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灰冠の指輪 ~愛を知らず死んだ俺は、異世界で没落マフィアを再建する~  作者: ぬゅうた
6章 血を流さない戦争

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第42話 労働者基金



鉱山で一番高いものは魔晶石ではなく、事故で働けなくなった男の明日だ。


二十二歳の冬。


三番坑道の事故から一年半が過ぎた。


三番坑道の警報灯は、まだ結論を出していない。


第三者検査は続いていたが、報告書は厚くなるばかりだった。


外布箱の封が開いていたこと。湿気で熱が逃げにくかったこと。

黒変した薄片の混入比率が、工房の許容値ぎりぎりだったこと。

山側の保管棚が坑道入口に近すぎたこと。


工作の跡はある。


欠陥の影もある。


どちらか一つにしてくれれば、怒りは楽だった。


楽にならないまま、負傷者の家には冬が来る。


「補償枠は、このままだと春まで持ちません」


ルカが言った。


船員宿の監査室。


窓の外では、港の雨が冷たい筋になって落ちている。


「温熱板の販売益は伸びています。

ただし警報灯事故の補償、検査費、山への往復、オルシーニ融資の利払い、倉庫修繕で削られる。

新しい基金を作るなら、利益配分を変える必要があります」


「変えます」


俺は即答した。


ルカは、わかっていた顔でため息をついた。


「簡単に言うと、幹部取り分がまた遠のきます」


壁際のブルーノが鼻を鳴らす。


「山の鉱夫を食わせるために、港の連中の取り分を削る」


「港の警報灯で怪我をした鉱夫です」


「原因はまだ決まっていない」


「だからこそです」


言葉がぶつかる。


ブルーノの怒りはわかる。


彼は四年どころか、もっと長く父の下で血と金を回してきた。


港の未亡人、孤児、工員、炊事場。こちらにも守る家族がいる。


山の生活を守るために港の鍋を薄くすれば、別の誰かが傷つく。


正しい案は、誰かの皿を勝手に薄くする案でもある。


「基金は、ベランディだけで作るものではありません」


ルカが紙をめくる。


「提案は三者負担です。採掘側、製造側、販売金融側。

つまりヴァレンティ、ベランディ、オルシーニ。

販売価格へ一定額を上乗せし、事故・休業・遺族・再訓練に使う。支出は労働者代表を含む監査で見る」


「労働者代表?」


ブルーノが眉を上げる。


「鉱夫を理事に入れるのか」


「はい」


「家の金庫を外へ見せる」


「基金の金庫です」


「同じことだ」


半分は正しい。


見せる金が増えれば、奪われる場所も増える。

カヴァッロは慈善の顔で扶助金を買おうとした。基金は、その新しい餌になる。


それでも、見せない補償は支配になる。


「ソフィア嬢が来ます」


ルカが言った。


ブルーノの舌打ちは、もう会議の一部になっていた。


ソフィアは昼過ぎに来た。


黒でも青でもない、灰色の外套だった。


港の雨に濡れた裾を、彼女は気にしなかった。弁護士を一人連れ、分厚い紙束を抱えている。


父アルベルトの影も、その紙の重さに混じっているのだろう。


「労働者基金の案です」


彼女は挨拶の後、すぐ仕事へ入った。


「事故ごとの補償では足りません。

坑道警報灯の販売価格の一部、鉱石出荷一籠ごとの拠出、オルシーニ保険料の割戻しをまとめます。

働けなくなった人の賃金補填、家族の食費、子供の通学、再訓練。死亡時は遺族扶助」


死亡時。


言葉が部屋に落ちる。


今回は死者なしだった。


次もそうとは限らない。


「死亡を入れれば、山は事故を認めたように見ます」


ルカが言う。


「入れなければ、死者が出た時に全員が嘘をついたことに」


ソフィアは冷たくそう言った。


冷たいから正しく、役に立つ。


「利益配分は」


俺が聞く。


「ベランディの取り分を減らします」


彼女は俺を見た。


「ヴァレンティにも減らさせるためです。

