第39話 山から来た抗議状
6章 血を流さない戦争
山のファミリーは、弔辞のように丁寧な文面で抗議を告げてきた。
封筒は厚く、硬かった。
差出人は、ドン・ラファエレ・ヴァレンティ。
ヴァルモーラ鉱区と、ブルーマ峠鉄道を握る山の家。
俺たちが買ったのは第三残滓置き場の保管権であって、鉱床ではない。
ルカは購入前に三度、港湾庁と山岳登記所へ照会した。
ソフィアの弁護士も、所有権の境目に赤い線を引いた。
それでも、抗議状は届いた。
ヴァレノの港に、山の雪の匂いが混じる季節だった。
「文面は脅しですか」
テオが聞いた。
彼は火傷の跡が残る左腕を、わざと机の上に置いている。
「脅しです」
ルカが眼鏡を直した。
「ただし、とても礼儀正しい」
彼は抗議状を読み上げる。
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ヴァルモーラ旧鉱山群に由来する灰青結晶の採取、精製、販売について。
鉱床権、採掘労働者の雇用権、山岳鉄道輸送権、ならびにサン・エリオ鉱山町の生活保障を侵害する疑い。
説明なき拡張は、労働者とその家族への敵対行為とみなす。
ただちに代表者の面会を求める。
従わぬ場合、山岳側は相応の防衛措置を取る。
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血の匂いはしない。
だが、最後の一文は銃より重かった。
「防衛措置、ね」
ブルーノが低く笑う。
「山の連中は、言葉まで雪で包むのが上手い」
「雪の下に石があるからでしょう」
ルカが答える。
二人のやり取りに、笑う者はいなかった。
工房では、坑道警報灯の予約が増えている。
温熱板の第六型は白灯を通じて山の医師にも届き始めた。
鉱山で使える安全設備として、警報灯はもっと数が要る。
残滓だけでは足りない。質も揃わない。
エヴァは何度も言った。
鉱床の試料が必要だ、と。
俺たちは、そこへ手を伸ばしかけていた。
伸ばしかけた手を、山が叩いた。
「こっちにも守らなきゃいけない現場があります」
ニコが珍しく先に言った。
「警報灯を作らなければ、坑道で人が死ぬかもしれない。残滓のばらつきだけでは、安定したものは作れません」
「山にも守ってきた現場があるわ」
エヴァが答える。
彼女は抗議状の鉱区名を指でなぞっていた。
「鉱夫は鉱床を掘って飯を食べる。家族は鉄道で粉と薬を受け取る。
外の港が急に灰青結晶へ値段をつければ、鉱山主は賃金を上げる前に採掘量を上げたがる。
事故も増える」
「ヴァレンティが守ると」
ブルーノの声は疑わしい。
エヴァは顔を上げた。
「支配もするでしょうね。でも、守ってもいる」
そこが厄介だった。
ベランディ家が港でそうだったように。
俺たちは、住民の食費を回し、同時に誰かを脅した。
母の診療所は人を救い、同時に父の力の上に立っていた。
山の家も、同じ種類の矛盾を抱えている。
ヴァレンティが鉄道を握るから、鉱夫の賃金は勝手に外へ吸われない。
ヴァレンティが鉄道を握るから、鉱夫は別の買い手を選べない。
「返答は」
マルコが聞いた。
彼は窓の外を見ている。冬の港では、荷馬車の車輪が濡れた石を噛む音がした。
「争うなら、こちらの登記と契約は強い」
ルカが言う。
「第三残滓置き場の保管権は合法です。鉱床へ未許可採掘はしていない。山岳鉄道を使わず海側へ運んだ分も、港湾庁の帳票は揃っています」
「勝てるのか」
「紙の上では、争えます」
ルカは、勝てるとは言わなかった。
