第32話 工房の小爆発
十七歳の秋、船員宿の裏に作った仮工房は狭かった。
成功の匂いはなく、そこにあるのは焦げた羊毛と、ニコの悲鳴だ。
元は網を干す小屋で、壁板には潮が染み、床はどこを踏んでも少し鳴る。
そこへニコの工具台、エヴァの鉱物棚、工員たちの作業机、ルカが嫌がるほど高い保険証書を詰め込んだ。
工房と呼ぶには貧しい。
だが、初めてベランディ家が血ではなく物を作ろうとしている場所でもあった。
残滓権を買ってから半年。
金は減った。
目に見えて減った。
倉庫修繕は遅れ、家賃補助は二度、仮払いでつないだ。
マルタは粥の濃さで俺と三回喧嘩し、ブルーノは幹部取り分の延期を部下へ説明するたび顔を硬くした。
成功は、まだない。
あるのは、灰青色の欠片と、失敗した記録の束だけだ。
「記録番号、三十二」
エヴァが読み上げる。
「第三残滓置き場、北側乾燥層。灰青筋あり。薄片、厚さはニコの測定。目的は、遮音箱の内張り反応を見ること」
「厚さは揃えました」
ニコが眼鏡を直す。
「揃えたつもり、ね」
エヴァがすぐ訂正した。
「測定値を書いて」
工員の一人、ダミアーノが紙へ数字を書く。
彼は元荷役で、登録から落ちた後、カルメロの紹介で工房へ来た。
大きな手は細かな作業に向かないように見えたが、石を割る時の力加減はニコより安定している。
「俺の字、読めますかね」
「読めなければ書き直し」
エヴァが言う。
「字が下手で石が許してくれるなら、学院は潰れないわ」
ダミアーノは苦笑した。
テオが横で羊毛を詰めている。
「学院って怖いところですね」
「怖くないわ。退屈なところよ」
エヴァは鉱石片を光に透かした。
「怖いのは、退屈な人間が失敗を隠すこと」
俺は作業台の端で、用途表を確認していた。
遮音箱。
母の診療所で、泣く赤ん坊や痛みに呻く患者の声を少し和らげる道具。
同時に、助けを呼ぶ声を消せる道具。
だから、販売先も使い方も後で決める必要がある。
まだ成功もしていないのに、使われ方の影だけは先に来る。
「若様」
ニコがこちらを見る。
「始めます」
俺は頷いた。
本当は、待てと言うべきだったのかもしれない。
この数週間、俺は急いでいた。
冬の家賃補助が足りない。
ラゴ商会は粉の条件を緩めない。
港湾庁の猶予は終わりに近い。
魔晶石の事業が少しでも形にならなければ、俺たちはまた古い金へ戻る誘惑に晒される。
だから、俺は用途を急がせた。
温熱板より先に、構造の簡単そうな遮音箱を試そうと言った。
簡単そう。
その言葉の浅さを、この後すぐ思い知る。
ニコは箱の蓋を閉めた。
木箱の内側に薄片を貼り、間に羊毛と金属の細い枠を入れてある。
どの金属をどう扱うかはニコの領分だ。
どの灰青筋が危険かを見るのはエヴァ。
木枠を歪ませず組むのは工員たち。
俺は、音を少しだけ遮る箱がほしいと言っただけ。
それだけなのに、結果が出ない焦りは、まるで自分が全部を動かしているような顔をした。
「音を入れて」
エヴァが言う。
テオが小さな鈴を鳴らした。
箱の中へ入れ、蓋を閉める。
最初は何も起きない。
それから、鈴の音が少しだけ丸くなった。
「お」
テオが声を出す。
ニコの顔が明るくなる。
俺も、胸が熱くなった。
成功か。
そう思った瞬間、エヴァが低く言った。
「待って。熱」
箱の側面が、かすかに白く光った。
灰青色ではない。
白。
嫌な色だった。
「開けるな」
エヴァが叫ぶ。
ニコが手を引く。
だが、遅かった。
箱の中で、鈴とは違う乾いた音がした。
次の瞬間、蓋が跳ねた。
大きな爆発ではない。
工房の壁を吹き飛ばすようなものではない。
だからこそ、近くにいた人間だけを確実に傷つけた。
焦げた羊毛が舞い、白い煙が上がる。
ニコが悲鳴を上げた。
テオが俺の前に腕を出す。
その腕に、熱い破片が当たった。
「テオ!」
俺は叫んだ。
マルコが俺を後ろへ押し倒す。
床の冷たさと、焦げた匂いと、人の声が一緒に来た。
「水じゃない、砂!」
エヴァの声。
「触るな、布を」
リーナが工房へ飛び込んできた。診療所の鞄を持っている。
「ニコ」
ニコは指を押さえていた。
皮膚が赤く、ところどころ白い。深くはない。だが、時計技師の指だ。
彼にとっては、ただの軽傷ではない。
「テオ」
テオは左腕を抱えている。
焦げた上着の下、前腕に火傷があった。
「平気です」
彼はすぐ言った。
俺は怒鳴った。
「平気と言うな」
自分でも驚くほど、声が荒かった。
テオが目を丸くする。
「痛いなら、痛いと言え」
母の言葉を、今度は俺が叫んでいた。
テオは口を開き、少し笑おうとして失敗した。
「痛いです」
その一言で、膝が崩れそうになる。
マルコが俺の肩を押さえた。
「座ってください」
「俺は」
「邪魔です」
短い。
正しい。
俺は壁際に座った。
リーナがテオの腕を冷やし、ニコの指を布で包む。
エヴァは割れた箱へ近づき、まだ熱を持つ欠片を金属皿へ分けている。
ダミアーノと工員たちは、煙を外へ逃がしながら床へ落ちた薄片を数えた。
誰も、俺の指示を待っていなかった。
