第40.5話 山の硬いパン
ラファエレ・ヴァレンティは救助された子供が残した歯形つきの硬いパンを、朝の会議卓から片づけられなかった。
パンは小さい。
山の子供が朝に持たされる、硬く焼いた黒パンだ。昨日、保線小屋から引き出された娘が、毛布にくるまれたまま握っていた。半分だけ噛み、疲れて眠った。
誰かが会議前に片づけるはずだったが、誰も触れなかった。
「ドン」
側近のオルランドが書類を持って立っていた。
「若手が集まっています」
「怒っているか」
「怒っていない若手は、山にいません」
ラファエレは薄く笑った。
笑いは口元で止まる。
昨日、港の若いドンは布を運んだ。
ベランディの護衛は子供に上着をかけた。
女の鉱物学者は崩れる岩を見て、危ない場所に印をつけた。
その事実だけで山の扉を開ければ、ラファエレは自分の家の鍵を捨てたことになる。
救助への礼。
鉱床の権利。
鉄道の支配。
鉱夫の生活。
同じ朝の机に、全部が載っていた。
若手たちは食堂にいた。
豆の煮込みの湯気が、荒い息を少しだけ隠している。ミケーレは壁際で腕を組み、他の若者たちより一歩前に立っていた。
一歩前に立つ者は、自分が皆の怒りを背負っていると思いやすい。
ラファエレも若い頃、そうだった。
「港の連中を泊めているそうですね」
ミケーレが言った。
「線路が止まっている」
「歩いて帰せばいい」
「山道で死なせれば、こちらの面子は立つか」
ミケーレの顎が硬くなる。
「昨日、布を運んだからって」
「礼は言う」
ラファエレは席に着いた。
「だが、権利は渡さない」
若手たちの空気が少し緩む。
彼らが欲しい言葉は、それだった。
港へ頭を下げていない。
山は山のまま。
しかし、そこで終われば昨日救われた保線員の脚も、子供の震えも、ただの面子の飾りになる。
「警報灯の試験は、条件を変える」
「受けるんですか」
ミケーレの声が低い。
「受けない、と言えば勇ましい」
ラファエレはパンを見た。
子供の歯形。
小さい。
「だが、昨日の地滑りで、東斜面の見張りがもっと早く鳴っていれば、保線員の娘は小屋に入らずに済んだかもしれない」
「港の灯なんかに頼れば」
「頼らない」
ラファエレは彼を見た。
「使えるなら、山の道具にする」
給仕の女、マルタが鍋を混ぜていた。サンドロの叔母だ。家の会議で意見を求められる立場ではない。ただ、山の食堂で、男たちの空腹と怒りの量を毎日見ている女だった。
「ドン」
彼女が口を開いた。
男たちが振り向く。
「昨日怪我した保線員の家へ、粥を持って行きます。粉は、どこの帳面で落とします」
問いは粉のことだった。同時に、昨日の救助をどこの責任にするかの問いでもあった。
「鉄道保守費」
ラファエレは答えた。
「見舞いではない。保守中の事故だ」
マルタは頷いた。
「子供の飴は」
「私の財布」
ドンが子供へ飴を買うことは、優しさにも見える。権威を買うことにも見える。どちらでもある。
朝食の後、ラファエレは保線小屋の家族を見舞った。
薪の匂いと湿った靴の匂いが混じる家だった。昨日脚を挟まれた保線員は寝台に横たわり、妻は礼を言うべきか怒るべきかわからない顔をしていた。
「治療費は鉄道保守から出す」
ラファエレが言うと、妻は目を伏せた。
「ありがとうございます」
その言葉は薄かった。
薄い礼を責める資格はない。
彼女の夫は、しばらく線路へ出られない。賃金が減る。子供は昨日から声を出していない。ドンが粉を出しても、地滑りの土は家の中に残る。
「港の人も、助けてくれた」
寝台の男が言った。
ミケーレなら嫌な顔をしただろう。
ラファエレは頷いた。
「その礼は、私が言った」
「警報灯は」
妻が小さく聞いた。
「本当に鳴るんでしょうか」
正直な問いだった。
ラファエレは、鳴るとは言えなかった。
「まだ試す道具だ」
「試すのは、うちの坑道ですか」
痛いところを突かれた。
港の道具を山で試す。
その言葉だけなら、外部資本が昔したことと同じ形になる。
「だから、山の者が設置する。山の者が点検する。記録の写しは山に残す。港の工房だけの道具にはしない」
「それで安全になりますか」
「安全になる可能性を少し上げる」
女は笑わなかった。
「少し」
「少しだ」
大きく言えば、彼女は安心したかもしれない。
安心させる嘘は、後で深く傷を作る。
白灯の看護師が包帯を替えていた。
彼女は山の女だが、鞄に小さな白灯を縫っている。ラファエレはその印を昔から知っていた。港の奥方が使っていたという話も、知らないふりをしている。
「熱は」
彼が聞くと、看護師は短く答えた。
