第45話 俺たちの過失
二十三歳の秋。
ブルーマ峠の銃撃から、四十日が過ぎた。
テオは生きている。
それを喜ぶたびに、サンドロ・ベルティは死んだままだと思い直す。
テオの傷は腹の横に残った。
熱は三日続き、白灯の医師は夜明けごとに顔を曇らせた。
四日目、彼が水を飲んで「豆は当分やわらかく」と言った時、俺は壁にもたれて息を吐いた。
同じ朝、サンドロの妻アンナは、夫の上着を抱いて駅の鐘を聞いていた。
救われた命と、戻らない命。
どちらかを大きくすれば、もう片方の重みがなくなる。
第三者調査団の報告書は、重かった。
王立産業規格局の技師。
白灯が指名した山の鉱山医。
港湾庁を退いた監査役。
ヴァレンティ側の保守係。
ベランディ工房のダミアーノ。
オルシーニ保険の調査員。
全員が署名した紙は、誰にも都合よくなかった。
「一発目は、貨車影の身元不明者から」
ルカが読み上げる。
「偽の保険検査員が、灰青粉つきの封印箱を検査列へ混入させた可能性が高い。
認可番号は、ラゴ商会系保険代理店の古い番号を改竄したもの」
カヴァッロの影。
それだけなら、俺たちは被害者の顔でいられた。
「ベランディ側護衛エンツォ・マーニが、命令に反し、未登録の短銃を結節点へ持ち込んだ。
封印確認前に抜き、威嚇の意図で発射。弾道は混乱と破損のため断定不能。
ただし、サンドロ・ベルティ氏の致命傷と矛盾しない」
部屋の空気が、紙より白くなった。
ブルーノが机を殴った。
「矛盾しない、だと。断定不能なら、こちらの罪ではない」
「罪を消す言葉ではありません」
俺は答えた。
「疑いを残す言葉です」
「疑いで家を売る気か」
「隠して家を守る気はありません」
声が強くなった。
強くしたかったわけではない。
崩れそうだったから、硬くした。
エンツォは隣の部屋にいた。
追放したジーノほど荒くはない。
六分の一の後で孤児になり、テオに銃の手入れを教わった若手だ。テオを兄のように慕っていた。
だから、彼は持ち込んだ。
兄貴を守るために。
だから、撃った。
敵を止めるために。
だから、サンドロが死んだかもしれない。
そこまで並べても、サンドロの名簿に戻る線は一本もない。
「報告は続きます」
ルカの声は震えていない。
震えないことで、彼も何かを支えている。
「ベランディ側警備計画には、若手護衛の身体検査を同輩任せにした不備。
封印弾倉の確認者が一名のみ。
偽検査員の照会を、ソフィア嬢の予備表だけに頼り、山側本部への再電信を省略した不備」
「時間がなかった」
若手の一人が言う。
「だから仕方ないと?」
俺は彼を見る。
彼は目を逸らした。
「事情としては書く。免責としては書かない」
次に、ヴァレンティ側の過失が読まれた。
ピエリらによるテオ誘拐。
若手の処分遅延。
結節点での挑発的配置。
ラファエレの側近が、カヴァッロ資金の噂を掴みながら、家の面子を恐れて共有を遅らせたこと。
一発目の狙撃者は逃げた。
偽検査員も、結節点の混乱に紛れて消えた。
だが、消えた者だけを悪にすれば、残った者が自分の手を洗えてしまう。
「公表します」
俺が言うと、部屋のあちこちで声が上がった。
「ドン」
「評判が終わります」
「サンドロを殺したのがうちだと書かれます」
「中央捜査局に渡す刃です」
どれも正しい。
新聞は丁寧に読まない。
魔晶石マフィア戦争という短い見出しへ、報告書の細い線を押し潰す。
それでも、公表しなければ、アンナは夫が何で死んだのかを噂で聞くことになる。
鉱夫たちは、港がまた紙を隠したと思う。
エンツォは、テオを守ろうとした善意だけを抱えて、次の銃へ手を伸ばす。
「エンツォは」
ブルーノが低く聞いた。
「処分します」
「追放か」
