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灰冠の指輪 ~愛を知らず死んだ俺は、異世界で没落マフィアを再建する~  作者: ぬゅうた
第2部<母の帰還と新しい居場所> 1章 白い灯をたどる
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第51話 山に残った薬匙



セリオ峠へ向かう山道は、地図より細かった。


馬車が通れるのは麓まで。


そこから先は、荷を騾馬へ移す。


右に岩壁。左に谷。


足元には、春の雪解け水が走っている。


「十年前も、この道ですか」


リーナが案内人へ聞いた。


「道は同じだ。崖の形が違う」


「じゃあ、崖が動く?」


ソフィアが見上げる。


「雪の降りようで、毎年な」


案内人は何でもないことのように答えた。


地図では一本の線だった道が、雪解け水に半分食われている。


十年前の目印を探す俺たちの足元で、山は今年の形へ動いていた。



昼前、最初の崩落跡で足を止めた。


道幅の半分が谷へ落ち、丸太を二本渡してある。


騾馬を一頭ずつ通す。


俺の番で、右足の下から小石が崩れた。


身体が谷側へ傾く。


「危ない」


腕を掴んだのはマルコだった。


右膝が岩へ当たり、彼の顔が一瞬歪む。


「大丈夫か」


「若頭が先に聞かれることではありません」


「膝を打った」


「見ていました」


「なら」


「歩けます」


いつもの答えだった。


リーナが戻ってくる。


「休みます」


「必要ありません」


「診察ではなく、隊の判断です。ここで護衛が膝を腫らせば、帰りに一人減ります」


マルコは俺を見た。


いまは荷を下ろし、十分休むよう命じる。


生きている者を先に。


同行者を壊しながら、進み探した俺たちを母が見れば、幻滅するだろう。


だから逸る気持ちとは別に、歩幅はいつもより慎重で、ゆっくりしていた。



峠北側の集落へ着いたのは、夕方だった。


石造りの家が十二軒。


扉の上に、古い白布の切れ端が結ばれていた。


白灯の印ではない。


出産のある家を示す、山の習慣だという。


「エミリア・ベランディ」


名を出すと、集落の者は目を逸らし、そのあと目配せをする。


知らない反応ではない。


知っていて、どこまで話すか互いに測る反応だ。


村長は、十年前の冬に死んだと言った。


産婦も、赤ん坊も、記録はないと言った。


「記録がないのではなく、見せたくないのでは?」


ソフィアが聞く。


「街の女に、山の出産が分かるか」


村長の妻が言った。


「分かりません」


ソフィアは受けた。港ではなく、劇場だとは反論せずに。


「だから、分からないまま帰る前に、何を知られたくないのか聞いています」


言葉は柔らかいが、退路は狭い。


オルシーニの交渉だった。



沈黙の後、家畜小屋の裏から老婆が出てきた。


「薬匙なら、私が持ってる」


名はマーヤ。


当時、この谷でただ一人の産婆だった。


家へ招かれる。


炉の火は小さい。


壁には乾燥させた薬草と、山羊の骨盤が吊ってある。


マーヤは木箱から、銀色の匙を出した。


柄が左へ曲がっている。


母の手紙にあったもの。


俺は触れようとして、手を止めた。


「見ても?」


「持っていくなら駄目だ」


「持っていきません」


匙の内側には、薄い茶色の染みがある。


リーナが布越しに持ち、灯りへかざした。


「鉄錆ではない。薬草の色が銀へ移ってる。何を量ったんですか」


「眠り草」


マーヤが答えた。


その時、出産は難航していた。


産婦は二日眠れず、熱があり、痛みで呼吸が乱れていた。


母は、港から追われてこの谷へ着いたばかりだった。


自分も三日まともに眠っていない。


それでも医師だと名乗り、診察した。


「あの人は、腹の子の向きを当てた。

湯を沸かさせ、汚れた布を捨てさせ、男どもを外へ出した。そこまではよかった」


マーヤの指が、曲がった柄を撫でる。


「薬を二匙、入れようとした」


「二匙では多い」


リーナの声が低くなる。


「どの眠り草でも、産婦の体重なら一匙より少ない。熱があるなら、さらに減らす」


「だから、私が腕を打った」


匙が床へ落ちた。


母が拾おうとして踏み、柄を曲げた。


薬は半分こぼれた。


残りだけを湯へ入れ、産婦は短く眠った。


夜明け前、子供が生まれた。


母子ともに助かった。


「では、結果は」


俺が言いかける。


助かったなら。


その言葉を、飲み込んだ。


結果がよければ、量を誤った事実が消えるわけではない。


警報灯が消えた坑道で、俺たちが学んだことだ。


「私がいなければ、母親は呼吸を止めたかもしれない」


マーヤは言った。


「エミリアは、それを分かっていた」


「何と言いました」


