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灰冠の指輪 ~愛を知らず死んだ俺は、異世界で没落マフィアを再建する~  作者: ぬゅうた
5章 六分の一家族

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第36.5話 封筒を守る夜



ソフィア・オルシーニは父の食卓で、肉料理に手を付けるより先に、封筒の角を隠した。


銀の皿には、仔牛の煮込みが置かれていた。


劇場街の屋敷では、料理が冷める前に話してよいことと、冷めてから話すことがある。


今夜の封筒は、そのどちらでもなかった。


話してはいけないものだった。


数日前、劇場裏でレオーネへ渡した封筒には、保護の同意が取れた名だけを入れた。


膝の上にあるのは、その時には渡せなかった残りだ。


「疲れているな」


父アルベルトが言った。


声は優しい。


優しい声で、人の手札を数える人だ。


ソフィアはナイフを置いた。


「契約書を三枚読むと、目が疲れます」


「三枚で済んだのか」


「今日は」


嘘はついていない。


全部も言っていない。


父は笑った。


年を重ねても、彼の笑みは劇場の灯のように整っている。近づけば熱い。遠目には美しい。


「ベランディの若いドンは、首輪を嫌がったか」


「誰でも、首輪は嫌がります」


「嫌がらない者もいる。首輪を宝石と思わせればいい」


ソフィアは肉を切った。


柔らかい。


山の硬いパンの話を、まだ彼女は知らない。


けれど柔らかい肉を食べながら、紙一枚で別の家の鍋を薄くする感触は知っている。


「それを嫌がる相手と組む方が、長く儲かります」


「儲けの話か」


「父の食卓では、恋の話より安全でしょう」


アルベルトは楽しそうに目を細めた。


「恋なら、まだ使える」


封筒の角が、膝の上で指に当たった。


四年前、黒い喪服の下で握っていた封筒とは違う。


あの時の紙は、ほとんどがそのままでは使えなかった。


港湾庁の書記の名。企業警備の下働きの証言。オルシーニ帳場から抜いた保険の写し。


どれも真実へ近づく道具であり、同時に誰かの首にかかる縄だった。


レオーネは受け取れなかった。


受け取らなかった理由は、今ならわかる。


父の棺。


怒りに満ちた礼拝堂。


オルシーニ銀行がベランディ没落で担保を取った事実。


わかることと、痛まなかったことは違う。


「ソフィア」


父の声が近くなる。


「その若いドンは、君を信用したか」


「信用ではなく、条件を読みました」


「そうか。賢くなった」


褒め言葉の形をしていた。


ソフィアは微笑んだ。


「父に似ましたから」


アルベルトの目が少しだけ冷える。


似ていると言われて喜ぶ部分と、嫌悪する部分。


父もそれを知っている。


「証拠の話は出たか」


来た。


ソフィアは水を飲んだ。


「出ました」


「どこまで渡す」


「渡せるところまで」


「私の帳場を傷つける名は」


「守れるなら渡します」


食卓の空気が静かになった。


給仕の手が止まる。


父は怒鳴らない。


怒鳴る必要がない場所で生きてきたからだ。


「お前は、家を売るのか」


「売りません。だから、父の手も縛る契約にしました」


「私を?」


「父だけではありません。ベランディも、白灯も、工房も、オルシーニも。

誰か一人の善(・)意(・)で石が動かないように」


アルベルトはナプキンで口元を拭いた。


「善意か。ベランディの善意で泣いた者を、私は何人も知っている」


「私も知っています」


「なら、なぜ助ける」


助ける。


その言葉は、父の口にかかると値札になる。


「助けるだけではありません」


ソフィアは答えた。


「彼らが失敗すれば、ラゴかカヴァッロの残りが権利を買う。

父が全部を握れば、劇場街の金融が患者の膝まで所有する。

ベランディが全部を握れば、港の古い力が別の形で戻る」


「では、お前が均衡を作ると」


「作ろうとして、失敗するかもしれません」


父は笑わなかった。


その沈黙が、夕食の終わりだった。


部屋を出る時、ソフィアは侍女のエレナへ小さな包みを渡した。


薄い青のリボン。


劇場の衣装部で余ったものだ。


「妹さんへ」


「お嬢様、いただけません」


「貸しです」


エレナが顔を上げる。


贈り物ではなく貸し。


その言葉なら、彼女は受け取りやすい。


使用人が主人の娘から無償でものを受け取ると、別の誰かに見られた時、弱みになる。


「では、借ります」


「明日の朝、劇場裏へ行く使いがあります。菓子の籠を」


「はい」


「中身は菓子だけ。籠の底は見ないこと」


エレナの指が少し震えた。


「危ないことですか」


「危ないことにしないための使いです」


それでも危ない。


ソフィアは知っている。


小さな贈り物で人を動かすことは、優しさと利用が同じ手つきになる。


エレナの妹にリボンを渡したい気持ちは本物だ。だが、その本物を、封筒を守る道に使っている。


きれいな手ではない。


書斎へ戻る前、ソフィアは手袋を選んだ。


黒は重すぎる。


白は嘘に見える。


