第41話 警報灯が消えた坑道
サン・エリオ鉱山町の空は、港より近い。
近いのに、光は坑道の奥まで届かない。
だから、坑道警報灯を作った。
熱変化と空気の流れの乱れを拾い、赤ではなく白く点滅する小さな灯。
明るすぎれば人を驚かせる。弱すぎれば見落とす。
ニコはその中間を探し続け、エヴァは石の反応幅を絞り、ダミアーノとジータの班は鉱山用の外布と金具を別色にした。
万能ではない。
それでも、坑道で誰かが走る前に気づける可能性を、少し上げる。
そのはずだった。
試験導入は、ラファエレとの暫定合意で行われた。
設置はヴァレンティの鉱夫。
点検はベランディ工房と山側保守係の共同。
記録写しは双方に残す。
第三者検査はまだ入っていない。
そこだけが、会議で折り合わなかった。
ラファエレは、山の仕事を外の役人に値踏みさせることを嫌った。
俺は、俺たちだけで安全だと言うことを恐れた。
恐れたまま、試験は始まった。
「若様」
その朝、駅の電信が船員宿へ届いた。
ルカの顔が白い。
「三番坑道で事故です。警報灯が作動しなかった、と」
時間が止まる。
止まったのは一瞬だけだった。
誰が。
何人。
死者は。
だが、聞くより先にルカが続けた。
「死者なし。負傷者は七名。うち二名は骨折の疑い。粉塵吸入が三名。詳細は未確定」
死者なし。
その言葉で救われたと思った自分が、すぐに恥ずかしくなった。
死んでいなければ軽い、などということはない。
働けない腕。
走れなくなる脚。
粉を吸った肺。
明日の賃金が消える家。
鉱山で一番高いものは、石ではない。
俺は上着を取った。
「山へ行きます」
マルコは頷いた。
止めなかった。
テオは無言で応急鞄を背負った。
彼の左腕の火傷跡が、夏の光で白く見えた。
坑道の入口には、人が集まっていた。
怒鳴り声は少ない。
港なら、怒りはもっと早く音になる。
山の怒りは、岩のように黙る。
その方が怖かった。
負傷者は町の診療所へ運ばれていた。
白灯の看護師が一人、山側にもいた。
抗議状の封蝋に押されていた印と同じ、小さな白灯を鞄に縫っている。
母の消息を聞きたい衝動が喉まで上がった。
だが、今日は母を探す日ではない。
「ドン・ベランディ」
ラファエレが坑道前に立っていた。
礼儀は残っている。
だが、目は冬の抗議状より冷たい。
「あなたの灯は消えていた」
「確認します」
「確認する前に、鉱夫の妻たちはもう見ています」
彼の後ろに、女たちがいた。
怒りで赤くなった顔。
泣きすぎて白くなった顔。
子供の肩を抱く手。
その全部が、俺ではなく、俺の家名を見ている。
ベランディ。
港の搾取者。
危ない石を売る者。
そう見えるのは当然だった。
「中へ」
ラファエレが言った。
坑道は湿っていた。
警報灯は、支柱の横に取り付けられているはずだった。
現場へ行くと、白い灯の筒が一つ、割れていた。
外布は剥がれ、金具は曲がっている。魔晶石の薄片が一部、黒く変色していた。ニコがいたら顔を歪めただろう。
エヴァはしゃがみ込んだ。
「触らないで」
彼女の声に、山側の保守係がむっとする。
「俺たちが触ったと?」
「誰が触ったかを決めるために、今は誰も触らないの」
エヴァは紙袋を出し、破片の位置を見た。
「外から叩かれた跡がある。でも、熱の逃げ方も変」
「工作か」
テオが聞く。
「そう言いたい?」
エヴァは俺を見ずに言った。
「言えば楽でしょうね。誰かが壊した、私たちは悪くない。
けれど、この黒変は、設計の余裕が足りなかった時にも出る。
湿気で外布が膨らみ、熱が逃げず、灯が死んだ可能性もある」
胸の内側が冷える。
自社の欠陥。
その言葉は、工房の壁に貼った紙より鋭かった。
失敗を隠した者は追放。
俺は、自分を追放できるのか。
「設置記録は」
俺が聞くと、山側の保守係が紙を出した。
字は荒い。
だが、時間、設置者、湿度、固定金具の番号はある。
エヴァが目を細める。
「点検前日に、外布交換?」
保守係が頷いた。
「粉がついた。規定通り替えた」
「予備布はどこから」
「ベランディの箱だ」
「箱の封は」
彼は一瞬黙った。
「開いていた」
坑道の音が遠くなる。
開いていた箱。
誰かの工作かもしれない。
こちらの梱包不備かもしれない。
山側が保管を誤ったのかもしれない。
どれもあり得る。
あり得るまま、負傷者は七人いる。
坑道を出ると、若手のミケーレが待っていた。
駅前で俺に噛みついた男だ。
「どうだ、港の灯は」
彼は唇を歪める。
「鉱夫を救ったか」
「救えませんでした」
俺は答えた。
周囲が静まる。
「原因はまだ確定していません。
工作の可能性も、自社の設計や梱包の欠陥も、山側の保管の問題も残っています」
「逃げるな」
「逃げません」
俺はラファエレへ向き直った。
「負傷者全員へ、原因確定前に補償します」
ルカが息を呑む気配がした。
ここにルカはいない。
だが、俺の頭の中で彼の声がする。
財源は。
根拠は。
前例になります。
全部、正しい。
「治療費、当面の賃金補填、家族の食費。ベランディ工房の事故補償枠から先に出す。
ヴァレンティ側の労務補償と重複する分は、後で調整する。」
