第49話 母の手紙
7章 白い灯をたどる
-生きている者を先に。だから、今度は私を探しなさい。
母の手紙は、その一文から始まっていた。
初夏の港は窓の外で騒いでいたが、船員宿の二階だけは息を潜めていた。
窓は閉めた。廊下にはテオとマルコが立ち、階下の出入口はブルーノの古参が見ている。
机の中央には、白い封筒。
父の指輪を重しにしても、便箋の端はわずかに持ち上がっていた。
風は入らない。
震えているのは、俺の手だった。
「もう一度、最初から読んでも?」
リーナが言った。
声は仕事のものだ。
目だけが赤い。
俺は便箋を渡した。
彼女は両手で受け取る。患者の記録を扱う時と同じ持ち方だった。
便箋は四枚ある。
最初の一枚には、俺の名がない。
二枚目にもない。
三枚目の半ばで、ようやくレオーネと書かれていた。
母は先に、三つの失敗を書いていた。
港の白灯宿を、一軒焼かせたこと。
山道で負傷者を運ぶ順を誤り、助かったはずの脚を一本失わせたこと。
俺へ連絡できる機会がありながら、追跡者だけでなく家族の顔を見ることも怖くて、十年近く逃げたこと。
謝罪の後に、言い訳はない。
ただ、当時どこにいて、誰が止め、何を残したかが書かれている。
港の欠けた往診簿。
山に残した、柄の曲がった薬匙。
劇場街で使わなかった診察券。
最後に、王都近郊の聖アニェッラ療養院。
-
私はそこにいます。
一人では来ないでください。
白い灯の印だけを信じないでください。
私も長いあいだ、印を信じすぎました。
-
注意書きの後に、母は初めて自分の気持ちを書いていた。
-
あなたの年齢を、私は途中まで数えていました。
十六、十七、十八。冬が来るたび、今年こそ書こうと思いました。
二十歳の冬から、数えるのをやめました。数えれば母親でいられるような気がして、それが卑怯に思えたからです。
けれど、数えなくなった後も、あなたが何歳かは忘れませんでした。
-
その四行だけ、文字が何度も上からなぞられている。
書いては薄くなり、また書いた跡。
-
あなたが私を母と呼ばなくても、その理由を受け取ります。
それでも一度、あなたの声で今の名前を聞きたい。
-
リーナが四枚目まで読み終えた。
紙を置かない。
「筆圧は、奥様のものに似ています」
「似ている、か」
「同じだと言い切るには、十年があります」
彼女は診療所から持ってきた古い薬袋を並べた。
子供の頃、母が患者の名を書いた紙だ。
文字の終わりが少し右へ上がる。
濁点の位置が高い。
薬の量を書く時だけ、数字の下へ短い線を引く。
手紙にも同じ癖がある。
だが三枚目から、線が震えていた。
「老化だけではありません」
リーナは指先で空中をなぞった。
「一定の間隔で揺れている。右手に震えがあるのかもしれない」
「偽造する者が、そこまで作る可能性は」
ルカが聞いた。
「あります」
リーナは答えた。
リーナは目元を拭かなかった。泣いた跡を残したまま、偽物の可能性を口にした。
ルカは封筒を灯りへ透かした。
王都北部で使われる麻紙。
封蝋は白灯修道会の古い印だが、芯の下にあるはずの小さな点が一つ多い。
共同企業の初出荷へ届いた白灯の印とも違う。
「正規の連絡網を通していません」
「母上が偽物だから?」
「本物だから、正規の網を避けた可能性もあります」
どちらにも読める。
希望は、罠と同じ形で届く。
五歳なら、母が生きているという一文だけで走った。
「今夜、出る?」
ソフィアが聞いた。
彼女だけが、出るなとも、行こうとも言わなかった。
選択を俺へ返している。
「出ない」
口にすると、胸の内側を爪で掻かれたように痛んだ。
「明朝までに三つ確認する。療養院の登記。手紙が港へ入った経路。王都北部でこの紙を扱う店」
「それで本物だと分かったら?」
「港から順に痕跡をたどる」
テオが廊下から入ってきた。
「王都へまっすぐ行かないのか」
「母は、自分の居場所だけなら一行で書けた。それでも三つの場所を先に書いた」
「罠を見分けるため?」
「たぶん。それだけじゃない」
三つの失敗。
母は、見つけてほしいと書く前に、自分が傷つけた場所を書いた。
自分だけを救いに来させたくないのだろう。
だから、書かれた順を守る。
「俺は行く」
テオが言った。
「お前は残れ」
「なんでだ」
「工房の出荷が始まったばかりだ」
彼の顔が強張った。
「また、置いていくのか」
祭礼の夜。
父の死。
鉱山の銃声。
俺が危険へ行くたび、彼は隣に立つことで捨てられないと証明しようとした。
俺も、それを忠誠として受け取ってきた。
「留守を任せる」
「言い方を変えただけだ」
「違う。今回は、残る方にも止める権限が要る」
