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第44話 銃声は一度だけ



ブルーマ峠の輸送結節点は、山と港の喉だった。


山岳鉄道の貨車がそこで止まり、馬車道の荷へ積み替えられ、

保険検査員が封印を見て、双方の工房代表が魔晶石警報灯の箱を数える。


倉庫と呼ぶには狭い。


駅と呼ぶにはものが多く、人の欲が集まった場所に見えた。


そこに、俺たちの暫定合意の品が積まれていた。


ベランディ工房の警報灯十二箱。


ヴァレンティの鉱床試料二籠。


王立産業規格局へ送る破損品の封印箱。


白灯の鉱山医が書いた負傷者経過票。


そして、まだ成立していない労働者基金の仮計算。


紙と箱が多い場所ほど、火はつきやすい。


「暑いですね」


テオが言った。


誘拐の時に切れた唇は治っている。右頬の腫れも引いた。


だが、手首の縄跡は薄く残り、彼は時々そこを親指でなぞる。


「山の夏は涼しいと聞きました」


「山の連中も、港の人間にはそう言って値をつけるんですよ」


軽口だった。


軽くしようとしている声だった。


俺は笑えなかった。


結節点の周囲には、ヴァレンティの若手が多かった。


ミケーレは見える場所にいる。


腕を組み、こちらを睨みながらも、ラファエレの命令か、一線を越えない位置に立っていた。


ピエリの名は、あの夜の後で伏せられたまま、山側規律の調査に入った。


伏せられた名前は、怒りを静かに腐らせる。


ベランディ側も同じだった。


ブルーノの下につく若い護衛たちは、テオの傷を見てから、山の男を見る目が変わった。


友人を殴られた。


自分たちのドンが我慢を命じた。


我慢した結果、相手はまた強く出るのではないか。


その怒りを認めても、引き金を軽くする理由にはならない。


だから俺は、出発前に命じた。


結節点では、登録武器以外を持ち込まない。

弾倉は封印。

挑発に返事をしない。


そして、銃を抜く命令は、俺かマルコだけ。


命令は紙にも書かせ、全員に署名させた。


最初の違和感は、保険検査員だった。


前回と顔が違う。


代理だと言った。


書類は揃っている。印も正しい。


ルカなら、印の角まで見るだろう。今日は山の現場で、彼は港の監査室に残っている。


俺はソフィアから預かった照合表を開いた。


「その認可番号は、昨日の電信にはありませんでした」


検査員の男が笑う。


「山の電信は遅れます」


「オルシーニの保険線は遅れません」


彼の笑いが消えた。


同時に、貨車の向こうで声が上がった。


「箱が違う!」


ヴァレンティの若手が、警報灯の箱を持ち上げていた。


側面の封印紙に、灰青の粉が付いている。


遠目には似ている。だが、ベランディの印ではない。


「下がれ」


マルコの声が飛ぶ。


俺も同時に言った。


「箱に触るな」


遅かった。


若手の一人が箱を開け、布の中から短い銃が滑り落ちた。


誰のものでもない銃。


誰のものにもできる銃。


カヴァッロのやり方だった。


山の男が叫ぶ。


港の若手が、反射で腰に手をやる。


封印したはずの武器へ。


「抜くな!」


俺の声は届いた。


全員には届かなかった。


貨車の影から乾いた音がした。


一発。


その一発で、夏の空気が裂けた。


誰が撃ったのか、その瞬間にはわからなかった。


わかったのは、テオが俺を突き飛ばしたことだけだ。


肩に鉛玉の衝撃が来ると思った。


来なかった。


代わりに、テオの身体が横へ崩れた。


「テオ」


声が自分のものではなかった。


彼は腹の横を押さえている。


指の間から赤が広がった。


赤は明るい。


悪い夢のようだった。


マルコが俺の襟を掴んで引いた。


「伏せてください」


「テオが」


「伏せろ」


俺は伏せた。


次の銃声が二つ、三つ。


結節点の壁に当たり、木箱を割り、馬を暴れさせた。


誰かが悲鳴を上げる。


誰かが怒鳴る。


ラファエレが、山側の若手へ低く命じている。


ブルーノが、こちらの若手を殴るようにして下がらせている。


戦争と言える様子ではない。


そこにあるのは混乱する人々。


人が人を狙う前に、自分の恐怖へ撃っている。


その中で、若い保線係が倒れていた。


サンドロ・ベルティ。


春の地滑りの時、担架を運んだ男だ。


硬いパンを半分、テオへ渡していた男。


まだ二十四歳。


妻のアンナは冬に子を産む予定だと、町の食堂の女が教えてくれた。


彼は胸元を押さえ、口だけを動かしている。


俺は走ろうとした。


マルコに止められた。


「今出れば、的です」


「白灯を」


「テオもです」


二人。


「撃つな」


ドンとして、俺は叫んだ。


「全員、撃つな。負傷者を先に運べ。銃を持った者は床に置け。置かない者は、味方でも押さえろ」


命令しながら、俺は自分の声が遅いと思った。


一発目の前に言えたはずだ。


偽検査員の顔を見た時。


灰青粉の封印箱が持ち上がった時。


港の若手の目がテオの傷を見て硬くなった時。


何度も、もっと早い命令の場所はあった。


撃つな。


その三文字は、撃ちたい理由が生まれてからでなければ重くならない。


ブルーノがこちらを見た。


目が血の色をしていた。


「ドン、撃ってきた相手は」


「今撃ち返せば、全面戦争になる」


父の仇。


テオの血。


