第46話 共同企業の設計図
一年近く、俺たちは責任の紙ばかり読んだ。
気がつけば冬は終わり、ヴァルモーラ鉱区の雪解け水が、線路脇の溝を鳴らしている。
サンドロの遺族扶助。
テオの治療記録。
三番坑道の検査報告。
エンツォの処分履歴。
ピエリらの山側処分通知。
紙が増えるほど、憎しみが減るわけではない。
ただ、憎しみだけで次の荷を動かせないことは、全員が知っていた。
魔晶石は、誰か一人の手では商品にならない。
ヴァレンティは、鉱床と鉱夫とブルーマ峠鉄道を持っている。
ベランディは、工房と失敗記録と港の販売網を持っている。
だが、山には精製と規格がなく、港には採掘と山の信頼がなかった。
オルシーニは、金融、保険、契約、議会の読み方を持っている。
だが、石を掘れず、警報灯を作れず、鉱夫に名前を呼ばれない。
王立産業規格局は、外部監査の印を持っている。
だが、印だけでは冬の粉を運べない。
単独支配は現実的にも、制度的にも、技術的にも不可能だった。
「だから、共同企業です」
ソフィアが言った。
サン・エリオ町会館の二階。
窓の外には、春の泥で汚れた広場が見える。
テオを取り戻した夜、全面戦争寸前になった場所だ。
今日は銃を預ける机が三つある。入口には白灯の看護師と、王立産業規格局の係官が立つ。
護衛より、記録係の方が多い。
それがこの会議の形だった。
「会社名は、ヴァルモーラ共同魔晶石事業会社」
ソフィアは黒板へ書いた。
「出資は三家。ただし議決権は出資比率だけに連動させません。
労働者代表理事一名、白灯推薦の医療安全監査一名、外部会計監査一名を常設します」
ミケーレが顔をしかめた。
「鉱夫が理事?」
「鉱夫を入れなければ、基金は施しになります」
ソフィアは即答する。
「理事に入れれば、情報漏れの危険があります」
ルカが言う。
「入れなければ、隠蔽の危険があります」
彼女はルカにも同じ冷たさで返した。
俺が言えば、港の支配に見える。
ラファエレが言えば、山の面子に見える。
オルシーニの娘であるソフィアが、父の金融利得を背負ったまま言うから、三者が同時に痛む。
この場で彼女は不可欠だった。
彼女を抜けば、共同企業は俺とラファエレの握手ごっこになり、アルベルトか中央政府かカヴァッロの残りに買われる。
「役割を確認します」
彼女は続ける。
「ヴァレンティは採掘、一次選鉱、山岳鉄道輸送、鉱夫の雇用管理。ただし安全記録は共同会社へ写す」
ラファエレは頷いた。
若手の何人かは苦い顔だ。
「ベランディは精製、薄片加工、規格設計、工房教育、出荷前検査。失敗記録の保管責任も負う」
今度は俺が頷く。
重い。
だが、そこを渡せば俺たちは何者でもなくなる。
「オルシーニは金融、保険、契約、販売先審査、議会照会対応。ただし保険料率と手数料は公開監査を受ける」
ソフィア自身の家が、一番嫌がる条項だった。
彼女はそこを先に読んだ。
「共同保険は」
ルカが紙をめくる。
「事故補償、休業補償、遺族扶助、再訓練、製品欠陥、輸送破損を分けます。
支払いは責任確定前に仮払い。後で原因に応じて求償。ただし被害者への返還請求は禁止」
アンナの名が、その場にいないまま浮かぶ。
一度受け取った金を、後から返せと言われる恐怖。
それを消す条項だ。
「基金は共同会社の利益から先取り」
ソフィアが書く。
「配当より先です。三か月分の最低積立を割った場合、新規出荷を停止できます」
「出荷停止は、山の賃金を止める」
ラファエレが言う。
「だから最低積立です」
俺は答えた。
「事故が起きた時だけ善人になる会社は、事故を安く見る」
言いながら、父の時代の顔が浮かぶ。
守ると言い、後で払うと言い、払う前に別の血を流す。
俺はその輪の内側にいる。
だから、仕組みで縛る。
労働者代表理事の選び方でも、半日が消えた。
山側は鉱夫の組から出すと言った。
港側は、それではヴァレンティの声だけになると疑った。
白灯は、負傷者家族を入れろと言った。
ルカは、遺族が理事になれば感情で支払いが膨らむと警戒した。
その言葉に、山の女たちの目が冷たくなる。
ルカはすぐに頭を下げた。
「失言です。感情があるから不適格、という意味ではありません。
支払い基準を感情だけで動かさない設計が要る、という意味です」
「言葉が悪い」
リーナが横から言った。
「はい」
ルカはもう一度頭を下げた。
こういう小さな場面が、共同企業の本体なのだと思う。
鉱床や特許より先に、人は自分が軽く扱われた瞬間を覚える。
だから先に、誰も軽く扱わないよう設計するのだ。
結局、初年度は労働者側から二名を候補にし、片方を理事、片方を監査補助にすることになった。
任期は一年。
再任は一度まで。
議事録は名前を伏せた要約と、監査室保管の原本に分ける。
紙は増える。
増える紙の分だけ、誰かが夜に読む。
だが、読まれない痛みは、もっと高くつく。
「特許は」
エヴァが腕を組んだ。
「基礎構造は共同発明者の名を。鉱山用改良はヴァレンティ保守係と鉱夫代表を追加。
工房の治具まで全部公開する気はないわ」
「山の改良だけ持っていかれるのも困る」
ミケーレが言った。
以前より声は抑えている。
