↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
灰冠の指輪 ~愛を知らず死んだ俺は、異世界で没落マフィアを再建する~  作者: ぬゅうた
第2部<母の帰還と新しい居場所> 1章 白い灯をたどる

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

58/98

第50話 消えた往診簿



最初の手掛かりは、港の中にあった。


北埠頭の外れ。


塩蔵庫と船員宿の間に、窓を白く塗った二階家がある。


十年前までは白灯修道会の施療宿だった。


いまは洗濯物預かり所になっている。


「若頭が来る場所じゃありませんよ」


女主人は、扉を半分しか開けなかった。


「母の往診簿を見に来ました」


「ありません」


「燃えたと聞いています」


「なら、見られないでしょう」


閉めようとした扉を、マルコは押さえない。


「中へ入れたくない理由を、ここで聞いても?」


閉まる前に、ソフィアはそう声をかける。


通りでは荷車が行き、洗濯女が二人こちらを見ていた。


家の中へ入れば、通報されるだろう。


外なら、女主人が断ったことも、俺たちが扉を蹴らなかったことも証人がいる。


女は通りを見て、扉を開けた。


「十分、だけ」


一階は石鹸と湿った布の匂いがした。


奥の階段脇に、黒く焦げた柱が一本ある。


火事は十年前。


夜明け前、薬品棚から出火したと記録されている。


死者はいない。


だが往診簿と患者名簿の大半が焼けた。


「母が火を出したのですか」


「違う」


女主人は即答した。


それから、言いすぎた顔をした。


「誰が?」


「知らない」


「奥様」


リーナが、古い革鞄を開いた。


中から出したのは、施療宿へ薬を納めていた店の請求控えだった。


火事の翌朝にも、包帯、消毒酒、火傷薬が届けられている。


「建物の火事にしては、火傷薬が多い。負傷者がいたはずです」


女主人の目が、焦げた柱の向こうへ動いた。


そこに扉がある。


鍵は新しい。


「もう帰って」


俺は懐中時計を見た。


まだ六分だった。


「四分あります」


「ベランディは、時間まで取り立てるのかい」


「払ったものは」


女主人が俺を睨む。


俺は視線を外さなかった。


「母の手紙には、この家を焼かせたと書いてありました」


「エミリア様のせいじゃない」


「本人は、自分の失敗だと」


「あの人は、何でも自分の罪にした」


「それも失敗だったのかもしれません」


女主人の表情が、初めて崩れた。


怒りの下に、疲れがあった。


彼女は新しい鍵を外した。


扉の向こうは、物置ではない。


小さな寝台が一つ。


窓際に、三十代の男が座っている。


右脚が膝から不自然に曲がり、靴底の厚さが左右で違った。


「アンドレア」


手紙にあった名だ。


男は俺を見て、口の端を上げた。


「よく似てるな」


「母に?」


「父親にだよ。謝る前に、相手の逃げ道を見る目が」


女主人は彼の姉だった。


火事の夜、アンドレアは十九歳。


白灯の連絡役をしていた。


追っ手が宿を囲み、裏庭には幌馬車が一台だけあった。


乗せられるのは、寝たきりの老人と、熱を出した赤ん坊、それから負傷したアンドレアのうち二人。


「エミリア様は、老人と赤ん坊を選んだ」


姉が言う。


「俺にまだ歩けると言った」


アンドレアが続けた。


「あの時は、本当に歩けた。腿に破片が入ってたが、走れると思った」


「母は、あなたを残した」


「ああ」


「追っ手は?」


「火を付けた。姉さんが床下へ隠した。朝まで出られなかった」


傷に灰と汚水が入った。


感染が広がり、切断は免れたが、関節が固まった。


リーナが男の脚を見る。


「いま診ても?」


「治るのか」


「元には戻りません。痛みを減らせるかもしれない」


「なら、後で金額を聞く」


「診るだけなら取りません」


「そういう恩が一番高い」


母が残したものだった。


無料の治療が、後で沈黙を求める借りになる。


善意だけを受け取れないほど、彼は白灯とベランディの両方を知っていた。


「通常の診察料を払ってください」


リーナは言い直した。


「払えない場合は、診療所の分割規定を使います。ベランディへの恩には記録しません」


アンドレアは少し驚き、姉を見た。


「変わったな」


「人が変えました」


リーナの返事は静かだった。


往診簿について聞く。


焼けたのは事実だが、一冊だけ、火事の前にアンドレアが持ち出していた。


追跡先を悟らせないため、母に命じられたという。


「どこにある」


「捨てた」


「いつ」


「十年前」