紙で争う間に、山岳鉄道が止まれば、俺たちの警報灯は鉱山へ届かない。鉱床試料も来ない。鉄道の工夫一つで、納期は遅れ、信用は落ちる。
銃を撃たなくても、人の生活は締められる。
俺たちは、それを港で痛いほど学んだ。
「鉄道を迂回する道は」
ブルーノが聞く。
ルカはすぐ答えなかった。
答えが遅い時のルカは、嘘を探しているのではない。言い方を探している。
「あります。馬車道が二本。古い軍道が一本。ただし冬は閉じます。春でも荷の破損が増える。保険料は三倍近くになり、魔晶石の薄片は振動で割れる可能性が高い」
「つまり、ない」
「実務上は」
ニコが顔をしかめた。
「警報灯用の薄片は、温熱板より神経質です。揺れで見えない亀裂が入ると、坑道で初めて壊れる。運べばいい、では済みません」
「山の鉄道が喉ですね」
テオが言った。
「こっちの喉でもあり、向こうの喉でもある」
俺は抗議状を見る。
鉄道を止めれば、ヴァレンティは俺たちを締められる。
だが、止めすぎれば鉱夫の賃金も止まる。
坑木も、粉も、薬も山へ入らない。
鉄道を握るとは、敵の喉に手をかけることではなく、自分の家族の喉にも同じ手を置くことだった。
「ラファエレは、戦争したい男ではないと思います」
リーナが言った。
全員が彼女を見る。
「抗議状に、鉱夫の妻子が何度も出てきます。脅しなら、鉱床権だけで足りる。
家族を入れたのは、山の中へ向けた文章でもあるのでは」
山の中へ向けた文章。
つまり、ラファエレは俺たちだけに書いていない。
若手へ。
鉱夫へ。
鉄道員へ。
自分は港に弱く出ていない、と見せるために。
「面子か」
ブルーノが吐き捨てる。
「面子で人が死ぬ」
「はい」
俺は頷いた。
「でも、面子を無視しても人が死にます。
ドンが弱いと見られた場所では、若手が勝手に強さを見せようとする」
復讐の酒で沈みかけた地下。
兄の仇を名目に、白灯の戸口まで血を持ち込んだジーノ。
父を英雄にした若手の目。
港で起きたことが、山で起きないと言える理由はない。
ブルーノは黙った。
黙ったまま、指の節を鳴らした。
「こちらの論理も、同じように書きます」
俺は言った。
「警報灯は、鉱夫を監視する道具ではない。坑道の危険を早く知らせるためのものだ。
ただし、設置と点検の権利をこちらだけが握れば監視になる。だから、山側の点検者を入れる」
ルカが紙へ走り書きする。
「残滓権は合法。だが、鉱床へ進むなら新しい合意が必要。
鉱夫の賃金や事故補償へ一定額を積む用意がある。
ただし、ヴァレンティ家が鉄道を使って安全設備の供給を止めるなら、その責任を追及する」
「喧嘩腰です」
ルカが言う。
「喧嘩です」
俺は答えた。
「ただ、最初から血を流すわけじゃない」
その言葉を口にすると、部屋の隅でマルコがわずかに目を伏せた。
彼は知っている。
血で始めない戦争にも、血は出る。
「港の人間に鉱夫の生活を語られたくないでしょうね」
リーナが言った。
彼女の前には母の台帳の写しがある。白灯の符丁が挟まれたページは、紙の端が少し擦り切れていた。
「こっちが温熱板を売れば、山の年寄りは助かるかもしれない。
でも、山の賃金や採掘量に口を出せば、助ける顔をした支配になる」
母が言いそうな言葉だった。
俺は抗議状をもう一度読む。
鉱床権。
労働者の生活権。
家族。
どれも、こちらが軽く扱えば本当に罪になる言葉だ。
だが、ヴァレンティがその言葉を盾にして、山の若手の利権や鉄道運賃を守っている可能性もある。
その言い分を飲み込んでも、山の帳場と若手が得る分け前までは白くならない。
「面会に行きます」