「今のところ低い。ただ、肩の方は時間がかかります」
「仕事に戻せるか」
「戻せる日と、戻していい日は違います」
刺すような言葉だった。
ラファエレは頷いた。
「鉄道帳場へ、休業分を出させる」
「帳場は嫌がります」
「帳場のために線路があるのではない」
帳場がなければ粉は買えない。粉がなければ食堂は動かない。
善い言葉だけで山は回らない。
会館へ戻ると、試験条件の書き換えが待っていた。
ベランディ側の案では、設置は共同、点検は共同、記録は双方保管となっている。
ラファエレは赤い鉛筆を取った。
設置責任者は山側保守係。
ベランディ工房は立会い。
点検は山側保守係とベランディ工房代表の二名以上。
記録原本は山に置く。
写しを港へ送る。
不具合時は出荷停止ではなく、該当坑道への追加設置停止。
ここで手が止まった。
追加設置停止だけでは足りないかもしれない。
だが全面停止にすれば、若手は勝ったと言い、負傷者の家族はまた暗い坑道へ入る。
「共同点検時の記録写しに、鉱夫代表の印を入れる」
オルランドが横から言った。
ラファエレは彼を見た。
「鉱夫に印を持たせるか」
「持たせなければ、港とドンの紙です」
側近は淡々としている。
正しい。
正しいが、印を増やせば、ドンの一言で動かない場所も増える。
支配は少し薄くなる。
安全は少し厚くなる。
同じ紙で、その二つが起きる。
ラファエレは赤い線を引き、鉱夫代表印の欄を足した。
午後、ベランディの若いドンへ条件を伝える場が設けられた。
レオーネは疲れた顔をしていた。
昨夜、宿で眠れなかったのだろう。
それでも、椅子に座る前に会館の窓と扉を見た。護衛から教わった癖か、自分で身につけた恐れか。どちらにせよ、山では役に立つ。
「昨日の救助には礼を言う」
ラファエレは言った。
「ありがとうございます」
「礼と権利は別だ」
「昨日も聞きました」
「何度でも言う。忘れた時に人が死ぬ」
レオーネは頷いた。
その若さで頷けることが、少し危うく見えた。
「警報灯の試験は、山側設置、共同点検、記録原本は山、写しは港。鉱夫代表印を入れる。受けるなら、試験坑道を一つ指定する」
エヴァがすぐ紙を覗き込んだ。
「原本が山だけでは困るわ。改竄された時」
ミケーレが立ち上がりかける。
ラファエレが手を上げた。
「写しは同日電信で番号通知。月末に封印写しを交換する」
「それなら」
エヴァはまだ不満そうだが、頷いた。
レオーネは少し考えた。
「第三者検査は」
「まだ入れない」
空気が硬くなる。
「今入れれば、山は港に役人を呼ばれたと見る。まず山と港で記録を作る。記録が食い違えば、その時に外部を呼ぶ」
「事故が起きてからでは遅い」
「役人の印があれば事故が起きないのか」
問いは意地悪だった。
レオーネは黙った。
それでいい。
互いに譲れない線が見えた。
「試験は一つ」
ラファエレは続けた。
「成功しても、山の全坑道へ広げるとは言わない。失敗しても、即座に港を追い出すとは言わない。記録で次を決める」
レオーネの目が少し変わった。
その言葉は、彼の工房の言葉でもあるのだろう。
信用ではない。
ただ、同じ道具を違う恐れから使おうとしている。
会議が終わると、ラファエレは例のパンを紙に包んだ。
捨てるには重い。
飾るには軽すぎる。
彼は食堂へ戻り、救助された子供へ飴と一緒に渡した。
「これは」
子供が小さく聞く。
「昨日、お前が噛んだパンだ」
「硬かった」
「山のパンは硬い」
「港の人も食べた?」
ラファエレは一瞬迷った。
「食べた」
「嫌な顔した?」
「したかもしれん」
子供は初めて少し笑った。
その笑いだけで、山と港が和解するわけではない。
明日には、若手がまた怒る。
ベランディは記録の写しを求める。
ラファエレは鉄道を手放さない。
警報灯が本当に役立つかも、まだわからない。
それでも彼は、子供の歯形の残ったパンを捨てなかった。
救われた命を、礼の飾りにも、交渉の札にもしたくなかった。
夕方、会館へ戻る途中で、彼は擦れた肘の上着を見た。
弱く見えるかもしれない。堅く見えるかもしれない。見え方をすべて支配することはできない。
できるのは、線を引くことだけだった。
港へ礼は言う。
山の権利は渡さない。
安全道具は拒まない。
だが、山の手で触る。
ラファエレは赤い線を入れた試験条件書を封筒に入れた。
硬いパンを噛むには、歯が要る。
飲み込むには、もっと時間が要る。
赤い線を入れた試験条件書と、子供の歯形が残る硬いパン。
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