「なぜ」


「脚がこうなった日に、あの人の命令を守る理由がなくなった」


嘘ではない。


だが全部でもない。


彼の右手の人差し指には、紙をめくる者特有の黒い汚れがある。


窓際の小卓には、薬の包みが五つ。


どれも同じ大きさに畳まれ、端へ小さな数字が書かれていた。


「往診簿を写しましたね」


ルカならもっと早く気づいただろう。


アンドレアの笑みが消えた。


「捨てる前に」


「何のために」


「俺を残した女が、何を先にしたか知りたかった」


彼は寝台の下から細長い木箱を出した。


中には帳簿そのものではなく、薄い紙片が百枚以上入っている。


患者名、年齢、症状、移動先。


一枚につき一人。


「憎むために写した。なのに読んでいくと、老人にも名前があった。赤ん坊にも母親がいた」


「それで、母を許した?」


「許してない」


即答だった。


「俺を選べと言ってるんじゃない。選んだ後、戻ってくると言ったんだ。エミリア様は戻らなかった」


母が選んだ二人は生きた。


選ばれなかった青年は、左右で高さの違う靴を十年履いた。


どちらを先に数えても、もう片方が紙の外へこぼれた。



紙片の束から、最後の三枚を見せてもらった。


火事の前日。


母は『セリオ峠北側、産屋』へ消毒酒と熱冷ましを運んでいる。


欄外には、薬匙の絵。


柄が左へ曲がっていた。


母の手紙にある、山の手掛かりと一致する。


さらに、その下へ別の筆跡で一文あった。


-白い灯を使うな。灯の数を数えられている。


「誰の字です」


リーナが聞く。


「知らない。帳簿を渡された時にはあった」


母の字ではない。


白灯の内部に、追跡を知っていた者がいる。


助けた者か。

売った者か。


手紙の警告が、十年前から続いていた。


俺は紙片を返した。


「持っていかないのか」


「あなたの記録です」


「母親を捜すのに要るだろ」


「写しを取らせてください。原本は、あなたが持っていた履歴まで含んでいる」


アンドレアはしばらく俺を見た。


「父親より面倒だな」


「よく言われます」


「母親には似てない」


その言葉が、思ったより胸に刺さった。


似ていたいのか、似ていたくないのか、自分でも分からない。



出る前に、リーナが診察の予約票を渡した。


通常料金。


支払い期限。


治療内容をベランディ家の人事記録へ載せないという一文。


アンドレアは受け取り、すぐには畳まなかった。


「エミリア様に会ったら」


「はい」


「俺がまだ歩いてると伝えろ」


「許したとは伝えません」


「当たり前だ」


俺はもう一枚、紙を出した。


「脚の治療費と、十年間に失った働き口について、補償を調べさせてください」


アンドレアの眉が動く。


「誰が払う」


「母の指示で動いた白灯と、母を追わせた者。それで足りなければ、ベランディ家から」


「金で戻ると思うか」


「戻らない」


「なら、いらない」


「戻らないものを理由に、払える分までゼロにしたくありません」


鉱山事故の後にも、同じ言い争いをした。


金で脚は伸びず、失った十年も戻らない。


それでも、痛む日に働けなかった分まで本人へ飲み込ませてよい理由にはならない。


火を付けたのは母ではない。

脚を切ったのも母ではない。


だが、戻ると約束し、戻らなかった。


戻らなかった約束に、値札は付けられない。


だが、値札が付かないものだけを残せば、払う側はいつでも逃げられる。


「いま決めなくていい」


俺は申請書を卓上へ置いた。


「受け取れば、母を許したことになる条項はありません」


「そんな条項を書く馬鹿がいるか」


「書かなくても、そう扱う者はいる」


アンドレアは申請書を裏返した。


署名はしない。


だが破りもしなかった。


「エミリア様が生きていたら、本人にも払わせろ」


「何を」


「戻らなかった理由を、俺の前で話す時間だ。金よりそっちを先に取り立てる」


「伝えます」


「連れてくるとは言わないんだな」


「母にも、ここへ来るか選ぶ権利があります」


「やはり、母親似だ」


今度は、アンドレアが少しだけ笑った。


外へ出ると、港の光が眩しかった。


山へ向かう馬車の手配をする。


母を捜す道の最初にあったのは、母が救った命ではない。


母が戻れなかった相手の、曲がった脚だった。


往診簿は焼け、一人分ずつ写された紙片だけが残った。

老人にも名前があり、赤ん坊にも母親がいる。

アンドレアは許さないまま、申請書を破らなかった。


--

評価、コメントはページ下部よりお気軽に。

作者の励みになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。