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灰冠の指輪 ~愛を知らず死んだ俺は、異世界で没落マフィアを再建する~  作者: ぬゅうた
5章 六分の一家族

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第35話 灰冠の規律



ヴァレノの雨は、雪になるほど清くはない。


港の石畳へ黒く染み、靴の裏に泥をつけ、共同炊事場の入口へ冷たい水を運んでくる。


そんな冷える朝、診療所の戸口に一人の男が座り込んでいた。


名はシモーネ。


薬草商の息子で、白灯の荷を時々運ぶ男だ。


母がいた頃、熱を出した妹を診療所へ背負ってきたことがある。


ラゴ商会の下請けにも出入りしていたから、ベランディ側から見れば信用しきれない。


ラゴ側から見れば、ベランディの診療所にも顔を出す危うい男。


彼の頬は腫れ、左目の下が紫に変わっていた。命に関わる傷ではない。


だが、冬の朝に戸口で膝を抱えるには十分な痛みだった。


リーナが毛布をかけている。


彼女の手つきは静かだった。


静かすぎる時のリーナは、怒っている。


「誰が」


俺が聞くと、シモーネは唇を動かした。


「ジーノ」


名前を聞いた瞬間、背中が冷えた。


ジーノ・ヴェッラ。


父の襲撃で兄を失った若手の一人。


地下で復讐の酒に沈みかけ、ブルーノが止めた男でもある。


いつも父のことを、英雄だったと呼ぶ。


英雄。


その言葉は、父を愛し、象徴にするには楽な形だ。


父が人を守ったことだけを残し、傷つけたことを灰の下に埋められる。


俺も、そうしたかった夜がある。


「理由は」


だからこそ危うい。


シモーネは目を伏せた。


「俺が、ラゴの荷を運んだって」


「運んだのか」


「運びました」


彼はすぐ認めた。


「妹の薬代が要った。ラゴの下請けは嫌いです。でも、冬の薬は嫌いだけじゃ買えない」


嘘ではない。


全部でもないかもしれない。


ラゴの荷の中に何があったか、彼がどこまで知っていたか、調べなければならない。


だがそれがわかったとして、殴っていい理由にはならない。


「ジーノは何と言った」


リーナが代わりに答えた。


「父上を殺した連中の犬に、白灯を使わせるな、と」


父上。


俺の父を、ジーノがそう呼ぶ。


血縁ではない。


だが、ベランディ家の若手にとって、ヴィットリオは父に近い存在だった。


仕事をくれ、飯を回し、敵を怖がらせてくれる大きな背中。


その父を失った怒りが、今、診療所の協力者の顔を腫らしている。


守るための暴力が、また守る場所へ戻ってきた。


「ジーノを呼びます」


俺は言った。


「ブルーノも」


昼、船員宿の広間に皆を集めた。


幹部会だけではない。


マルタ、リーナ、カルメロ、

工房代表のダミアーノ、夜学のフェデーレ先生、

白灯からシスター・クララも来た。


処分は内輪で済ませれば早い。


シモーネは診療所で休ませ、妹と母親の前に立たせなかった。


本人が望まない場で傷を見せ物にする必要はない。


だが、彼の名と負傷と働けない日数は、リーナが台帳に書いた。


ジーノは、広間の中央に立った。


顔は強張っていたが、目にはまだ自分が正しいという光がある。


「若様」


彼は頭を下げた。


「俺は、裏切り者を罰しました」


ブルーノが壁際で腕を組む。


庇う顔だ。


同時に、止めきれなかった者の顔でもある。


「誰の命令で」


俺が聞くと、ジーノは答えた。


「俺の判断です」


「なぜ」


「旦那様なら、ラゴの犬を許さない」


その言葉で、胸に熱が上がった。


「父の名を使うな」


声が低くなった。


ジーノの顔が赤くなる。


「若様に何がわかるんです。俺の兄は、南埠頭で戻らなかった。父上がいたら、俺たちをここまで舐めさせなかった」


「わかるとは言わない」


俺は言った。


「俺はあなたの兄ではない。あなたの家で、冬の夜に椅子が一つ空いたことを、完全には知らない」


ジーノの唇が震える。


「でも、シモーネの妹の薬代が冬に足りないことも、あなたは知らない。知らないまま殴った」


彼は黙る。


「シモーネがラゴの荷を運んだことは調べる。もし襲撃や買収に加担していれば責任を問う。

だが、あなたは調べず、白灯の戸口へ来る人間を傷つけた」


「白灯を守ると言いながら、白灯へ来る足を怖がらせた」


言ってから、俺は自分の声が震えていることに気づいた。


母の診療所が、敵味方を越えて傷を見せる場所でなくなれば、俺は母の鍵を持つ資格を失う。


シスター・クララが静かに言った。


「白灯の下に来る者を、家名で殴るなら、私たちはあなたたちの炊事場へ薬草を出せません」


脅しではない。


絶対に立ち入らせないという線だった。


白灯には白灯の守るものがある。


