第34話 会計係
温熱板は、まだ成功と呼ぶには小さすぎる。
診療所に二枚、白灯の紹介先に一枚。
どれも貸出扱いで、売上と呼べる金はほとんどない。
だが、痛む膝を温めた老人が市場で話し、夜学の教師が字を教える代わりに試験記録を読める者を紹介し、白灯の看護師が「危なくないなら」と言って次の患者を連れてきた。
危なくないなら。
その条件を守るために、工房の記録紙は増え続けている。
紙が増えると、ルカの仕事も増える。
彼は痩せた。
以前から細い男だったが、最近は眼鏡だけが顔に残っているように見える。
共同発明契約、診療所実証費、工員賃金、
扶助への拠出、倉庫修繕、港湾庁への納付。
それらを整理する中で、俺は帳簿の端に同じ記号が何度も出てくることに気づいた。
白い小さな点。
母の白灯とは違う。
ルカの会計室でだけ使われる、目印のようなもの。
「これは何です」
俺が聞くと、ルカは一瞬だけ目を伏せた。
本当に一瞬だった。
だが、その一瞬で、俺の胸は冬の地下へ戻った。
父が死んだ夜。
表口座の凍結。
母の隠し口座。
疑えば何かを守れると思う癖。
裏切られる前に裏切りの形を作っておけば、痛みが少なく済むと思う、前世からの悪い癖。
「全部出してください」
声が冷えた。
部屋には、マルコ、リーナ、ブルーノ、テオがいた。エヴァとニコは工房だ。
ルカは俺たちを見回し、鍵束を机へ置いた。
「若様。説明の前に、見ていただきたいものがあります」
「説明は後でいい」
自分でも、刃物みたいな声だと思った。
ルカは頷いた。
抵抗しない。
それが余計に怖い。
彼は船員宿の奥にある小さな金庫を開けた。
中には、帳簿と銀行控えが束で入っていた。
表の会計帳には載っていない口座。
一つではない。
いくつも。
地下室の空気が硬くなる。
ブルーノが低く唸った。
「会計係」
マルコが一歩前へ出る。
テオの手が腰へ動きかけ、俺は首を振って止めた。
ここで怒りが先に出れば、何も聞けなくなる。
聞いてからでも、責任は消えない。
「用途を」
俺が言うと、ルカは一冊目を開いた。
「孤児と未亡人の家賃補助。表口座凍結時の迂回用です」
二冊目。
「白灯の薬代。直接ベランディ名義にすると、中央捜査局の照会で止まる恐れがありました」
三冊目。
「工房事故時の治療費と休業補填。小爆発の後に分けました」
四冊目。
「加害側補償。奥様の台帳の枠を引き継いだものです」
説明は整っていた。
整いすぎていた。
「なぜ報告しなかった」
ルカの指が止まる。
「報告すれば、表の会議に載ります。会議に載れば、誰かの怒りや焦りで使われる可能性がある。
復讐派が資金を求めた時、隠しておけば守れると思いました」
「俺からも?」
ルカはすぐには答えなかった。
それが答えだった。
「はい」
彼は言った。
「若様からもです」
胸に、冷たいものが刺さった。
怒りではない。
いや、怒りもある。
だが、その下にあるのは恥だった。
ルカが俺を完全には信じなかったこと。
そして、信じられなくても仕方ないという自覚。
工房で冬までに成果を急ぎ、テオとニコを傷つけた俺。
それだけではない。
生まれた時から、ルカは俺を見てきたのだ。
復讐派の怒りに揺れ、母を探しに飛び出しそうになった俺も知っている。
彼の不信には理由がある。
理由があるからといって、許されるわけではない。
「善意で隠したと」
ブルーノが笑った。
「便利な言葉だな」
「便利に使いました」
ルカは認めた。
「私は、金を守れば人を守れると思った。奥様の隠し口座を見て、同じことを自分にも許しました。
ですが、奥様は用途と名を残していた。私は、判断権まで隠した」
リーナが母の台帳を抱える腕に力を入れた。
「奥様の口座は、見つける相手を選んでいました。でも、見つかった後は皆で写しました」
その言葉が、ルカの肩へ落ちる。
彼は深く頭を下げた。
「裏切るつもりはありませんでした」
「裏切り者じゃない」
俺は言った。
ルカが顔を上げる。
「でも、信頼を壊した」
部屋の空気が変わった。
裏切り者。
その札を貼れば楽だ。
追放し、責め、財産を没収し、敵が一人見つかったことにできる。
だが、ルカは扶助金を守ろうとしていた。中央の差押えから、復讐派の焦りから、俺の未熟さから。
守った面は本物だ。
同時に、独断で金の流れを隠し、皆の確認する権利を奪った。
傷つけた面も本物だ。
「この口座から、誰かの私腹に入った金はありますか」
「ありません」