あなたが先に痛みを見せなければ、ラファエレは若手に削られます」


「俺たちの痛みを、交渉材料にすると」


「します」


隠さない。


「ただし、オルシーニも保険手数料を削ります。父は嫌がります。私の立場も悪くなる」


彼女は少しだけ、俺の右手の指輪を見た。


「だから、これは贈り物ではありません」


「わかっています」


「わかっている顔をしないで。後で腹が立つから」


一瞬だけ、会議室の空気が昔の鐘楼へ戻りかけた。


午後、サン・エリオ鉱山町で三者会議が開かれた。


ラファエレは、基金案を最後まで黙って聞いた。


ミケーレたち若手は、最初から顔を赤くしていた。


「港の施しを、山の男が受けるのか」


ミケーレが机を叩く。


「事故を使って、鉱夫の名簿と賃金を港へ渡す気だ」


「名簿は基金監査に必要です」


ルカが言う。


「必要という言葉で、何でも持っていく」


彼の怒りには、経験がある。


外部資本が山へ来た時も、きっと必要と言ったのだろう。


安全のため、効率のため、投資のため。


そうして賃金表と家族構成を握り、逆らえない形にした。


俺たちが同じ顔をしていないと、誰が言える。


会議室の端には、三番坑道で負傷した鉱夫の妻が二人座っていた。


ラファエレが呼んだのか。


白灯が呼んだのか。


それとも、彼女たちが勝手に来たのか。


一人は膝の上で手袋を握りしめ、もう一人は帳簿を読むルカの口元をじっと見ていた。


「基金ができたら」


手袋の女が言った。


「夫は、ヴァレンティから見捨てられたことになりますか」


誰もすぐ答えなかった。


彼女の問いは、金額ではない。


所属の話だった。


山の家に守られてきた者が、外の基金を受け取る。


それは助けか。


それとも、自分たちのドンでは足りないと公にする札か。


もう一人の女が続ける。


「でも、冬の粉は要ります。子供の靴も。誇りで足は温まりません」


ミケーレが顔を歪めた。


責められた顔ではない。


守りたいものを、守られる側から別の言葉で言われた顔だった。


「基金は、どちらかの家から捨てられる証明にはしません」


俺は言った。


「そのために家紋を入れない。受け取った人の名を広場に貼らない。

必要な金を出した責任だけ、記録に残す」


「記録は怖い」


手袋の女が言った。


「昔、外の会社も記録を取りました。家族の数、借金、病気。後で賃金を下げる時に使われた」


紙が人を守る。

紙が人を縛る。


「だから、記録を見る人を増やします」


俺は答えた。


「増やせば漏れる危険も増える。減らせば隠される危険が増える。

どちらも怖い。怖いまま、どこまで見せるか決めるしかない」


女は納得しなかった。


それでも、目を逸らさなかった。


「名簿は山に置きます」


俺は言った。


「基金監査では、必要な項目だけを番号で扱う。本人名は、山側の代表と白灯の鉱山医が照合する」


「白灯も港の手だ」


「違う」


声が強くなった。


ソフィアが横で少しだけ指を動かした。


抑えろ、という合図に見えた。


俺は息を整える。


「白灯はベランディの旗ではありません。母が使っていたからといって、俺のものではない」


ラファエレがこちらを見る。


「その言葉は、山の白灯にも聞かせる」


「はい」


「だが、基金名にベランディの印は入れない」


「入れません」


「ヴァレンティの印もだ」


ミケーレが噛みつく。


「ドン、それでは山の家が鉱夫を守れなかったように見えます」


ラファエレの顔が硬くなる。


ここだ。


若手は、彼を弱いと言いたいわけではない。


怖いのだ。


山の家が鉱夫を守る名分を失えば、外部資本や港や中央政府に町を奪われる。


彼らの仕事も、誇りも、兄弟の墓も、値段をつけられる。


だから、基金そのものが侮辱に見える。


「守るための仕組みです」


俺が言うと、ミケーレは笑った。


「港の言葉は薄い」


「薄いかもしれない」


