第45.5話 まだ生まれていない子の靴
アンナ・ベルティは夫の古い靴をほどき、生まれていない子の靴底に使えないかと考えてから、自分に腹を立てた。
サンドロの靴だった。
踵は斜めに減り、革は硬く、線路の油と山の土が染みている。
生まれたばかりの子の足には、重すぎる。
そんなことは、ほどく前からわかっていた。
それでも紐を抜き、縫い目を探し、革を切れるか指で確かめていた。
夫のものを、何かに使わなければならない気がした。
使えなければ、死んだことが本当になってしまう気がした。
「やめな」
台所からマルタ叔母の声がした。
「その革は硬すぎる。赤ん坊の足が怒るよ」
アンナは靴を抱えた。
「怒っているのは私です」
「なら、靴に当たるんじゃない」
マルタは豆の鍋をかき混ぜている。山の食堂で働く手は太く、爪の間に粉が入っている。
サンドロの叔母で、アンナにとっては嫁いでからずっと、台所で遠慮なく怒る人だった。
「封筒」
その言葉で、アンナの腹が硬くなった。
子が動いたのか、自分がこわばったのか、わからない。
白灯の看護師が朝に持ってきた封筒だ。
港のドンから。
夫が死んだ場所にいた男から。
「捨てていい?」
アンナが聞くと、マルタは鍋の火を弱めた。
「捨てるなら、自分で火に入れな」
「叔母さんが入れて」
「嫌だね。読むのも捨てるのも、あんただ」
優しくない。
アンナは椅子に座った。
妊婦用に座面へ布を重ねた椅子だ。
サンドロが冬前に直してくれた。脚が少し短く、座るたびに床が鳴る。
その音を聞くたび、彼が台所で膝をついて木片を削っていた背中を思い出す。
もう直す人はいない。
いや、誰かは直せる。
ただ、サンドロではない。
封筒は白かった。
山の白灯の印が小さく押されている。ベランディの紋章は内側の書類にだけあると、看護師は言った。
表に家紋を出せば、近所の目が先に読むからだ。
そこまで考えられていることに、アンナはまた腹を立てた。
気遣いがあるから、怒りをどこへ置けばいいかわからなくなる。
「近所は何て」
「もう言ってる」
マルタは豆を皿へ移した。
「港の金を受け取れば、サンドロが売られる。受け取らなければ、意地で子を冷やす。
どっちを選んでも、口は動く」
「ドン・ラファエレは」
「見舞いは出す。鉄道保守からも、家からも。あの人は逃げないよ」
マルタはそこで少し黙った。
でも、逃げないことと、足りることは別だ。
アンナは封筒を見た。
夫が死んで四十日ほど。
駅の鐘は毎日鳴る。
朝は仕事の鐘。
昼は列車の鐘。
夕方は帰る者の鐘。
どの鐘にも、サンドロの足音は混じらない。
彼は保線係だった。
山の線路を見て、ボルトを締め、雪解け水の流れを読み、
時々硬いパンを上着のポケットに入れたまま帰ってきた。
銃で死ぬ男ではない。
少なくとも、アンナはそう思っていた。
新聞には、魔晶石マフィア戦争とあった。
夫の名は小さかった。
戦争。
彼は朝、靴下を片方なくして怒られた人だ。
豆の煮込みに塩を足しすぎる人だ。
生まれる子に、線路の音を怖がらせないと言っていた人だ。
戦争の死者一名と、巻き込まれたことも、そうまとめられることにも嫌悪感を拭えない。
「読まないと、何が入っているかわからない」
マルタが言った。
「読んだら、知ってしまう」
「知らない方が楽なこともある」
「そう」
マルタは否定しなかった。
「でも、知らないまま冬は来る」
マルタが封を切った。
突き出してきた紙を持つ手が震える。
中には、書類が何枚も入っていた。
弔慰金。
住居費。
出産費。
子の教育扶助。
サンドロ遺族基金。
受領しても、ベランディ家への責任追及を妨げないこと。
サンドロの死因は調査継続中で、エンツォ・マーニの発射と矛盾しないが断定不能であること。
断定不能。
紙の上のその言葉は、冷たい。
「わからないなら、払うな」
アンナは言った。
声が掠れた。
「わからないなら、払えと私は思う」
マルタが返した。
怒りが喉に上がった。
ベランディが払えば、夫の命に値段がつく。