「礼を言った。次に、自分は医師だから二匙で正しいと言った。夜が明けてから、また礼を言った」


一度目は反射。


その後、誇りが追いついた。


眠り、考え、ようやく失敗を認めた。


「手紙には、自分が赤ん坊へ過量投与しかけたと書いてありました」


俺が言うと、マーヤは目を細めた。


「書けるようになったか」


「当時は?」


「帳簿には『投与中止』とだけ書いた。量は書かなかった」


記録を重んじた母が、自分の失敗だけを薄くした。


その事実は、薬匙より重かった。


リーナが息を吐く。


怒っている。


憧れていた医師の間違いではなく、間違いを記録しなかったことに。


「往診簿の写しを、白灯へ送ったはずです」


「送ってない」


マーヤは炉へ薪を一本足した。


「エミリアが燃やした」


「なぜ」


「あの夜、白い灯を三つ並べた者がいた」


白灯の救援要請は、窓へ灯を一つ。


危険がある時は二つ。


三つという合図はない。


母は、追っ手が符丁を試していると気づいた。


患者の名と次の移動先が書かれた写しを、炉へ入れた。


「それは正しい判断では」


ソフィアが言う。


「ああ。ただし、全部燃やした」


マーヤは俺を見る。


「自分の息子へ送るつもりだった短い手紙も、一緒にな」


胸の内側が冷えた。


「内容は」


「読んでない。封に、レオーネとあった」


十年前。


母は俺へ書いた。


追跡を避けるために燃やした。


必要な判断だったかもしれない。


だが、その後に書き直すことはできた。


「あの人は、何と言っていました」


「正しいことをした、と」


「それだけ?」


「三日後、間違えたと言った。手紙を燃やしたことではなく、

正しいことをした顔で、自分が安心したことを」


マーヤは薬匙を箱へ戻した。


「エミリアはここから劇場街へ向かった。山の薬売りに化けてな」


「誰を頼った」


「頼らなかった。だから私は、一人で行くなと言った」


「聞きましたか」


「聞く女なら、二匙入れようとしない」


それでもマーヤは、母の外套へ薬草を詰め、谷の出口まで送った。



その夜はマーヤの家へ泊まった。


炉の火が落ちた後、彼女はもう一つだけ話した。


赤ん坊が生まれた朝、母は産婦へ子を渡す前に、ほんの短い間だけ抱いたという。


医師として呼吸を確かめるためだった。


それなのに、子の髪へ触れたまま手を離せなくなった。


「黒い髪だった?」


俺が聞く。


「濡れてたから、色なんぞ分からん」


「母は、何か言いましたか」


「息子も、生まれた時はこんなに軽かった、と」


俺のことだった。


母は、追っ手のいる谷で、知らない赤ん坊を抱きながら俺を思い出した。


そのことを知って、嬉しいと素直に思った。


「ほかには」


「息子は、自分を許すだろうかと聞いた」


「マーヤさんは、何と」


「子供に親を許す仕事をさせるな、と言った」


暗い炉の前で、マーヤは俺を見た。


「あれはお前の仕事じゃない。許すかどうかも、会うかどうかも、お前のものだ」


「母は、それを聞いた?」


「泣いた。だから、少しは聞いたと思った」


「それでも、一人で行った」


「聞くことと、できることは違う」


マーヤは火箸で灰を寄せた。


「私も、もっと強く止めればよかったと十年考えた。

だが、あの女を縛っておけたかと聞かれれば、できなかった。

できなかったことまで、したつもりで悔やむのはやめた」


リーナが隣で聞いていた。


「奥様は、赤ん坊へ何をしたんです」


医師の問いだった。


「泣くまで背を擦った。母親へ渡した。それから、曲がった匙を拾って、私に謝った」


曲がった匙には、量を誤った手と、その手を打った産婆と、

泣くまで赤ん坊の背を擦った指の跡が、同じ染みになって残っていた。


マーヤは母を止め、叱り、それでも谷の出口まで送った。


その心の内は、炉端へ大切にしまわれた匙が、もう答えていた。



翌朝、峠を下りた。


マルコの膝は腫れていた。


歩けると言ったが、帰りは騾馬へ乗せた。


「格好がつきません」


「母の失敗を聞いた翌日に、同じ失敗をするよりいい」


彼は反論せず、手綱を取った。


曲がった薬匙は、山に残した。


俺たちの物語のために持ち去らない。


代わりに、マーヤの証言を二通書いた。


一通は彼女へ。

一通はリーナの鞄へ。


胸の手紙は、山を下るたびに軽くなるどころか、体温を吸って重くなった。


それでも今は、紙の向こうにいるのが会って怒れる人だと、そう思えた。


【人物紹介】

・マーヤ

セリオ峠北側の集落で、ただ一人の産婆を務めた老婆。

十年前、薬を二匙入れようとしたエミリアの腕を打ち、母子を救った。

曲がった薬匙を炉端に残し、子供に親を許す仕事をさせるなとレオーネへ告げる。


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