ミケーレが笑った。
「金で黙らせるのか」
「黙らせる金ではありません」
声が少し荒くなる。
「痛みがある間、交渉の結果を待たせないための金です。受け取っても、こちらを責める権利は消えません」
女たちの一人が顔を上げた。
子供を抱えたまま、俺を見ている。
「本当に?」
「はい」
「受け取ったら、夫が港に売られたって言われる」
その恐れは、俺より彼女の方がよく知っている。
だから、俺はラファエレを見る。
「山の名で配ってください。原資と記録にはベランディの名を残す。
受領者の責任ではなく、工房と試験導入の責任として」
ラファエレは長く黙った。
彼にも面子がある。
山の家が、港の金で鉱夫を救われたように見えれば、若手は彼を弱いと言う。
だが、金を拒めば、負傷者の家が明日困る。
「受け取る」
ラファエレは言った。
「ただし、山の補償を先に出す。あなた方の金は、後から不足分へ入れる」
「それで」
「原因調査は山が行う」
「第三者を入れてください」
今度は俺が譲らなかった。
周囲の空気がまた硬くなる。
「王立産業規格局、白灯が指名する鉱山医、そして双方の工房代表。山だけでも港だけでもない形にする」
ミケーレが吐き捨てる。
「役人に山を売る気か」
「役人に売られないためです」
俺は彼を見る。
「ここで山だけが調べれば、港は認めない。
港だけが調べれば、山は認めない。
結局、中央捜査局か企業警備が後から入ってきて、全部を危険物として縛る口実にする」
これは脅しではない。
カヴァッロの書類を追った時に見た、時代の動きだ。
事故は、必ず誰かの権限になる。
ラファエレは目を細めた。
「若いのに、役所の嫌な顔をよく知っている」
「父を殺した紙で覚えました」
言ってしまってから、少し息が詰まった。
ラファエレは何も言わなかった。
「補償の名目は」
彼がやがて聞いた。
「見舞金ではありません」
俺は答えた。
「見舞金にすれば、気持ちで終わる。なので、事故試験補償です。
原因が工作だった場合は、工作犯へ求償する。
設計欠陥だった場合は、ベランディ工房が追加で負う。
山側保管の問題があった場合でも、試験導入を急いだ共同責任は残る」
「言葉を細かくすれば、痛みが減るか」
ラファエレの声に棘がある。
「減りません」
俺は言った。
「でも、誰が次に何を負うかは変わります」
彼は、ほんの少しだけ頷いた。
納得ではない。
計算を始めた顔だった。
それでいい。
守るという言葉だけでは、冬の食費は払えない。
夕方、診療所で負傷者の名を読んだ。
骨折の疑いが二名。
粉塵吸入が三名。
打撲と裂傷が二名。
死者なし。
リーナへの報告書には、一人ずつ家族と働けない日数の見込みを書いた。
白灯の山側看護師が、俺の字を見て言った。
「エミリアさんも、名前を先に書きました」
喉が詰まる。
「母を知っているんですか」
彼女は目を伏せた。
「白灯は、必要な時にだけ灯ります」
答えではない。
でも、嘘ではない。
これ以上聞けば、今日の負傷者の場を母の影で奪ってしまう。
俺は頷くしかなかった。
負傷者の一人、腕を吊った若い鉱夫が、寝台から俺を呼んだ。
「港のドン」
彼の声はかすれている。
「はい」
「灯がついていたら、俺たちは逃げられたのか」
答えが喉に引っかかる。
警報灯は未来を保証しない。
ただ、危険に気づく時間を少し買い、逃げやすくする道具だ。
「わかりません」
俺は言った。
彼の母親らしい女が、俺を睨んだ。
「でも、わからないまま売った」
「試験として入れました。売った商品ではありません」
言い訳のように聞こえた。
実際、半分は言い訳だ。
「試験に人の坑道を使ったのは本当です」
俺は言い直す。
「だから補償します。検査します。原因がどこにあっても、試験の責任から逃げません」
若い鉱夫は目を閉じた。
許した顔ではない。
ただ、聞いた顔だった。
今はそれ以上を欲しがってはいけない。
夜。
宿で工房へ電信を打った。
ニコへ。
警報灯三番坑道、破損。
原因未確定。
外布箱の封開封、黒変あり。
自社欠陥可能性を残す。
全記録保全。
エヴァは隣で破片袋の番号を書いている。
テオは黙って窓の外を見ていた。
「兄ちゃん」
「何だ」
「俺、あの奥さんの顔、忘れられないです」
「俺もです」
「金、足りますか」
俺は苦く笑う。
「足りる範囲で補償するんじゃない。補償してから、他を足りなくする」
それで救われるわけではない。
補償は謝罪ではない。
検査も、真実を必ずきれいに出してくれるわけではない。
工作だったとしても、欠陥がなかったことにはならないかもしれない。
欠陥だったとしても、誰かがそれを利用した可能性は残る。
灰青の灯は消えた。
消えた灯の前で、俺たちは自分たちに都合のいい暗闇を選ばない。
そう決めるしかなかった。
【用語紹介】
・坑道警報灯
坑道内の熱変化と空気の流れの乱れを拾い、白く点滅して危険を知らせる装置。
明るすぎれば作業者を驚かせ、弱すぎれば見落とされるため、その中間に調整されている。
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