払わなければ、夫の死で空いた台所の穴をアンナと子供が埋めることになる。
ラファエレを責めたい日がある。
港を憎みたい日がある。
カヴァッロという顔のないものを呪いたい日もある。
エンツォという若手の名前を聞くと、知らない男なのに、手が冷たくなる。
けれど、怒りを一つにすれば、その一つを燃やして終われる気がしてしまう。
サンドロは戻らないのに。
戸口で近所の女が籠を置いていった。
無言だった。
中には焼きすぎた豆粉の菓子と、小さな布切れが入っていた。
不器用な見舞い。
アンナは夫の上着を膝に置いた。
袖口が破れている。
帰ってきたら繕うつもりだった。
帰ってこなかったので、破れたまま残った。
針を持つ。
糸を通そうとして、涙で穴がぼやける。
「貸しにしな」
マルタが言った。
「何を」
「港の金を。許しじゃない。貸しだ。あんたと子供が冬を越すために、向こうへ負わせる借り」
「借りなら、返すんですか」
「返さない借りもある」
マルタは皿を置いた。
「サンドロは戻らない。だから、向こうが一生借りだ」
帳簿。
アンナは書類の端を見た。
受領印の欄がある。
夫の名ではない。
アンナ・ベルティ。
自分の名前を書く欄。
急に怖くなった。
書けば、自分が夫の死を認めたことになる。
書かなければ、誰かが代わりに決めるかもしれない。
ドン・ラファエレ。
マルタ叔母。
白灯の看護師。
港の若いドン。
皆、悪意だけで動いてはいない。
だからこそ、任せれば自分の怒りまで丁寧に片づけられてしまう気がした。
「許さないまま、受け取っていいんですか」
アンナは聞いた。
マルタは即答した。
「いい」
「みっともなくない?」
「腹の子に寒い思いをさせる方が、私は嫌だね」
言葉は乱暴だった。
その乱暴さに、アンナは少し息を吐けた。
白灯の看護師が置いていった小さな説明書には、署名は今日でなくていいと書かれていた。
三日以内。読み上げを希望する場合は、白灯が立ち会う。
受領を拒む場合も記録する。拒否によって山側の見舞いは止まらない。
逃げ道まで書いてある。
アンナは台所の隅へ行き、子供用の布を出した。
近所の女がくれた布切れ。
サンドロの上着の内側に残っていた、まだ柔らかい部分。
夫の古靴の革は使わない。
硬すぎる。
あの靴は、彼が線路を歩いた重さのまま置いておく。
子供の靴底には、別の布を重ねる。
「底はすぐ破れるよ」
マルタが言う。
「破れたら直します」
「誰が」
「私が」
言ってから、初めて少しだけ力が入った。
港の金で冬を越すかもしれない。
山の見舞いで出産するかもしれない。
白灯の薬に助けられるかもしれない。
それでも、この靴だけは、自分とマルタの手で作る。
全部を奪われたくない。
全部を誰かに救われたことにもされたくない。
夕方、駅の鐘が鳴った。
帰る者の鐘。
アンナは受領書を机に置いた。
ペンを持つ。
手が震える。
震える手で、名前を書いた。
アンナ・ベルティ。
自分の名だ。
書き終えると、涙が落ちそうになった。
アンナは慌てて紙を避けた。
濡らしたくなかった。
許したからではない。
この紙を、向こうが逃げるための紙にさせないために。
マルタが古靴を棚へ戻した。
「靴底は明日やるよ」
「今日少しだけ」
「無理するな」
「少しだけ」
マルタはため息をつき、針箱を持ってきた。
二人で小さな布を重ねる。
豆の匂いがする台所で、まだ生まれていない子の靴は、形にもならないまま掌に収まった。
サンドロの足音は戻らない。
封筒の金も、紙の言葉も、それを変えない。
それでもアンナは、夫の古い靴をほどく手を止め、別の布へ針を刺した。
怒りを捨てずに、明日の支度をする。
それが今日、自分で選べる一番小さなことだった。
【人物紹介】
・アンナ・ベルティ
サンドロの妻。
ベランディの補償を受け取っても責任追及はやめず、自分の名で受領書へ署名した。
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