第36話 劇場裏の再交渉
ソフィアと二人で会うには、恋文ではなく三枚の契約書が必要だった。
父の葬儀の日、黒い喪服で礼拝堂に立ったソフィアを追い返してから、俺は彼女と直接会っていない。
手紙はあった。
弁護士を通した文面。
名簿の照会。
金融枠の確認。
白灯の不可侵に関する短い返答。
どれも冷たい紙だった。
冷たい紙の下で、彼女がどれだけ動いたのか、俺には全部はわからない。
わからないまま、今日会う。
信じるためではない。
信じられる形を、紙にするために。
「兄ちゃん、顔が硬いです」
テオが後ろで囁いた。
彼の左腕には火傷の跡が薄く残っている。
工房に出入りするたび、彼はわざと袖をまくる。
俺が失敗を忘れないように、ではなく、自分がまだここにいると示すためだと言う。
「契約交渉の顔だ」
「恋文三枚の顔です」
「殴るぞ」
「マルコさん、今のは暴力記録に」
マルコは無表情で答えた。
「口だけなら入れません」
少しだけ笑い、すぐ消えた。
劇場裏の小部屋には、オルシーニ側の弁護士が二人、
こちらのルカ、監査役としてリーナ、工房側からエヴァとニコがいた。
ブルーノは外に置いた。本人は不満だったが、今日の場に彼の怒りは重すぎる。
ソフィアは、最後に入ってきた。
黒ではない。
深い青のドレス。
髪は金茶色に結い、首元の宝石は小さい。社交の場なら控えめすぎる装いだ。
その美しさは、交渉の場なら十分に武器だった。
「レオーネ」
彼女が俺の名を呼ぶ。
昔のソフィの声とは違う。
でも、完全には違わない。
「ソフィア」
俺はそう返した。
選んだ名前を、相手へ聞かせる。
彼女は小さく頷いた。
席に着く前、彼女は部屋の窓と扉を見た。逃げ道ではなく、聞かれる場所を確認する目だ。
この四年で、彼女もまた子供ではいられなかった。
最初の契約書は、投資に関するものだった。
オルシーニ家は、医療用温熱板の量産に資金を出す。
ただし、発明権は共同発明者全員に残し、オルシーニは販売金融と保険設計に限る。
二枚目は、特許の保全。
王立産業規格局へ出す前段階の記録を、ベランディ、オルシーニ、白灯、工房代表で保管する。
三枚目は、販売制限。
軍、企業警備、監禁施設、匿名の仲介業者への販売は当面停止。
医療機関、炊事場、鉱山安全設備に限る。
どの紙にも、感情の余白はなかった。
あれば困る。
感情を余白に入れた瞬間、オルシーニの弁護士はそこを支配条項に変える。
それは俺とソフィアの関係性も含む。
ベランディの古参は、俺の弱さとして数える。
父アルベルトは、娘の感情を交渉の値段にしようとするかもしれない。
だから、紙は冷たくした。
資本比率。
監査権。
販売先。
発明者の名。
工員の賃金。
白灯の臨床記録。
俺たちが触れられないものを守るために、触れられる欄をできるだけ細かくした。
「父は、もっと単純な条件を望んでいます」
ソフィアが言った。
「オルシーニが資金を出し、ベランディが工房を動かし、発明権を共同会社へ移す。
経営責任者は父の推薦。あなたたちは利益配分を受ける」
「きれいな首輪ですね」
テオが思わず呟き、マルコに肩を押さえられた。
ソフィアは怒らなかった。
「ええ。きれいだから危ないの」
「随分と狭い市場ですな」
オルシーニ側の年配弁護士が言った。
「広くすれば儲かります」
「広くしすぎれば、先に潰されます」
ソフィアが答える。
彼女は俺ではなく、エヴァを見た。
「兵器転用の可能性は?」
エヴァは隠さなかった。
「あります。温めるものは、条件を変えれば焼ける。
警報灯の反応を強めれば、目や耳を傷つける使い方も考えられる。
防げると言う人間は、石を知らないか、人を知らない」
弁護士たちの顔が硬くなる。
普通なら、そんな不利な説明は抑える。
だが、ここで隠せば、後で誰かが必ずそこを買う。
ソフィアは頷いた。
「だから、父はあなたたちを従属させたがっています」
部屋が静まる。
言いにくいことを、彼女は最初から置いた。
「アルベルト殿が」
ルカが慎重に言う。
「うちの父は、虐殺を好みません」
ソフィアは言った。
「けれど、ベランディを信用もしていない。
魔晶石の権利をあなたたちだけに持たせれば、港の古い力が別の形で戻ると考えている。
従属させれば、彼の論理では街が安定します」
「君は」
俺は聞いた。
「どう考えている」
ソフィアは少しだけ笑った。
「父の論理は理解できます。ベランディの名で泣いた人も、劇場街にはいます。