それでいい。
俺が現場の手順を知らないのに、口を出せば人がさらに傷つく。
俺の役割は、違う。
違うはずなのに、焦りでそれを忘れた。
処置が一段落すると、エヴァが記録紙を持って俺の前に立った。
顔が怒っている。
学院の教授より怖いかもしれない。
「記録が足りない」
彼女は言った。
「厚さの測定はある。石の採取層もある。湿度は?」
誰も答えない。
「昨日の保管温度は? 羊毛の乾燥時間は? 金属枠を誰が削った? 箱を組んだ順番は?」
ニコが青い顔で言う。
「急いでいて」
「急いだ理由は?」
エヴァの目が俺に来た。
逃げられない。
「俺です」
工房が静かになる。
「冬までに形がほしいと言いました。家賃補助と倉庫猶予が苦しい。だから、簡単そうな遮音箱を先に試そうと」
「簡単そう」
エヴァの声が冷たくなる。
「音を吸う反応が、熱へ逃げる可能性を、私が言わなかった?」
「言いました」
「ニコは、金属枠の違いで反応が変わると言わなかった?」
「言いました」
「工員たちは、羊毛が湿ると臭いが違うと言わなかった?」
ダミアーノが目を伏せる。
「言いました」
全部、誰かが言っていた。
科学はエヴァが見ていた。
機構はニコが考えていた。
現場は工員が手で知っていた。
俺は、それを記録に落とす役だった。
投資判断のために、失敗も費用も残す役だった。
それなのに、結果を急いだ。
「俺の責任です」
言葉にすると、胸が冷えた。
責任を認めたからといって、テオの腕が治るわけではない。
ニコの指がすぐ元に戻るわけでもない。工房の損傷に使う金は、どこかの家賃補助をまた圧迫する。
その勘定を、自分にも向ける。
「治療費と休業補填は、実験費から出します。足りない分は、俺の私物の残りを売る。工房の作業は、記録規程を作るまで停止」
ニコが顔を上げた。
「停止したら、冬に」
「冬に間に合わせるために怪我を増やしたら、父の暴力と同じです」
声が震えた。
父を持ち出すのは卑怯かもしれない。
だが、今の俺はそこから逃げてはいけない。
愛のため。
家を守るため。
生きている者を先に。
その言葉で他人の皮膚を焼いたら、何が違うのか。
テオが布を巻かれた腕を上げた。
「兄ちゃん」
「動かすな」
リーナに叱られ、彼は腕を下ろす。
「俺、工房を嫌いにはなってませんよ」
「今それを言うな」
「言っとかないと、兄ちゃんが全部やめる顔をするので」
痛いところを突かれた。
俺は失敗すると、すべてを捨てたくなる。
前世からの癖だ。
一度間違えたら終わり。
迷惑をかけたら消えるべき。
そういう声が、今も胸の底にいる。
テオはそれを知らない。
知らないのに、横から引っ張り上げる。
「やめません」
俺は言った。
「ただし、進め方を変える」
エヴァが腕を組む。
「どう変えるの」
「実験番号、採取場所、保管条件、加工した人、測定値、用途、危険予測、失敗時の処置、補償費。
これが埋まらないものは試さない。口頭で済ませない。急ぎの例外は作らない」
「誰が確認する」
「エヴァ、ニコ、現場代表、診療所記録係、会計。俺は最後に投資判断を見る」
エヴァは少しだけ頷いた。
「やっと出資者らしくなったわね」
褒め言葉ではない。
でも、少しだけ救われた。
夕方まで、工房の掃除と記録の書き直しが続いた。
割れた木片。
焦げた羊毛。
白く変色した灰青の薄片。
ニコの血が少しついた布。
テオの焦げた袖。
どれも捨てずに、番号をつけて箱へ入れた。
失敗を隠さないために。
失敗を美談にしないために。
夜、工房の扉に紙を貼った。
俺の字で、短く書く。
失敗を隠した者は追放。
その下に、エヴァが勝手に一行足した。
失敗を記録した者は、次の人間を守る。
ニコは包帯を巻いた指で、それを見て小さく笑った。
「厳しい工房になりましたね」
「最初からそうすべきだった」
「なら、今からです」
テオが横で言う。
「俺の腕、高い授業料ですよ。冬の粥に肉を足してください」
「火傷の補償を、肉で請求するのか」
リーナが呆れた声を出した。
少しだけ笑いが起きる。
笑っていいのか迷う。
だが、テオが笑わせようとしているのを、笑わずに拒むのも違う気がした。
俺は笑った。
痛みをなかったことにしないまま。
工房の外では、秋の港が暗くなっていた。
遠くで汽笛が鳴る。
父の指輪が胸に重い。
母の台帳の写しは、リーナの鞄にある。
灰青色の石は、まだ何も救っていない。
今日は、ニコの指とテオの腕を傷つけ、工房の金を減らしただけだ。
それでも、扉の紙だけは残った。
成功より先に、失敗の扱い方を決めた。
それがなければ、この石はきっと、父の血の匂いと同じ場所へ俺たちを連れていく。
俺は扉の紙をもう一度見た。
追放の文字は、他人への脅しだけではない。
焦った俺自身を、工房から追い出すための線でもあった。
灰青色の石は、まだ誰も救っていない。
一つずつ番号をつけ、工房の扉へ新しい紙を貼った。
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