俺は少し黙った。
追放はわかりやすい。
だが、エンツォを外へ投げれば、彼はカヴァッロに拾われるか、
どこかの路地で自分を正当化するだけになるだろう。
彼の家として、責任は持つべきだ。
「護衛班から外す。武器携帯を永久に禁じる。取り分三年分をサンドロ遺族基金へ。
夜学と炊事場の労務へ回す。逃げれば追放」
「甘い」
「甘くありません」
ブルーノの言葉を遮り、俺は言った。
「彼が毎月、自分の取り分がアンナと子供へ入る記録を見る方が、追放より長い」
ブルーノは何か言おうとして、やめた。
彼の怒りは正しい。
だから、公開監査にかける。
エンツォ本人にも、同じ紙を読ませた。
彼は立っていられず、椅子に座ったままだった。
「俺は、兄貴を」
テオのことだ。
俺は遮らなかった。
最後まで言わせる。
「兄貴を守りたかったんです」
「知っています」
「じゃあ」
「それを処分理由に入れます」
彼は顔を上げた。
「守ろうとしたことを?」
「はい。守ろうとしたから命令を破った。命令を破ったから撃った。
撃ったから、サンドロが死んだ可能性が残った」
エンツォの唇が震えた。
「俺が殺したんですか」
「断定はしません」
俺は言った。
「でも、可能性から逃がしません」
彼は泣かなかった。
泣けない顔で、床を見ていた。
悪人なら、もっと簡単だった。
テオを守りたい若手を裁くことは、敵を裁くより感情としては嫌だ。
だが、感情を処分を軽くする理由にも、重くする理由にもしてはいけない。
だから、処分書へ俺の署名だけでなく、監査役と白灯の確認印を入れた。
レオーネ・ベランディの怒りや情だけで、人ひとりのこれからを決めないために。
記者会見は、ヴァレノの市民会館で開いた。
港の新聞。
山の労働紙。
王都紙。
中央捜査局の記録係。
オルシーニの弁護士。
ラファエレは隣の席に座った。
彼は前より老けて見えた。
それでも来た。
俺も同じだ。
壇上へ上がる時、テオが壁際から小さく手を上げた。
まだ立っている時間は短い。
傷口を庇う姿は、会場の誰にも見えた。
見せ物にしたくない、だが、隠せば、現実を覆い隠すことになる。
「ブルーマ峠輸送結節点の銃撃について」
俺は用意した紙を置いた。
「最初に、サンドロ・ベルティ氏の名を。
ヴァレンティ家保線係。二十四歳。妻アンナ氏。生まれる子が一人」
会場のペンが動く。
「次に、負傷者。テオ・リッチ。ほか双方五名。軽傷と書かれた者にも、働けない日があります」
名前を読む。
それだけで、時間が削れる。
新聞は長い名前を嫌う。
それでも読んだ。
「調査の結果、カヴァッロ系と推定される偽検査員、保険番号改竄、封印箱の混入が確認されました」
記者たちが身を乗り出す。
欲しいのはそこだ。
黒幕。
陰謀。
わかりやすい敵。
俺は一度息を吸った。
「同時に、ベランディ側には明確な過失があります」
ペンの音が変わった。
「護衛エンツォ・マーニが命令に反し、未登録短銃を持ち込み、発射しました。
その弾がサンドロ氏の致命傷となった可能性は排除できません。
身体検査、封印確認、照会手順にも不備がありました」
会場の奥で、ベランディの若手が下を向いた。
見ていられない顔。
だが、見なくて済むようにしてきた結果が、これだ。
「ベランディ家は、サンドロ氏の遺族へ弔慰金、子の出生から成人までの教育扶助、
アンナ氏の住居費、必要な医療費を支払います。
これは口止め金ではありません。受領は、当家への責任追及を妨げません」
「本人は威嚇だったと言っています。
ですが、命令逸脱の持込武器から出た弾が、意図しない相手を殺した可能性がある。
これは誤射の可能性として扱います。善意の責任として。」
ざわめき。
ルカの顔が遠くで青い。
