↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
灰冠の指輪 ~愛を知らず死んだ俺は、異世界で没落マフィアを再建する~  作者: ぬゅうた
6章 血を流さない戦争

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

53/98

第45.5話 まだ生まれていない子の靴



アンナ・ベルティは夫の古い靴をほどき、生まれていない子の靴底に使えないかと考えてから、自分に腹を立てた。


サンドロの靴だった。


踵は斜めに減り、革は硬く、線路の油と山の土が染みている。


生まれたばかりの子の足には、重すぎる。


そんなことは、ほどく前からわかっていた。


それでも紐を抜き、縫い目を探し、革を切れるか指で確かめていた。


夫のものを、何かに使わなければならない気がした。


使えなければ、死んだことが本当になってしまう気がした。


「やめな」


台所からマルタ叔母の声がした。


「その革は硬すぎる。赤ん坊の足が怒るよ」


アンナは靴を抱えた。


「怒っているのは私です」


「なら、靴に当たるんじゃない」


マルタは豆の鍋をかき混ぜている。山の食堂で働く手は太く、爪の間に粉が入っている。


サンドロの叔母で、アンナにとっては嫁いでからずっと、台所で遠慮なく怒る人だった。


「封筒」


その言葉で、アンナの腹が硬くなった。


子が動いたのか、自分がこわばったのか、わからない。


白灯の看護師が朝に持ってきた封筒だ。


港のドンから。


夫が死んだ場所にいた男から。


「捨てていい?」


アンナが聞くと、マルタは鍋の火を弱めた。


「捨てるなら、自分で火に入れな」


「叔母さんが入れて」


「嫌だね。読むのも捨てるのも、あんただ」


優しくない。


アンナは椅子に座った。


妊婦用に座面へ布を重ねた椅子だ。


サンドロが冬前に直してくれた。脚が少し短く、座るたびに床が鳴る。


その音を聞くたび、彼が台所で膝をついて木片を削っていた背中を思い出す。


もう直す人はいない。


いや、誰かは直せる。


ただ、サンドロではない。



封筒は白かった。


山の白灯の印が小さく押されている。ベランディの紋章は内側の書類にだけあると、看護師は言った。


表に家紋を出せば、近所の目が先に読むからだ。


そこまで考えられていることに、アンナはまた腹を立てた。


気遣いがあるから、怒りをどこへ置けばいいかわからなくなる。


「近所は何て」


「もう言ってる」


マルタは豆を皿へ移した。


「港の金を受け取れば、サンドロが売られる。受け取らなければ、意地で子を冷やす。

どっちを選んでも、口は動く」


「ドン・ラファエレは」


「見舞いは出す。鉄道保守からも、家からも。あの人は逃げないよ」


マルタはそこで少し黙った。


でも、逃げないことと、足りることは別だ。


アンナは封筒を見た。


夫が死んで四十日ほど。


駅の鐘は毎日鳴る。


朝は仕事の鐘。

昼は列車の鐘。

夕方は帰る者の鐘。


どの鐘にも、サンドロの足音は混じらない。


彼は保線係だった。


山の線路を見て、ボルトを締め、雪解け水の流れを読み、

時々硬いパンを上着のポケットに入れたまま帰ってきた。


銃で死ぬ男ではない。


少なくとも、アンナはそう思っていた。


新聞には、魔晶石マフィア戦争とあった。


夫の名は小さかった。


戦争。


彼は朝、靴下を片方なくして怒られた人だ。


豆の煮込みに塩を足しすぎる人だ。


生まれる子に、線路の音を怖がらせないと言っていた人だ。


戦争の死者一名と、巻き込まれたことも、そうまとめられることにも嫌悪感を拭えない。


「読まないと、何が入っているかわからない」


マルタが言った。


「読んだら、知ってしまう」


「知らない方が楽なこともある」


「そう」


マルタは否定しなかった。


「でも、知らないまま冬は来る」


マルタが封を切った。


突き出してきた紙を持つ手が震える。


中には、書類が何枚も入っていた。


弔慰金。

住居費。

出産費。

子の教育扶助。

サンドロ遺族基金。


受領しても、ベランディ家への責任追及を妨げないこと。


サンドロの死因は調査継続中で、エンツォ・マーニの発射と矛盾しないが断定不能であること。


断定不能。


紙の上のその言葉は、冷たい。


「わからないなら、払うな」


アンナは言った。


声が掠れた。