俺が言うと、ブルーノが顔をしかめた。
「向こうの土地へ?」
「はい」
「罠なら」
「護衛を絞る。マルコとテオ。エヴァも連れて行く。山の石について、俺だけで話せば嘘になる」
エヴァが少しだけ頷いた。
「私を盾にしないでね」
「盾にするほど頑丈ですか」
「頭ならあなたより硬いわ」
テオが吹き出した。
緊張が一瞬だけ緩む。
「ソフィア嬢には」
ルカが聞いた。
「連絡します」
ブルーノの眉がまた動いた。緊張がまた皆の顔に戻る。
「オルシーニを山へ入れるのか」
「入れません。面会の場の設計を頼むだけです。金融と契約の線を見てもらう。
ヴァレンティにも、こちらにも、逃げ道と面子が必要です」
「敵の娘に面子を預ける」
「預けるのではなく、仕事を頼みます」
それでも同じだ、とブルーノの目が言う。
完全には間違っていない。
ソフィアは味方ではない。
契約相手で、限定協力者で、幼い頃に干し杏を三つ数えた少女で、父の葬儀で俺が傷つけた女だ。
その全部を、便利な一語にまとめたくなかった。
夕方、ソフィアから返事が来た。
彼女の筆跡は、以前より少し角が強い。
面会はサン・エリオ鉱山町の会館。
同席者は双方三名まで。
武器は入口で預ける。ただし護衛一名の短刀のみ封印して携帯可。
議題は三つ。
残滓権の確認。
鉱床試料の扱い。
鉱夫と家族への安全設備の供給。
最後に、短い一文があった。
白灯の名を、交渉の飾りにしないで。
俺はその紙をしばらく見た。
彼女は、俺が母の名を盾にしそうな場所を知っている。
知っていることが嬉しいのか、怖いのか、自分でもわからない。
夜。
抗議状を片づけようとした時だった。
リーナが封蝋の欠けらを拾い上げた。
「若様」
声が少し硬い。
「これ」
ヴァレンティの紋章の端。
山羊と歯車の印の、その外側。
封蝋が薄く潰れた部分に、別の小さな印が重なっていた。
白い灯をかたどった、古い看護符丁。
母の連絡帳で見たものと同じ。
「白灯印」
リーナが呟く。
胸の奥が、音もなく落ちた。
ヴァレンティの抗議状に、母の網の印がある。
リーナは母の白灯連絡帳を開いた。
古い頁に、同じ印があった。
灯の芯が右へ傾いているものは、薬の手配。
左へ傾いているものは、移送。
丸い輪が二重のものは、身元を明かせない患者。
封蝋に残った印は、芯がまっすぐで、下に小さな点がある。
リーナの指が止まる。
「これ、奥様の頁には説明がありません」
「未知の符丁か」
「たぶん、白灯の外で使う時の印です。修道女ではなく、看護師でもなく、協力者が押す時の」
協力者。
山に、母の協力者がいたのか。
それとも、母の符丁を知る誰かが、俺を山へ誘っているのか。
希望へ飛びつきそうになる自分を、俺は押さえた。
母は生きているかもしれない。
生きていないかもしれない。
白灯印は救いかもしれない。
罠かもしれない。
ただ、どれであっても、山の鉱夫と家族の話を母探しの踏み台にはできない。
母がいたなら、最初に怒るのはそこだ。
誰が押したのか。
山の白灯か。
母を知る誰かなのか。
それとも、こちらを誘う餌なのか。
希望は、時々、罠と同じ形をして届く。
俺は封蝋を紙の上に置いた。
父の指輪で押さえる。
血ではなく、白い灯の痕が、冬の机に残った。
【人物紹介】
ラファエレ・ヴァレンティ
ヴァルモーラ鉱区とブルーマ峠鉄道を預かる、ヴァレンティ家のドン。
鉱床だけでなく、そこで働く者と家族の生活を守ろうとしている。
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