灰色にした。


どちらの家の色でもない。どちらにも汚れる色。


深夜、劇場裏の通用口で、連絡係の少年が待っていた。


劇場で小道具を運ぶ子だ。名はピエロ。笑うと欠けた前歯が見える。


父の帳場にも、ベランディにも、完全には属していない。だから使える。


だから、危うい。


「お嬢様、港湾庁の人、王都へ移ったって」


「家族は」


「先に出した。白灯の女が手配したらしい」


白灯。


エミリア・ベランディの影がここで濃くなりすぎると、父も、ベランディも、カヴァッロの残りも、その灯を探す。


「警備会社の下働きは」


「劇場の荷運びになった。名前は変えた」


「変えた名前を、私に言わないで」


ピエロが驚く。


「知らない方がいいこともあるの」


彼は頷いた。


納得ではない。


怖さに従っただけだ。


ソフィアは菓子の籠を渡した。表には焼き菓子。底には弁護士へ回す保護条件の写し。


「走らないで」


「急がなくていいんですか」


「急ぐ足音は、覚えられる」


少年は黙って路地へ消えた。


見送った後、ソフィアは劇場の灯を見上げた。


舞台では今夜、家族の再会を描く喜劇がかかっている。


客は笑い、幕が下りれば拍手する。


現実の家族は、幕で区切れない。


父を愛している。

父を信じていない。


その二つが同じ胸にある。


屋敷へ戻ると、父の書斎前に灯がついていた。


通らずに部屋へ戻ることもできる。


だが、避ければ父は避けたことを読む。


ソフィアは扉を叩いた。


「入れ」


書斎には、金融街の地図と劇場の収支表が広がっていた。


父は封筒を見ていない。


見ていないふりをしている。


「夜歩きか」


「劇場の差し入れを確認していました」


「菓子の味まで見るのか」


「客は甘いものにうるさいので」


アルベルトは紙を閉じた。


「お前は、ベランディの少年に同情している」


「はい」


否定しなかった。


父の目がわずかに動く。


「同情で契約を作る者は負ける」


「同情をないことにして契約を作る者も、別の負け方をします」


「誰に教わった」


「母が生きていた頃、父が教えてくださいました」


アルベルトの顔から、ほんの一瞬、劇場の灯が消えた。


母の話は、父の弱い場所ではない。


弱い場所に見えるほど、父は甘くない。


ただ、亡くなった人の名前は、金融の数字より少しだけ動かしにくい。


「封筒の中身を全部、ベランディへ渡すな」


父は言った。


命令ではなく、忠告の形だった。


「全部は渡しません」


「なぜ」


「証言者を守る条件が先です。彼らを守らない情報は、復讐にも正義にも使わせません」


「レオーネのためではなく?」


「彼にも渡しません」


彼。


名前で呼ばなかった。


父はそこまで聞いて、ようやく椅子にもたれた。


「私に似たな」


「半分は侮辱です」


「残り半分は」


「警告として受け取ります」


父は笑った。


今度の笑いには、少し疲れがあった。


部屋へ戻った後、ソフィアは机に封筒を置いた。


四年前の封蝋は古く、端が割れている。


彼女はその上から新しい封蝋を重ねた。オルシーニの紋章ではなく、無地の蝋。


宛名を書き直す。


レオーネ・ベランディ殿。


一度そう書いて、線を引かなかった。


殿は冷たすぎる。


レオーネへ。


近すぎる。


近すぎる宛名は、封筒を恋文にする。


恋文にすれば、証言者の危険も、家の利害も、四年前の傷も薄くなる。


ソフィアは新しい紙を出した。


ベランディ家監査室保管。


レオーネ・ベランディ、ルカ・モレッティ、リーナ、指定外部書記の共同開封。


そこまで書いて、手を止める。


彼を信じていない文面だ。


だが、彼だけを信じる文面より、ずっと彼を守る。


彼女は封筒の内側へ、小さな紙を一枚入れた。


証言者保護の条件が満たされるまで、名を急がないこと。

オルシーニの潔白証明だけに使わないこと。

ベランディの復讐だけに使わないこと。


そして最後に、迷ってから一行を足した。


拒まれたことは、まだ痛い。


書いて、すぐに取り出した。


それは封筒の条件ではない。


彼にいつか言うべき言葉だ。


紙に隠して渡すものではない。


朝が近づくころ、ソフィアは封筒を金庫へ入れなかった。


机の上にも置かなかった。


灰色の手袋の箱の底へしまった。


守るとは、時々、渡す日まで隠すことだ。

隠すとは、時々、相手の選択肢を奪うことだ。


その境目を、彼女はまだ完全には引けない。


完全に引けないまま、封筒の角を指で押さえた。


まだ出せない名は残っている。


レオーネが次に受け取れる形になった時、彼女は渡す。


恋の証ではなく、復讐の餌でもなく、誰かの名を消さないための重い紙として。


窓の外で、劇場街の灯が一つずつ消えていった。


ソフィアは最後の灯が消えるまで、封筒から手を離さなかった。


【人物紹介】

・アルベルト・オルシーニ

ソフィアの父で、オルシーニ家のドン。

娘の力量を認める一方、その感情さえ交渉材料として見極めようとする人物。


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