金額は重い。
港の鍋はまた薄くなる。
それでも、死者の妻と子を、評判の費用として扱うわけにはいかない。
ラファエレが続いた。
「ヴァレンティ家も責任を認める」
山側の記者たちが一斉に彼を見た。
「テオ・リッチ氏の誘拐は、若手の独断だった。だが、独断を許したのは私の家だ。
ピエリほか関与者を山側規律で処分し、白灯と第三者監査へ通知する。
テオ氏の治療費と休業補償の一部を負担する。
結節点での挑発配置、情報共有遅延も過失として記録する」
ミケーレが会場の後ろにいた。
彼はラファエレを見ていない。
彼もまた、床を見ていた。
ドンが自分の家の恥を読む。
それは、家を守る姿だったとしても、そう見ず心が離れる者もいる。
俺も同じだった。
会見が終わると、港の若手二人が去った。
挨拶もせずに。
市場の老婆は、後で炊事場へ魚の頭を持ってきたが、俺の手は握らなかった。
「若様の言うことはわかるよ」
彼女は鍋を見ながら言った。
「でも、あんたの家が弱くなれば、また誰かがうちの店を踏みに来る」
「はい」
それしか言えなかった。
正しさは、安心の代わりにならない。
夜。
船員宿の廊下でソフィアが待っていた。
灰色の手袋を外し、片手に会見の写しを持っている。
「父が怒っていました」
「あなたも?」
「怒る余裕がありません」
彼女は疲れた顔で笑う。
「あなたは、自分の評判を削りました。ラファエレも削った。これで交渉は楽にはなりません」
「わかっています」
「わかっている顔をしないで」
基金案の夜と同じ言葉。
少しだけ、胸が痛くなる。
「でも」
彼女は続けた。
「信じる理由は増えた」
俺は答えを探した。
それはまだ、手元にない。
「俺は、君を全部は理解していません」
「私も、あなたを理解し切れない」
彼女はまっすぐ言った。
「あなたがなぜ、そこまで自分を削れるのか。時々怖く見える。
愛されるために役を演じていた子供が、自分を犠牲にするようになったみたいで」
図星だった。
「でも、今日の紙は見ました」
彼女は会見の写しを折らずに持っていた。
「理解できない部分があっても、あなたが何を隠さず、何を負うかは見える。私はそこを信じます」
完全な理解ではない。
許しでもない。
ただ、行動の履歴が一枚増えた。
俺は指輪の重さを感じながら、頷いた。
「でも、あなたは一つだけ間違えています」
ソフィアは続けた。
「何を」
「評判を削ったことを、すぐ信頼に変えられると思っているところ」
胸の奥を突かれる。
俺は反論しかけ、やめた。
たぶん、その通りだった。
公表した。
補償した。
だから、それを受け入れてほしい。
その欲は、いつも俺の中に残っている。
役に立てば愛される。
正しく痛めば、許される。
前世から持ってきた、古い癖だ。
ソフィアはそこを見逃さなかった。
「アンナがあなたを許さなくても、ミケーレがあなたを睨み続けても、
港の若手が離れても、この紙は必要だった。そういう話でしょう」
「はい」
「なら、信頼されるところまで急がないで」
彼女の声は優しくない。
優しくないから、助かった。
俺は彼女の言葉を、会見の写しと一緒に胸へしまった。
会見の翌朝、新聞は二つに割れた。
誠実な若きドン。
味方を売った弱腰。
どちらも、俺を単純にする見出しだった。
俺たちの過失は、紙の上で広がり始めた。
評判は落ちた。
求心力も落ちただろう。
それでも、アンナへ渡す最初の封筒だけは、翌日遅れずに届いた。
過失を公表しても、すぐ信頼に変わるわけではない。
アンナへの最初の封筒だけは、予定どおり届いている。
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