誘拐の後、彼は処分を免れたが、若手の監督役として無給期間を受けている。
憎しみは消えていない。だが、広場で銃に手をかける男ではなくなった。
それだけでも、時間は働いている。
「特許は共有」
ソフィアが線を引く。
「製造秘匿部分は工房監査下。鉱山環境改良は山側監査下。
販売時は双方の承認。共同会社を通さない外部許諾は禁止」
「兵器用途は」
ニコが小さく言った。
彼はこういう時、一番怖いことを一番小さい声で言う。
「禁止です」
俺が言う。
「軍、企業警備、監禁施設、匿名仲介、武装目的の改造業者へは一切販売しない。
警報灯、温熱板、遮音箱、定温保温器、鉱山安全設備に限る」
「完全には防げません」
エヴァが言った。
「防げるとは書かない」
ソフィアが頷く。
「契約には、違反発見時の販売停止、特許使用停止、違約金、公開公告、規格局への通報を入れます。
防げないことを理由に、何もしない口実は与えない」
その言葉に、俺は少しだけ彼女を見た。
彼女も俺を見た。
理解し切れない相手の言葉が、自分の中の空白を正確に押すことがある。
だが、俺は彼女がそこにいることを必要としていた。
必要は、利用と似ている。
だから、後で言葉を選ばなければならない。
公開監査の範囲も、細かく決めた。
月次では、出荷数、事故仮払い、基金残高、保険料率、販売停止件数だけを公告する。
個人名、病名、家族構成は出さない。
ただし、監査室の原本には残す。
見る者を限定し、限定した者の名を公開する。
外部会計監査は、ヴィーダ元書記の紹介した退職役人を継続。
白灯医療監査は、山と港から一名ずつ。
規格監査は王立産業規格局へ年二回提出。
どの印も、俺たちを信用している印ではない。
信用し切れないから、押す印だ。
会議は夕方まで続いた。
離脱条件で、また揉めた。
ラファエレは、山側だけが不利になればいつでも抜けられる条項を望んだ。
ルカは、抜けた側が特許を持ち逃げしない保証を求めた。
ソフィアは、父アルベルトの買収圧力を見越して、第三者への株式譲渡禁止を入れた。
「離脱は六か月前通知」
彼女がまとめる。
「未払い補償と基金最低積立を精算。共同特許は二年間凍結。
労働者賃金と出荷済み保守契約は継続。大企業、軍、企業警備、匿名財団への持分譲渡は禁止」
「縛りすぎだ」
ラファエレの側近、オルランドが言った。
「縛らなければ、買われます」
ソフィアは答える。
「オルシーニも?」
彼の皮肉に、彼女は表情を変えなかった。
「ええ。私の父も含めて」
部屋が静まる。
その正直さは、彼女の家では裏切りと呼ばれるかもしれない。
俺の家でも、そう呼ぶ者がいる。
「ソフィア」
休憩の時、廊下で俺は彼女を呼んだ。
「何」
「君がいなければ、この紙は作れない」
彼女は少し目を細めた。
「交渉相手として?」
「交渉相手として」
そこで一度止める。
逃げ道を残したくなった。
残せば、彼女は見抜く。
「それだけじゃない」
彼女の指が、書類の角から離れた。
「今ここで続きを言うと、全員に聞かれるわ」
「聞かれて困る?」
「困る」
彼女は即答した。
「でも、困るだけで、嘘にはしたくない」
その時だった。
会館の外で、馬が暴れる音がした。
次に、窓ガラスが割れた。
オルランドが倒れた。
胸ではない。
肩から血が噴き、彼は紙束を抱えたまま椅子に崩れた。
銃声。
叫び。
伏せろというマルコの声。
俺はソフィアを床へ押し倒す形で庇った。
彼女の手が、俺の袖を掴む。
震えていた。
俺も震えていた。
「撃ち返すな」
床に伏せたまま叫んだ。
「負傷者を先に。窓には近づくな。外へ追うな」
ブルーマ峠で覚えた声だった。
爽快さはない。
ただ、次に誰の妻が上着を抱くのかを考えている。
白灯の看護師がオルランドへ這うように近づく。
ラファエレは銃を抜いていなかった。
抜きかけたミケーレの手首を、彼自身が押さえていた。
その姿を、俺は見た。
しばらくして、外から連れて来られたのは、撃った者ではなかった。
捨てられた外套と、偽の通行証。
通行証の裏に、馬頭の小さな印。
そして、サルヴィ法律顧問事務所の古い封筒。
カヴァッロの紙を追った時、同じ署名を何度も見た事務所名。
カヴァッロは、まだ紙と銃を同じ袋に入れている。
オルランドは生きていた。
肩の骨は傷ついたが、息はある。
彼の血で、共同企業の草案の端が赤くなった。
ソフィアはその紙を拾い、汚れた部分を避けて、離脱条件の欄に線を引いた。
「続けます」
彼女の声は震えていた。
震えたまま、折れなかった。
「暗殺未遂で止めれば、暴力に屈すると喧伝するようなものよ」
誰も反論しなかった。
俺は床から立ち上がり、指輪についた埃を払った。
和平ではない。
信頼でも、まだ足りない。
それでも、互いを裏切りにくくする設計図は、血のついた机の上で形を持ち始めていた。
【用語紹介】
・ヴァルモーラ共同魔晶石事業会社
ヴァレンティ、ベランディ、オルシーニの三家が設立を進める共同企業。
採掘と山岳輸送、製造と保守、金融と販売を分担し、一家だけで魔晶石事業を支配できない形になった。
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