そんな言葉なら、味方は燃え、結節点は戦場になる。


サンドロ・ベルティという一人の名は、魔晶石マフィア戦争の死者一名に変わる。


俺は、それが怖かった。


怖いまま命じた。


「名前を消すな」


ブルーノは歯を食いしばり、近くの若手の手首を掴んだ。


その若手、エンツォは、封印外の小さな拳銃を握っていた。


俺が命じたはずの禁止武器。


持ち込むなと書かせた武器。


エンツォの顔は真っ青だった。


「俺じゃない」


彼は震える声で言った。


「俺は、兄貴を守ろうと」


兄貴。


彼が見ているのはテオだった。


守ろうとした手が、何をしたのか。


その時点では、誰も断定できない。


断定できないから、余計に逃げたくなった。


白灯の山側看護師と、ベランディの応急係が同時に動いた。


テオは息をしていた。


痛みで顔を歪めながら、俺の袖を掴もうとした。


「兄ちゃん」


「喋るな」


「俺、豆、まだ返してない」


「黙れ」


声が崩れた。


血の匂いが、父の指輪からではなく、友人の身体から上がっている。


サンドロの方で、アンナという名が呼ばれた。


だが、アンナはいなかった。


夏の結節点にいたのは、男たちと箱と紙だけだ。


妻を呼ぶ声だけが、遅れて届いた。


夕方までに銃は止まった。


止まったというより、全員が撃つ理由を一時的に失った。


サンドロとテオは、山の診療所へ運ばれた。


腹の横をかすめ、肉を裂いた銃創だと白灯の医師は言った。


命はすぐには取られない。ただし熱が出れば危ない。


すぐには。


医者の言葉は、時々、残酷だ。


サンドロ・ベルティは、助からなかった。


ラファエレは、その場で帽子を取った。


ミケーレは泣かない顔のまま、こちらを殺す目で見た。


俺はその目から逃げなかった。


逃げなかっただけだ。


何も償ってはいない。


「共同調査を求めます」


俺が言うと、ラファエレの側近が怒鳴った。


「今それを言うのか」


「今言わなければ、明日には新聞がサンドロの名前を消し、死傷者、とだけ書くでしょう」


俺はサンドロの身体の方を見た。


白い布がかけられている。


布の下に、二十四年分の生活がある。


「死者はサンドロ・ベルティ。ヴァレンティの保線係。

妻アンナ、第一子を妊娠中。負傷者はテオ・リッチ、ベランディ護衛。

ほか双方に軽傷。これを公表します」


「こちらの恥もか」


ラファエレの声は低い。


「こちらの恥もです」


エンツォの禁止武器。

保険検査員の偽番号。

灰青粉の偽封印。

貨車の影からの一発目。


どれも、まだ一本の線にはならない。


それでも、隠せば戦争の燃料になる。


ラファエレは長く黙った。


その途中、食いしばるような、こぶしを握り締めるような沈黙。


やがて頷いた。


「アンナへは、私が行く」


「俺も行きます」


「あなたは来るな」


拒絶は当然だった。


「では、弔慰金と調査費だけ先に預けます。受け取っても、こちらを責める権利は消えない。そう文書に書く」


ラファエレは俺を見た。


憎しみと、疲労と、計算が同じ目の中にあった。


「若いドン」


「はい」


「これは、和平を遠ざけた」


「はい」


「同時に、戦争を始める口実にもなる」


「だから、使わせません」


言い切った声は、思ったより弱かった。



夜。


俺はアンナへ宛てた封筒を書いた。


宛名を書くだけで、手が止まる。


サンドロ・ベルティ夫人。


夫人という字が、急に他人行儀に感じた。


だが、俺は彼女の夫の友人ではない。

家族でもない。夫を助けた者でもない。


夫が死んだ現場にいた、敵対する港のドンだ。


慰めを書く資格はない。


だから、事実を書いた。


サンドロの名を公表すること。


調査に第三者を入れること。


受け取った金が、責任追及の権利を消さないこと。


子が生まれた後の教育扶助を、共同基金が成立しなくてもベランディ家が先に負うこと。


そして最後に、短く書いた。


許しを求めません。


封をする時、テオの血で汚れた上着が椅子に掛かっていた。


洗えば落ちる血と、落ちない血がある。


どちらも同じ赤から始まる。


マルコは扉の横で立っていた。


「出さない選択もあります」


「逃げるためですか」


「傷口を広げないためです」


彼は正しい。


届いた手紙で、アンナがさらに傷つくかもしれない。


だが、こちらが怖がって黙れば、彼女は新聞の小さな字で夫の死を読むことになる。


俺は首を振った。


「白灯を通します。読むか捨てるかは、彼女が決める」


マルコは頷いた。


許可ではなくとも、俺が選んだ後始末を、彼なりに見届けるという意味だった。


夜、山の新聞ではなく、港の速報が先に出た。


見出しは、俺たちが送った文面よりずっと短い。


魔晶石マフィア戦争。


死者一名。


その下に、サンドロの名は小さく載っていた。


俺は紙を折らなかった。


折れば、小さな名がさらに小さくなる気がした。


血を流さない戦争は、嘘だった。


だからせめて、その嘘で死者の名を包まない。


【人物紹介】

・サンドロ・ベルティ

ヴァレンティ家の保線係。二十四歳。妻アンナとの間に、まだ生まれていない子がいる。

新聞には「死者一名」と、その名前が書かれた。


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