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灰冠の指輪 ~愛を知らず死んだ俺は、異世界で没落マフィアを再建する~  作者: ぬゅうた
5章 六分の一家族

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第34話 会計係



温熱板は、まだ成功と呼ぶには小さすぎる。


診療所に二枚、白灯の紹介先に一枚。


どれも貸出扱いで、売上と呼べる金はほとんどない。


だが、痛む膝を温めた老人が市場で話し、夜学の教師が字を教える代わりに試験記録を読める者を紹介し、白灯の看護師が「危なくないなら」と言って次の患者を連れてきた。


危なくないなら。


その条件を守るために、工房の記録紙は増え続けている。


紙が増えると、ルカの仕事も増える。


彼は痩せた。


以前から細い男だったが、最近は眼鏡だけが顔に残っているように見える。


共同発明契約、診療所実証費、工員賃金、

扶助への拠出、倉庫修繕、港湾庁への納付。


それらを整理する中で、俺は帳簿の端に同じ記号が何度も出てくることに気づいた。


白い小さな点。


母の白灯とは違う。


ルカの会計室でだけ使われる、目印のようなもの。


「これは何です」


俺が聞くと、ルカは一瞬だけ目を伏せた。


本当に一瞬だった。


だが、その一瞬で、俺の胸は冬の地下へ戻った。


父が死んだ夜。

表口座の凍結。

母の隠し口座。


疑えば何かを守れると思う癖。


裏切られる前に裏切りの形を作っておけば、痛みが少なく済むと思う、前世からの悪い癖。


「全部出してください」


声が冷えた。


部屋には、マルコ、リーナ、ブルーノ、テオがいた。エヴァとニコは工房だ。


ルカは俺たちを見回し、鍵束を机へ置いた。


「若様。説明の前に、見ていただきたいものがあります」


「説明は後でいい」


自分でも、刃物みたいな声だと思った。


ルカは頷いた。


抵抗しない。


それが余計に怖い。


彼は船員宿の奥にある小さな金庫を開けた。


中には、帳簿と銀行控えが束で入っていた。


表の会計帳には載っていない口座。


一つではない。

いくつも。


地下室の空気が硬くなる。


ブルーノが低く唸った。


「会計係」


マルコが一歩前へ出る。


テオの手が腰へ動きかけ、俺は首を振って止めた。


ここで怒りが先に出れば、何も聞けなくなる。


聞いてからでも、責任は消えない。


「用途を」


俺が言うと、ルカは一冊目を開いた。


「孤児と未亡人の家賃補助。表口座凍結時の迂回用です」


二冊目。


「白灯の薬代。直接ベランディ名義にすると、中央捜査局の照会で止まる恐れがありました」


三冊目。


「工房事故時の治療費と休業補填。小爆発の後に分けました」


四冊目。


「加害側補償。奥様の台帳の枠を引き継いだものです」


説明は整っていた。


整いすぎていた。


「なぜ報告しなかった」


ルカの指が止まる。


「報告すれば、表の会議に載ります。会議に載れば、誰かの怒りや焦りで使われる可能性がある。

復讐派が資金を求めた時、隠しておけば守れると思いました」


「俺からも?」


ルカはすぐには答えなかった。


それが答えだった。


「はい」


彼は言った。


「若様からもです」


胸に、冷たいものが刺さった。


怒りではない。

いや、怒りもある。


だが、その下にあるのは恥だった。


ルカが俺を完全には信じなかったこと。


そして、信じられなくても仕方ないという自覚。


工房で冬までに成果を急ぎ、テオとニコを傷つけた俺。


それだけではない。


生まれた時から、ルカは俺を見てきたのだ。


復讐派の怒りに揺れ、母を探しに飛び出しそうになった俺も知っている。


彼の不信には理由がある。


理由があるからといって、許されるわけではない。


「善意で隠したと」


ブルーノが笑った。


「便利な言葉だな」


「便利に使いました」


ルカは認めた。


「私は、金を守れば人を守れると思った。奥様の隠し口座を見て、同じことを自分にも許しました。

ですが、奥様は用途と名を残していた。私は、判断権まで隠した」


リーナが母の台帳を抱える腕に力を入れた。


「奥様の口座は、見つける相手を選んでいました。でも、見つかった後は皆で写しました」


その言葉が、ルカの肩へ落ちる。


彼は深く頭を下げた。


「裏切るつもりはありませんでした」


「裏切り者じゃない」


俺は言った。


ルカが顔を上げる。


「でも、信頼を壊した」


部屋の空気が変わった。


裏切り者。


その札を貼れば楽だ。


追放し、責め、財産を没収し、敵が一人見つかったことにできる。


だが、ルカは扶助金を守ろうとしていた。中央の差押えから、復讐派の焦りから、俺の未熟さから。