ルカが工房の予定表を開く。
第八型保温板の海辺向け出荷。
第六型圧力警報器の保守更新。
第十型になる前の捨て石試験。
どれも、俺が戻るまで待てない。
魔晶石事業は、山と港と劇場街の三家がようやく作った信用だ。
母を捜すために放り出せば、手紙の最初の一文を裏切る。
生きている者を先に。
「捜索は、俺、ソフィア、マルコ、リーナ」
俺は紙へ書いた。
「事業は、ルカ、ブルーノ、テオ、エヴァ、ニコ、マルタ」
「六人で何を決められる」とテオが言った。
「値を変えるならルカとマルタ。止めるならエヴァとニコ。回収と警備はブルーノとお前。俺の返事がなくても、四人が危ないと言えば動け」
「赤字になっても?」
「なる理由を議事録に残せば」
「商品を全部止めても?」
「人が焼ける可能性があるなら」
「俺が間違えたら?」
俺は答える前に、少し考えた。
大丈夫だと言えば嘘になる。
間違えるなと言えば、権限ではなく重荷だけを渡す。
「戻った時、一緒に直す」
テオは不満そうな顔のまま、権限表を取った。
「若頭の席は空けておくぞ」
「好きにしろ」
「戻ったら、全部報告する」
「都合の悪いところから頼む」
「それ、嫌なやつだな」
「会計係に教わった」
ルカが眼鏡を直した。
「風評被害です」
心外だというルカの様子に、笑いが起きた。
夜更け、確認の返事が三つ届いた。
聖アニェッラ療養院は実在する。
麻紙を売った店も実在する。
だが手紙を港へ運んだ荷馬車の御者は、昨日から所在不明だった。
罠の可能性は消えない。
出発は夜明けに決めた。
寝室へ戻っても、眠れなかった。
便箋を何度も読む。
生きている者を先に。
母は、俺を後回しにした理由を、正しいことのように書いていない。
自分が怖かったと書いている。
母も弱く、間違え、戻れなかった。
そう考えることができる。
十年間こちらを見ながら、理解出来なかった背中に、ようやく輪郭ができた。
しばらく横になったが、眠るのを諦め、俺は壊れた診療所の跡へ行った。
建て直した診療所は別の通りにある。
ここは倉庫として残し、母の診察机だけを壁際へ置いていた。
幼い頃は大きく見えた机が、いまは腰より少し高いだけだ。
引き出しを開ける。
乾いた薬草の匂い。
欠けた硝子瓶。
父が母へ贈った銀の聴診器は、箱だけが残っている。
「それを持っていく?」
振り返ると、ソフィアが入り口にいた。
彼女も眠っていなかったらしい。
「空箱だ」
「だから」
「何に使う」
「母親に返せない物がある、と覚えておくのに」
俺は箱を閉じた。
「持っていかない」
「そう」
ソフィアは反対しなかった。
机の埃を指で拭い、俺の隣に立つ。
「本物だったら、最初に何と言うの」
「決めていない」
「決めた方がいいわ。会った瞬間、十年分を一度に話せないもの」
「あなたは、父親へ何と言った」
「葬儀の後?」
「最初に二人で会った時」
ソフィアは思い出すように目を伏せた。
「食事をしましたか、と聞いた」
「なぜ」
「聞きたいことを先に言えば、全部責める言葉になりそうだったから」
食べたか。
母が患者にも、父にも、俺にも繰り返した言葉だ。
「俺は、責めたい」
「責めていい」
「抱きしめてもほしい」
「それも言えばいい」
「どちらが先だ」
「会ってから決めるしかないわね」
「決めた方がいいと言っただろ」
「決められないことを確かめるのも、準備よ」
ソフィアらしい答えだった。
彼女は空箱を引き出しへ戻した。
「本物でも、あなたが覚えている母親のままではないわ、きっと」
「分かっている」
「分かっている顔をしないで」
俺は苦く笑った。
十年は、筆跡だけを変えたのではない。
母の身体も、考え方も、俺を愛する方法も変えたはずだ。
「怖い」
俺が言うと、ソフィアは頷いた。
励まさない。
大丈夫とも言わない。
ただ、机の上に置いた俺の手へ、自分の指先を重ねた。
鐘楼で交わした約束を、彼女は言い直さなかった。机の上で触れた指先だけが、逃げずに残った。
夜明け前、父の指輪をはめ直す。
母の手紙は胸元へ入れた。
父の血と、母の失敗。
どちらも捨てずに持つには、俺の身体は一つしかない。
だから家を二つに分けた。
片方は母を捜す。
片方は、生きている街の仕事を止めない。
夜明けの鐘が鳴った。
出発だ。
【人物紹介】
・エミリア・ベランディ
レオーネの母。白灯の医師。
十年前、家族と港を離れ、そのまま行方を絶った。
居場所より先に、自分が傷つけた三つの場所を手紙へ記した。
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