ルカはすぐ答えた。
「証拠は」
彼は別の束を出した。
支払い控え。
家賃の受領。
薬草の領収。
工房事故の治療費。
カルロの補償。
紙は揃っていた。
紙が揃っているから信用するのではない。
紙が揃っているから、調べられる。
それが大事だった。
「監査します」
俺は言った。
「俺とルカだけではない。リーナ、マルタ、工房代表、白灯が指名する一人、外部の書記を一人。
毎月、用途と残高を見る。扶助、補償、工房、診療所の金は、二人以上の署名がなければ動かせない」
「遅くなります」
ルカが言った。
「はい」
「急な薬代や家賃に間に合わない時が出る」
「緊急枠を作ります。上限を決め、翌月の監査で必ず理由を読む」
俺はリーナを見た。
「急いだから記録しない、は工房で人を傷つけました。会計でも同じことをしない」
リーナは頷いた。
「名前を読むなら、遅れた理由も読みます」
監査は万能ではない。紙を増やせば、人は疲れる。
疲れた人間は、欄を埋めることを目的にして、目の前の顔を見なくなる。
だから、監査室には母の台帳の写しを置くことにした。
数字の横に顔を戻すために。
ルカは目を閉じた。
罰を受ける顔ではなく、肩から荷が少し下りた顔だった。
それにも腹が立つ。
一人で背負っていたつもりなのか。
背負わせたのは俺たちでもあるのか。
どちらもある。
「罰は」
ブルーノが聞いた。
彼の声には、ルカを庇う色はなかった。
だが、殺せという色もなかった。
復讐派の酒を止めた夜から、彼も少しずつ怒りの置き方を変えている。
「罰金。ルカ個人の取り分を半年停止。会計権限を一部外します。外した分は、監査役が持つ」
「追放しないのか」
「追放しません」
俺はルカを見た。
「ただし、次に独断で隠したら追放します。善意でも」
ルカは深く頭を下げた。
「承ります」
テオが小さく息を吐いた。
「ルカさんがいなくなったら、俺が帳簿を読む羽目になるかと思いました」
「お前に読ませるくらいなら、私が鎖につながれてでも読みます」
ルカが真顔で言う。
少しだけ笑いが起きた。
笑いで終わらせてはいけない。
だから、その場で監査帳を開いた。
隠し口座。
その言葉は残す。
扶助保全口座、などと綺麗な名に変えない。
何があったかを、後で読んだ者がわかるように。
夕方まで、俺たちは控えを一枚ずつ照合した。
マルタは厨房から来て、粉袋の値上がりを見つけた。
リーナはカルロの補償が一週遅れた理由を問い、ルカが書類不足だと答え、すぐに自分の言葉を訂正した。
「不足させたのは私です」
確認が、不信だけではなくなっていく。
痛い。
時間がかかる。
だが、盲信よりはましだ。
日が落ちる頃、ルカが最後の封筒を出した。
「これは、口座とは別です」
封筒には、知らない会社の紋章が押されていた。
小さな馬の頭。
カヴァッロ。
「隠し口座の一つへ、買収の接触がありました」
ルカの声が乾く。
「直接の脅しではありません。扶助金を保護する名目で、ラゴ商会系の財団へ管理を移せば、港湾庁と保険会社の照会を通しやすくなる、と」
「つまり、俺たちの扶助を買う」
「ええ」
ルカは封筒を机に置いた。
「彼らの書面では、混乱した旧ファミリーの金を透明な財団へ移し、孤児と未亡人を安定して支えることになっています。紙の上では慈善です」
「その代わり」
「受け取る家の名簿、診療所の患者線、工房の支出、全部が向こうへ渡ります」
背筋が冷えた。
善意の顔をした買収。
「断ります」
ブルーノが即座に言った。
「断るだけでは足りません」
俺も続いた。そして封筒を見る。
「これは証拠です。こちらの金の匂いを、相手が嗅ぎつけている証拠でもある」
ルカの独断がなければ、この接触も見えなかったかもしれない。
だからといって、独断が許されるわけではない。
俺は監査帳の最初のページに書いた。
善意は、確認を免除しない。
そして、その下にもう一行足す。
信頼は、見ないことではなく、見せ合って壊れた場所を直すこと。
ルカはそれを黙って読んでいた。
その顔には、裏切り者ではない会計係の疲れと、信じられなかった者の罰が、同じ深さで残っていた。
ルカの独断は、扶助を守り、同時に仲間から確認する機会を奪った。
隠し口座という名前は、綺麗な呼び方へ直さない。
夕方まで控えを照合し、監査帳の最初の頁を埋めた。
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