守った面は本物だ。


同時に、独断で金の流れを隠し、皆の確認する権利を奪った。


傷つけた面も本物だ。


「この口座から、誰かの私腹に入った金はありますか」


「ありません」


ルカはすぐ答えた。


「証拠は」


彼は別の束を出した。


支払い控え。

家賃の受領。

薬草の領収。

工房事故の治療費。

カルロの補償。


紙は揃っていた。


紙が揃っているから信用するのではない。


紙が揃っているから、調べられる。


それが大事だった。


「監査します」


俺は言った。


「俺とルカだけではない。リーナ、マルタ、工房代表、白灯が指名する一人、外部の書記を一人。

毎月、用途と残高を見る。扶助、補償、工房、診療所の金は、二人以上の署名がなければ動かせない」


「遅くなります」


ルカが言った。


「はい」


「急な薬代や家賃に間に合わない時が出る」


「緊急枠を作ります。上限を決め、翌月の監査で必ず理由を読む」


俺はリーナを見た。


「急いだから記録しない、は工房で人を傷つけました。会計でも同じことをしない」


リーナは頷いた。


「名前を読むなら、遅れた理由も読みます」


監査は万能ではない。紙を増やせば、人は疲れる。


疲れた人間は、欄を埋めることを目的にして、目の前の顔を見なくなる。


だから、監査室には母の台帳の写しを置くことにした。


数字の横に顔を戻すために。


ルカは目を閉じた。


罰を受ける顔ではなく、肩から荷が少し下りた顔だった。


それにも腹が立つ。


一人で背負っていたつもりなのか。


背負わせたのは俺たちでもあるのか。


どちらもある。


「罰は」


ブルーノが聞いた。


彼の声には、ルカを庇う色はなかった。


だが、殺せという色もなかった。


復讐派の酒を止めた夜から、彼も少しずつ怒りの置き方を変えている。


「罰金。ルカ個人の取り分を半年停止。会計権限を一部外します。外した分は、監査役が持つ」


「追放しないのか」


「追放しません」


俺はルカを見た。


「ただし、次に独断で隠したら追放します。善意でも」


ルカは深く頭を下げた。


「承ります」


テオが小さく息を吐いた。


「ルカさんがいなくなったら、俺が帳簿を読む羽目になるかと思いました」


「お前に読ませるくらいなら、私が鎖につながれてでも読みます」


ルカが真顔で言う。


少しだけ笑いが起きた。


笑いで終わらせてはいけない。


だから、その場で監査帳を開いた。


隠し口座。


その言葉は残す。


扶助保全口座、などと綺麗な名に変えない。


何があったかを、後で読んだ者がわかるように。


夕方まで、俺たちは控えを一枚ずつ照合した。


マルタは厨房から来て、粉袋の値上がりを見つけた。


リーナはカルロの補償が一週遅れた理由を問い、ルカが書類不足だと答え、すぐに自分の言葉を訂正した。


「不足させたのは私です」


確認が、不信だけではなくなっていく。


痛い。


時間がかかる。


だが、盲信よりはましだ。


日が落ちる頃、ルカが最後の封筒を出した。


「これは、口座とは別です」


封筒には、知らない会社の紋章が押されていた。


小さな馬の頭。


カヴァッロ。


「隠し口座の一つへ、買収の接触がありました」


ルカの声が乾く。


「直接の脅しではありません。扶助金を保護する名目で、ラゴ商会系の財団へ管理を移せば、港湾庁と保険会社の照会を通しやすくなる、と」


「つまり、俺たちの扶助を買う」


「ええ」


ルカは封筒を机に置いた。


「彼らの書面では、混乱した旧ファミリーの金を透明な財団へ移し、孤児と未亡人を安定して支えることになっています。紙の上では慈善です」


「その代わり」


「受け取る家の名簿、診療所の患者線、工房の支出、全部が向こうへ渡ります」


背筋が冷えた。


善意の顔をした買収。


「断ります」


ブルーノが即座に言った。


「断るだけでは足りません」


俺も続いた。そして封筒を見る。


「これは証拠です。こちらの金の匂いを、相手が嗅ぎつけている証拠でもある」


ルカの独断がなければ、この接触も見えなかったかもしれない。


だからといって、独断が許されるわけではない。


俺は監査帳の最初のページに書いた。


善意は、確認を免除しない。


そして、その下にもう一行足す。


信頼は、見ないことではなく、見せ合って壊れた場所を直すこと。


ルカはそれを黙って読んでいた。


その顔には、裏切り者ではない会計係の疲れと、信じられなかった者の罰が、同じ深さで残っていた。


ルカの独断は、扶助を守り、同時に仲間から確認する機会を奪った。

隠し口座という名前は、綺麗な呼び方へ直さない。

夕方まで控えを照合し、監査帳の最初の頁を埋めた。


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