敵も味方も、傷を見せる場所。そこがベランディの怒りで汚れるなら、彼女たちは離れる。


「俺は」


ジーノの声が荒くなる。


「俺は家を守ろうと」


「守った面はある」


俺は言った。


「あなたの目には、シモーネがラゴの荷を運ぶことが危険に見えた。

カヴァッロが扶助金に触ろうとした後だ。警戒は必要だった」


ジーノが顔を上げる。


「なら」


「だからといって、殴った責任は消えない」


今度こそ、彼の顔が固まった。


シモーネの腫れた頬と、白灯の戸口で足を止めた患者たちを、今は味方へ向ける。


そして、俺自身へも向ける。


「灰冠の規律を読みます」


ルカが紙を広げた。


復讐の独断禁止。


診療所、患者、子供、学校、共同炊事場を徴収と報復の場にしない。


暴力を使った場合、理由、結果、負傷者、生活費の止まる家を記録する。


白灯符丁は不可侵。


全部、俺たちが自分で決めた規律だ。


決めた規律を、最初に破ったのは敵ではなかった。


「処分します」


広間の空気が重くなる。


「ジーノ・ヴェッラ。ベランディ家から追放。今後、家の名、灰冠の印、父の名を使うことを禁じる」


ジーノの顔から血の気が引いた。


ブルーノが一歩出た。


「若様」


「まだある」


俺は続ける。


「シモーネの治療費、働けない間の補填、妹の薬代の不足分は、まず被害補償基金から出す。

基金へはジーノの未払い取り分と、監督責任としてブルーノの取り分三か月分を入れる。

足りない分は俺の取り分から」


ブルーノの目が鋭くなった。


「俺にも責任を?」


「あります」


声が震えた。


怖い。


ブルーノを失えば、現場はさらに薄くなる。復讐派が割れるかもしれない。


追放されたジーノが敵へ行くかもしれない。


それでも、ここで目を逸らせば、規律は壁に貼った紙になる。


「あなたは復讐派を抱えたまま止める役です。抱えた怒りが誰を傷つけるか、見ていなければならなかった」


ブルーノの拳が握られた。


彼の怒りも正しい。


兄を失った若手を、現場の男が庇いたくなるのはわかる。


ジーノを追放すれば、彼の母親の食費も揺れる。処分は一人を切って終わりではない。


だから、もう一つ言う。


「ジーノの母親への扶助は止めません」


広間がざわつく。


ジーノが顔を上げた。


「俺を追い出して、家には飯を出すのか」


「あなたの罰で、あなたの母親を飢えさせない。母親が加害したわけではありません」


「情けを売る気か」


「違う」


俺は首を振った。


「罰と補償を混ぜないためです。あなたは追放される。シモーネには補償する。

あなたの母親は扶助台帳に残る。それぞれ別です」


綺麗な話ではない。


金は減る。


戦力も減る。


ジーノは俺を憎むだろう。


それでも、家族を守るという言葉で被害者を黙らせれば、父の罪をそのままなぞることになる。


ジーノは何かを言いかけ、やめた。


彼は礼をしなかった。

背を向けて出ていく。


扉が閉まる音は、冬の広間に大きすぎた。


追放は勝利ではない。


味方が一人減っただけだ。


リーナが台帳へ処分を書き込む。


シモーネの負傷。

ジーノの追放。

補償基金からの支払い。


ブルーノの監督責任。

俺の追加負担。


字にすれば整う。


現実は整わない。


夕方、ブルーノが一人で俺の部屋へ来た。


マルコは扉の外にいる。


ブルーノはしばらく黙り、やがてその重い口を開けた。


「ジーノは、兄を死なせた夜から寝ていませんでした」


「知っています」


「知ってて追い出した」


「はい」


「冷たい」


「冷たくなければ、シモーネの顔がまた腫れます」


ブルーノは苦く笑った。


「旦那様なら、どうしたでしょうな」


「わかりません」


今度は正直に言えた。


「俺は父ではありません」


長い沈黙。


ブルーノの中でどのような考えが廻ったのか、俺にはわからない。


そしてブルーノは深く頭を下げた。


父へする礼に近い深さだった。


「承りました、ドン」


初めてだった。


彼が俺を若様ではなく、そう呼んだのは。


胸が重くなる。


認められた嬉しさだけなら、どれほど楽だっただろう。


だが、彼の目にはまだ復讐の火が残っていた。


消えていない。


俺も消せない。


ただ、その火の前に、今日は一枚だけ規律の紙を立てた。


紙は燃える。


だから、何度でも書き直さなければならない。


【用語紹介】

・灰冠の規律

ベランディ家が、自分たちへ課した規則。

復讐の独断を禁じ、診療所、患者、子供、学校、共同炊事場を、徴収や報復の場にしない。

暴力を使った場合は、理由と結果だけでなく、負傷者や生活費の止まる家まで記録する。

敵を裁くためではなく、まず身内を縛るための規律。


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