第43話 交換条件の夜
サン・エリオの宿の部屋は狭い。
机の上には脅迫状。
灰青の粉がついた紙。
基金と特許を止めろ。
鉱床試料から手を引け。
港の犬を坑道へ捨てる。
港の犬。
テオをそう呼んだ手を、俺は折りたい。頭に血が上っていくのを感じる。
折って、名前を聞き出して、父の時代ならどうしたかを考える。
その考えが浮かぶたび、母の台帳が胸の中で開いた。
名前を先に。
生きている者を先に。
テオの名前を、怒りの燃料にするなと心の中で唱える。
「ラファエレへ知らせます」
俺が言うと、ブルーノが低く唸った。
彼は港から夜通しで来た。馬車と鉄道を乗り継ぎ、目の下に影を作っている。
「本体がやったなら、知らせるだけ無駄です」
「本体がやっていないなら、知らせないと戦争になる」
「戦争にすればいい」
言葉は短かった。
だが、部屋の空気が一気に重くなる。
ブルーノにとって、テオは若造ではない。
六分の一の夜から生き残り、工房で火傷し、軽口で家を支えた者だ。
彼を奪われ、危害を加えられることに黙っては居られない。
「戦争にすれば、テオが最初に死にます」
俺は言った。
ブルーノの拳が震える。
「わかっています」
「わかっていて言ったと」
「はい」
沈黙。
その正直さが、彼の怒りの深さだった。
ソフィアは夜明け前に着いた。
灰色の外套のまま、髪だけを結び直している。眠っていない顔だった。
父アルベルトの許可を取ったのか、無視したのか、俺にはわからない。
「父には、山の金融枠が崩れる恐れがあるとだけ伝えました」
彼女は言った。
「嘘は」
「ついていません。全部も言っていません」
昔の契約が、こんな朝にも息をする。
彼女は脅迫状を読み、すぐに三枚の紙を出した。
「要求にそのまま応じれば、誘拐は成功例になります。拒絶だけすれば、テオは危ない。だから交換条件を作ります」
「何を渡す」
「言葉です」
ブルーノが机を叩きかけ、マルコが視線だけで止めた。
ソフィアは怯まない。
「基金と特許の会議を一時停止する。ただし撤回ではなく、ラファエレ立会いの公開再協議へ移す。
鉱床試料の搬出も停止する。ただし坑道安全に関わる破損品の検査は続ける。
誘拐に関わった者は、山側の規律で裁かれる。ベランディは即時報復しない。
代わりにテオを生存状態で返す」
「こちらだけ我慢する紙だ」
ブルーノが言う。
「山側も傷つきます」
ソフィアは答えた。
「公開再協議になれば、ラファエレは若手の前で基金を完全には捨てられない。
誘拐を山側規律で裁くと書けば、彼は自分の家の暴走を認めることになる」
「認めると思うか」
俺が聞くと、彼女は少し黙った。
「認めたいとは思わない。でも、認めなければヴァレンティ家全体が誘拐を命じたことになる」
ラファエレにも、面子と恐怖がある。
弱さを見せれば、若手に削られる。
強く出れば、全面戦争になる。
どちらも彼の家を傷つける。
こちらも同じだ。
テオを取り返すために血を選べば、港の若手は喝采するかもしれない。
だが、山の負傷者家族は俺たちを二度と信じない。
中央政府は魔晶石規制の口実を得る。カヴァッロは新聞の見出しを手に入れる。
友人を守る愛が、別の誰かの子を危険へ押す。
それが見えていても、怒りは消えない。
「ラファエレに会います」
俺は言った。
「二人で」
マルコが即座に首を振る。
「許可できません」
「あなたは扉の外」
「中です」
「外です」
言い合いになりかけた時、ソフィアが割り込んだ。
「私も同席します」
「危険です」
「危険だから、条件を読む者が要ります」
彼女の目は疲れている。
だが、揺れていない。
「私はあなたの恋人として行くのではありません。オルシーニの金融と契約を持つ者として行きます。そうでなければ、ラファエレは公開再協議を飲まない」
恋人。
その言葉は、部屋に長く残らなかった。
残せる状況ではない。
それでも、俺は彼女の指が紙の端を押さえる形を見ていた。
震えを隠すように、強く。
会談は、町会館ではなく、駅の貨物詰所で行われた。
ラファエレは一人ではなかった。
側近と、山の白灯看護師がいる。
誘拐を命じた首領の顔ではない。
だが、無関係を装うには疲れすぎていた。
「ドン・ベランディ」
「テオを返してください」
礼儀を削った。
削らなければ、声が壊れそうだった。
ラファエレは目を閉じる。
「私の命令ではない」
「では、あなたの家の制御外で、俺の友人が殴られている」
「友人」
彼はその言葉を繰り返した。
「護衛ではなく」
「護衛でもあります」
「山の若手は、彼を港の目と見た」
「港の目でもあります」
認める。
テオはただの被害者ではない。
護衛で、情報を聞き、鉱夫と話し、俺の側に立つ男だ。山から見れば、警戒される理由はある。
あるからといって、誘拐して殴る権利にはならない。
「返してください」
俺はもう一度言った。
ラファエレの側近が低く言う。
「若手を今すぐ差し出せば、山の規律が崩れます」
ブルーノがいれば怒鳴っていただろう。
俺も怒鳴りたかった。
ソフィアが紙を置いた。
「崩れた規律を、隠して保つことはできません」
彼女は条件を読んだ。
基金と特許の協議を、三日間停止。
鉱床試料の搬出停止。
三番坑道事故の第三者検査は継続。
サン・エリオ町会館で公開再協議。