「わからないなら、払えと私は思う」


マルタが返した。


怒りが喉に上がった。


ベランディが払えば、夫の命に値段がつく。


払わなければ、夫の死で空いた台所の穴をアンナと子供が埋めることになる。


ラファエレを責めたい日がある。


港を憎みたい日がある。


カヴァッロという顔のないものを呪いたい日もある。


エンツォという若手の名前を聞くと、知らない男なのに、手が冷たくなる。


けれど、怒りを一つにすれば、その一つを燃やして終われる気がしてしまう。


サンドロは戻らないのに。



戸口で近所の女が籠を置いていった。


無言だった。


中には焼きすぎた豆粉の菓子と、小さな布切れが入っていた。


不器用な見舞い。


アンナは夫の上着を膝に置いた。


袖口が破れている。


帰ってきたら繕うつもりだった。


帰ってこなかったので、破れたまま残った。


針を持つ。


糸を通そうとして、涙で穴がぼやける。


「貸しにしな」


マルタが言った。


「何を」


「港の金を。許しじゃない。貸しだ。あんたと子供が冬を越すために、向こうへ負わせる借り」


「借りなら、返すんですか」


「返さない借りもある」


マルタは皿を置いた。


「サンドロは戻らない。だから、向こうが一生借りだ」


帳簿。


アンナは書類の端を見た。


受領印の欄がある。


夫の名ではない。


アンナ・ベルティ。


自分の名前を書く欄。


急に怖くなった。


書けば、自分が夫の死を認めたことになる。


書かなければ、誰かが代わりに決めるかもしれない。


ドン・ラファエレ。

マルタ叔母。

白灯の看護師。

港の若いドン。


皆、悪意だけで動いてはいない。


だからこそ、任せれば自分の怒りまで丁寧に片づけられてしまう気がした。


「許さないまま、受け取っていいんですか」


アンナは聞いた。


マルタは即答した。


「いい」


「みっともなくない?」


「腹の子に寒い思いをさせる方が、私は嫌だね」


言葉は乱暴だった。


その乱暴さに、アンナは少し息を吐けた。


白灯の看護師が置いていった小さな説明書には、署名は今日でなくていいと書かれていた。


三日以内。読み上げを希望する場合は、白灯が立ち会う。


受領を拒む場合も記録する。拒否によって山側の見舞いは止まらない。


逃げ道まで書いてある。


アンナは台所の隅へ行き、子供用の布を出した。


近所の女がくれた布切れ。


サンドロの上着の内側に残っていた、まだ柔らかい部分。


夫の古靴の革は使わない。


硬すぎる。


あの靴は、彼が線路を歩いた重さのまま置いておく。


子供の靴底には、別の布を重ねる。


「底はすぐ破れるよ」


マルタが言う。


「破れたら直します」


「誰が」


「私が」


言ってから、初めて少しだけ力が入った。


港の金で冬を越すかもしれない。

山の見舞いで出産するかもしれない。

白灯の薬に助けられるかもしれない。


それでも、この靴だけは、自分とマルタの手で作る。


全部を奪われたくない。

全部を誰かに救われたことにもされたくない。


夕方、駅の鐘が鳴った。


帰る者の鐘。


アンナは受領書を机に置いた。


ペンを持つ。


手が震える。


震える手で、名前を書いた。


アンナ・ベルティ。


自分の名だ。


書き終えると、涙が落ちそうになった。


アンナは慌てて紙を避けた。


濡らしたくなかった。


許したからではない。


この紙を、向こうが逃げるための紙にさせないために。


マルタが古靴を棚へ戻した。


「靴底は明日やるよ」


「今日少しだけ」


「無理するな」


「少しだけ」


マルタはため息をつき、針箱を持ってきた。


二人で小さな布を重ねる。


豆の匂いがする台所で、まだ生まれていない子の靴は、形にもならないまま掌に収まった。


サンドロの足音は戻らない。


封筒の金も、紙の言葉も、それを変えない。


それでもアンナは、夫の古い靴をほどく手を止め、別の布へ針を刺した。


怒りを捨てずに、明日の支度をする。


それが今日、自分で選べる一番小さなことだった。


【人物紹介】

・アンナ・ベルティ

サンドロの妻。

ベランディの補償を受け取っても責任追及はやめず、自分の名で受領書へ署名した。


--

評価、コメントはページ下部よりお気軽に。

作者の励みになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。