損失の補填だ」
父は乾いた声で答えた。
「償いは、相手が決める。私は会っていない」
ソフィアは腹が立った。
正しい言葉を、正しい時に言わなかった男が、十年後には正しく説明できる。
それが成長なのか、遅すぎる弁明なのか、しなかっただけなのか。分からない。
「このカードを借ります」
「レオーネへ?」
「リーナへ」
父が意外そうに見る。
「患者記録よ。息子より先に、医師が扱う」
「あの男は怒るぞ」
「怒る権利はある。でも、先に見る権利があるとは限らない」
アルベルトはカードを封筒へ入れ、封蝋を押した。
オルシーニの紋章ではない。
劇場医務室の、小さな仮面印だった。
「一つ、伝えろ」
「誰に」
「エミリアの息子に。カードの最後の日、彼女は王都行きの役者一座へ薬箱を売った」
「一緒に行った?」
「乗せてほしいと頼み、断られた」
「なぜ」
「公演中に発作を起こした。座長が危険だと判断した」
母は、助ける者としても、隠れた英雄としても劇場を出ていない。
自分の身体を制御できず、同行を断られた患者として残っている。
「それでも王都へ行った形跡がある」
「翌週、別の荷馬車が出た」
「また一人で?」
「おそらく」
-一人では来ないでください。
十年後の手紙に書かれた一文が、別の重さを持った。
自分が一人で行き続けた失敗を、息子に繰り返させないための言葉。
執務室を出る前、ソフィアは振り返った。
「父上」
「何だ」
「子供の名は」
アルベルトは少し黙った。
「カルロ。いまは舞台装置の職人だ」
覚えていた。
そのことに安心した自分が、ソフィアは嫌だった。
名前を覚えているだけで、父のしたことが軽くなるわけではない。
それでも、忘れていなかったことを嬉しいと思う娘がいる。
襲撃を隠した口が、傷ついた子供の名を十年後も覚えている。
ソフィアは父を嫌い切れなかった。
しかし、自分の中でそれが父の弁明に使われるのが、いちばん腹立たしかった。
ソフィアは封筒を胸へ入れた。
レオーネに会う前に、リーナの部屋へ向かう。
レオーネの顔が浮かんだ。それでも足は、恋人の部屋ではなく医師の部屋へ向けた。
劇場では、女優が四度目の悲しみを演じていた。
今度は、客席のない暗がりで、演出家が静かに頷いた。
守るために隠した最初の一日と、渡す日を逃し続けた十年。
封筒は恋人ではなく、医師の部屋へ。
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