テオ・リッチの即時解放。
誘拐関与者はヴァレンティ家の規律で処分し、処分内容をベランディと白灯に通知。
ベランディは解放まで報復行動を取らず、解放後も処分通知まで山側構成員への私刑を禁じる。
読み終えると、詰所の空気は冷えた。
ラファエレは紙を見た。
「これは、私に恥をかかせる紙だ」
「はい」
ソフィアは答えた。
「同時に、ヴァレンティ家全体を誘拐犯にしない紙です」
「あなたは父親に似てきた」
「それは侮辱ですか」
「半分は」
「残り半分で署名してください」
彼女の声は静かだった。
ラファエレは、そこで初めて疲れた笑みを見せた。
敵を笑った顔ではない。
年老いた首領が、自分の家の若さに削られている顔だった。
「ミケーレではない」
彼は言った。
「彼は怒鳴ったが、そこまではしていない」
「誰です」
「名前は、解放後に」
「今」
俺の声が荒くなる。
マルコが背後でわずかに動いた。
ラファエレは視線を逸らさない。
「今名を言えば、あなたの怒りはそちらへ走る。私の若手もそれに反応する。テオは帰らない」
正しい。
正しいから、余計に腹が立つ。
「あなたの都合でもある」
「もちろん」
彼は認めた。
「正直に言おう。私は家を守りたい。
若手に弱いと思われたくない。
鉱夫に、港へ膝をついたと思われたくない。
だが、誘拐を家の方法にすれば、山は終わる」
彼が家の名を守ろうとしていることはわかる。
「署名を」
俺は言った。
だからこそ、テオの縄跡を交換条件の外には置かない。
ラファエレは署名した。
ソフィアも、証人として署名した。
俺が署名する時、指輪が紙へ触れた。
銀の音が、小さく鳴る。
夕方、テオは旧保線小屋の裏で解放された。
マルコが先に駆け寄り、俺を一歩後ろへ押さえた。
罠を疑う動き。
今は、その慎重さに感謝できる。
テオは歩いていた。
自分の足で。
顔の右側が腫れ、唇が切れている。
肋骨を庇うように身体を傾けていた。手首には縄の跡がある。
「テオ」
声をかけると、彼は片目だけで俺を見た。
「兄ちゃん」
いつもの軽さを作ろうとして、失敗した笑いだった。
「山の連中、豆は硬いし拳も硬いです」
黙って、と、リーナならそう言っただろう。
俺は代わりに、上着をかけた。
肩に触れた指が、少し震える。
彼はそれに気づいたのか、傷のない方の手で俺の袖を掴んだ。
「怒ってます?」
「はい」
「俺もです」
短い言葉だった。
それだけで十分だった。
診療所へ運ぶ馬車の中で、テオは途切れ途切れに話した。
誘拐したのは、ミケーレの周りにいた若手の一部。
ただしミケーレ本人は最後まで来なかったらしい。
殴った男の一人、名はピエリ。
別の男が、金の話をしていた。
「山の金じゃないって」
テオは唇を舐めた。
「港の馬が、山の若い血を買ってくれる、と」
馬。
カヴァッロ。
馬車の揺れが急に遠くなった。
やはり、顔のない同盟は山にも手を伸ばしていた。
ヴァレンティの若手の怒りは本物だ。
鉱夫の生活を守りたい恐怖も本物だ。
そこへ、カヴァッロの金が入った。
本物の怒りは、金で買われると、買った者の都合で燃える。
「ラファエレは」
テオが聞く。
「知ってたんですか」
「全部は知らなかったと思います」
俺は答えた。
「でも、若手の火を止めきれなかった」
「じゃあ、悪者は誰です」
簡単な問いではなかった。
誘拐したピエリは悪い。
金を入れたカヴァッロも悪い。
若手を抑えきれなかったラファエレにも責任がある。
山の怒りを侮った俺にも、事故の原因を確定できないまま基金を押した俺にも、何もないとは言えない。
だからといって、全員が悪いから誰も責めない、にはならない。
「責任を分けます」
俺は言った。
「分けて、逃がさない」
テオは腫れた顔で少し笑った。
「兄ちゃんらしい、面倒な答えです」
「黙って寝てください」
「それ、リーナさんみたいです」
今度は少しだけ、ちゃんと笑えた。
町へ戻ると、ヴァレンティの若手たちが広場に集まっていた。
ベランディの者も、少数だが集まっている。
ブルーノは俺を見る。
命令を待っている。
撃つな、と。
まだ。
その言葉を、俺は言わなければならない。
だが、言えば全員が納得するわけではない。
テオの腫れた顔は、報復の理由としてあまりに十分だった。
ラファエレが会館の階段に立つ。
顔は硬い。
彼もまた、若手の前で恥をかく。
俺も、味方の前で怒りを抑える。
ソフィアは階段の下で、証人の紙を胸に抱えていた。
彼女の指が白い。
触れれば震えが伝わる距離だった。
触れなかった。
今は、紙を落とさない彼女の選択を信じる場面だった。
広場の空気は、銃声の一歩手前で止まっている。
テオは生きて戻った。
それで終わりにはならない。
ヴァレンティ家全体を無罪にすることも、単純な敵にすることもできない。
山の怒りは本物で、誘拐は罪だ。
カヴァッロの金は汚れていて、それを受け取った手は山の若い手だった。
俺は指輪を握った。
全面戦争まで、紙一枚。
その紙を燃やしたがっている者が、両側にいた。
山の怒りは本物で、そこへカヴァッロの金が入った。
戻ってきたテオの顔は腫れ、上着には血が残る。
広場では、港と山の双方が向かい合った。
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