あなたたちが温熱板を作ったからといって、その過去は消えない」
逃げない言葉だった。
「でも、父の管理下に置けば、今度はオルシーニの金融が患者の膝まで所有する。私はそれも嫌です」
彼女にも守るものがある。
家の利益。
自分の立場。
そして、父の道具で終わらないという意地。
俺との過去は、その中に数えられているのだろうか。
どれが一番かは、俺にはわからない。
わからないまま、聞く。
「なら、なぜ協力する」
「あなたたちが失敗すれば、ラゴ商会かカヴァッロの残りが買うから」
即答だった。
「そして、温熱板は温熱板で終わらなくなる。父の支配下より悪い手に渡る」
そして強い眼差しだった。
「君の父は、それを聞いて納得したのか」
「していません」
それも即答だった。
「父は、私がまだ家の金と言葉を借りていることを知っています。
だから、私の独立は完全ではない。今日ここにいる弁護士の一人は、父の目でもある」
扉の外で、誰かがむせ込んでいる。
ソフィアは気にしなかった。
「でも、父の目があるからこそ、父の手も契約で縛れる。秘密の恋人ごっこでは、私は父に負ける」
秘密の恋人。
その言葉に、五歳の鐘楼が一瞬だけ浮かんだ。
干し杏を分け、家名を隠し、全部を言わなかった俺たち。
あの頃に戻ることは、もうできない。
「嘘は嫌い、か」
「信じられるところまで、あなたたちに記録を作らせたいの」
痛いほど正確だった。
だが、俺はその方が彼女らしいと思った。
休憩の合図が入り、弁護士たちは別室へ出た。
ルカも監査条件を詰めに行き、エヴァとニコは特許の用語で言い合いながら廊下へ消えた。
マルコとテオは扉の外。リーナだけが少し残り、俺とソフィアを見比べてから静かに部屋を出た。
二人になった。
正確には、扉の外に耳はいくつもある。
それでも、四年前の礼拝堂よりは近い。
ソフィアは胸元から封筒を出した。
黒い喪服の日に持っていたものより、古びている。
端が少し擦れ、封蝋は二重に重ね直されていた。
「四年前、渡せなかった証拠です」
喉が渇く。
「出所は」
「今渡せる分だけ、保護の同意を取りました。
港湾庁の書記は王都へ移り、警備会社の下働きは白灯を通じて別の仕事に就いた。
オルシーニの帳場の一人は、父に知られています」
「父君に?」
「私が隠しきれなかった」
彼女は目を伏せなかった。
「だから、全部ではありません。今も出せない名があります。嘘はつかない。でも全部は言わない」
昔の契約。
その言葉が、子供の遊びではなく、大人の危険をまとって戻ってくる。
「葬儀の日」
俺は言った。
「受け取れなかった」
「知っています」
「信じなかったわけではない」
「それも、少し知っています」
ソフィアは封筒を机に置いた。
「でも、拒まれたことは傷でした」
胸が痛む。
俺は言い訳を探しそうになり、やめた。
内部世論。
父の棺。
オルシーニの利得。
どれも本当だ。
本当でも、彼女が傷つかなかった理由にはならない。
「傷つけました」
俺は言った。
「はい」
彼女は頷く。
許すとも、許さないとも言わない。
その正確さが、四年前より苦しく、少しだけ信じられた。
「今、受け取ります」
俺は封筒へ手を伸ばした。
触れる前に、一度止める。
「条件があります。中の証拠を、オルシーニの潔白を飾るためだけには使わない。
ベランディの復讐にも使わない。出所を守りながら、責任を問える形に」
「そのために持ってきました」
彼女の指が封筒から離れる。
一瞬、手袋越しに俺の指へ触れそうになった。
触れなかった。
触れないことで、かえって四年の距離がはっきりした。
恋愛が、所有や救済なら簡単だったかもしれない。
俺たちは互いを理解し切れない。
家も、罪も、利得も、傷も違う。
だから、触れる代わりに、封筒を受け取った。
「限定協力」
ソフィアが言った。
「ええ」
「嘘はつかない」
俺が続ける。
彼女は少しだけ、五歳の頃の顔で笑った。
「ただし、全部は言わない」
その契約は、甘くない。
甘くないまま、まだ切れていない。
封筒は、俺の掌で重かった。
四年前、受け取れなかったものの重さだ。
葬儀の日に拒まれたことは、ソフィアにとって傷のまま。
劇場裏の庭で、二人は昔と同じ言葉を交わす。
嘘はつかない。ただし全部は言わない。
今回は封筒を受け取った。
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