俺は答えた。


「俺たちの鍋も、何度も薄くなりました」


彼は黙る。


「だから、薄くなる皿を先に数えたい。基金は、誰がどれだけ痛むかを隠さないためのものです」


ラファエレは目を伏せた。


迷っている。


それが見えた瞬間、若手たちの空気が荒くなった。


ドンが迷う。


それだけで、山の家は揺れる。


ソフィアが静かに口を開いた。


「特許についても、同じです」


別の紙が出される。


「警報灯の基礎構造は、ベランディ工房、エヴァ・ロッセリ、ニコ・バルディ、工員班の共同成果です。

鉱山環境での改良は、ヴァレンティ側保守係と鉱夫の知見が入る。

共同特許にしなければ、どちらかが相手を訴える武器になります」


「特許を港と分ける?」


ミケーレの声が低くなる。


「これを入れなければ、港の紙だけが山を縛ります」


ソフィアは言った。


「あなたたちの名を入れるのは、名誉ではなく、後で消されないためです」


彼女は相手の誇りを撫でない。


必要な場所へ針を刺す。


だが、針は痛い。


静かな会議は、そこで折れた。


ミケーレが席を蹴った。


「俺たちは、港の紙に守られるほど落ちぶれていない」


彼だけではない。


若手三人が続いた。


ラファエレは止めた。


だが、声は遅かった。


「今日はここまでにしましょう」


ソフィアが言った。


決裂という言葉を使わないことで、次の席を残す。


それも交渉だった。


夜。


町の宿でテオが戻らなかった。


最初は、鉱夫たちと飲んでいるのだと思った。


彼は昼の会議後、負傷者の弟と話していた。


下層出身同士、妙に早く距離を詰める。


港の軽口が山で通じない時もあるが、彼は痛みの話になると、相手の言葉へ降りていける。


夕方、彼は宿を出る前に俺へ言った。


「兄ちゃん、山の若い連中、全員が悪い顔じゃないです」


「知っています」


「知ってる顔じゃないです」


言い返せなかった。


テオは笑った。


「あいつら、港が嫌いなんじゃなくて、値段をつけられるのが嫌なんだと思います。

俺も昔、扶助の列に並んだ時、助かったのに腹が立ちましたから」


「危ないところへ入るな」


「入らない話し方をしてきます」


そう言って、軽い足取りで彼は出た。


その軽さを、俺は止めなかった。


止める理由はあった。


だが、彼が現場の言葉を持っていることに頼った。


頼った結果が、戻らない夜だった。


「遅いですね」


リーナへの手紙を書いていた俺が顔を上げた時、マルコはもう立っていた。


「窓から離れてください」


次に、宿の扉が叩かれた。


三回。


間を置いて、一回。


山の子供が、紙を差し出して逃げた。


紙には、灰青の粉が少し付いていた。


文面は短い。


-

基金と特許の話を止めろ。

鉱床試料から手を引け。

明日の夜までに返答しなければ、港の犬を坑道へ捨てる。

-


名前はない。


だが、紙の端に、若い手が力を入れすぎた折り目があった。


テオ。


俺は一瞬、何も考えられなくなった。


喉の奥から、父の時代の命令が上がってくる。


探せ。

潰せ。

名前を吐かせろ。


「命令を」


冷たいまなざしをしたマルコが言う。


俺は右手の指輪を見る。


銀は冷たい。


冷たいまま、震えている。


「全員を集めます」


声が出た。


「撃つためではない。テオを生かして返す条件を探すためです」


言いながら、自分の中の怒りが納得していないこともわかっていた。


納得しない怒りを抱えたまま、俺は紙を机に置く。


血を流さないはず戦争で、相手はその夜、家族に等しい友人を人質に取った。


【用語紹介】

・労働者基金

鉱山事故の補償を、その都度どこか一つの家へ頼らず続けるための基金案。

ヴァレンティ、ベランディ、オルシーニの三者が負担し、販売価格の一部などを積み立てる。


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