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灰冠の指輪 ~愛を知らず死んだ俺は、異世界で没落マフィアを再建する~  作者: ぬゅうた
5章 六分の一家族

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第31.5話 異端者の荷ほどき



エヴァ・ロッセリは新しい研究机を見て、まず椅子の高さへ腹を立てた。


低すぎる。


これでは薄片を見るたび背を丸めることになる。


背を丸めれば、肩が固まる。

肩が固まれば、手元が狂う。


手元が狂えば、魔晶石は人間の都合など知らない顔で弾ける。


「椅子を替えて」


エヴァが言うと、ニコ・バルディは荷物の箱を抱えたまま固まった。


「今ですか」


「今よ」


「机があるだけ、ありがたいと思った方が」


「ありがたさで測定値は揃わないわ」


船員宿の裏に用意された仮工房は、研究室というより網小屋だった。


壁板には潮が染み、床は踏むたび鳴り、窓の蝶番は片方だけ機嫌が悪い。


隅には古い釘、割れた箱、誰かの忘れた縄が置かれている。


けれど、机はある。


鍵のかかる棚も一つ。


雨をしのぐ屋根もある。


学院の地下で、失敗品の箱を勝手に漁るよりはましだった。


まし、という言葉が癪に障る。


エヴァは自分の鞄を開けた。


中身は少ない。


試料瓶。罫線入りの記録帳。

欠けたルーペ。

錆びたピンセット。

布で包んだ小型の秤。


そして、学院から返されなかった道具の一覧。


盗まれたのではない。


貸与品を返納しただけだ、と事務方は言った。


論文の場所も、机の場所も、失敗品の箱を見る権利も、同じ言い方で取り上げられた。


「先生」


ニコが恐る恐る言う。


「これは捨てますか」


彼が持っているのは、口の欠けた試料瓶だった。


「捨てる」


「でも、栓はまだ」


「砂糖瓶と取り違える人がいる瓶は捨てる」


ニコの手が止まった。


彼の横には、本当に砂糖瓶があった。誰かが休憩用に置いたらしい。


エヴァは額を押さえる。


「魔晶石の試料と砂糖を同じ棚に置くなんて。これは法律以前の問題よ」


「すみません」


「謝るより、棚を分けて」


ニコは慌てて動いた。


臆病な男だ。


だが、指先は良い。螺子を扱う時の迷いが少なく、危険を怖がるぶん、道具を雑にしない。


貧乏性すぎて、壊れたものを捨てられない欠点はあるが。


昼前、エヴァは大家のところへ退去の挨拶に行った。


学院近くの安下宿。


狭い部屋だった。


冬は窓から風が入り、夏は屋根裏の熱がこもる。


けれど、そこには自分だけの本の山と、自分だけの沈黙があった。


大家の女は、鍵を受け取るとため息をついた。


「危ない石を持ち込んでいなかったでしょうね」


「持ち込んでいたら、今ごろ部屋代の取り立てより修繕費の話をしています」


「口の減らない人だ」


「荷物は減りました」


大家は笑いかけて、やめた。


「ベランディに行くんだって?」


「ええ」


「あそこは人を守る顔もするけど、怖い顔もするよ」


「学院も同じでした」


言ってから、少し違うと思った。


学院は怖い顔を隠す。


ベランディは、時々、怖い顔のまま立つ。


どちらがましかは、まだわからない。


工房へ戻ると、作業台に白い布が敷かれていた。


工員の女が一人、腕を組んで立っている。


「ジータです」


彼女は先に名乗った。


「布は勝手に敷きました。木屑が試料に入ると困るでしょう」


「困るわ」


「でも、この台は私たちが薄片を並べる台です。先生だけの場所にはしません」


エヴァは布を見た。


粗いが、洗ってある。


端がまっすぐではない。けれど、皺を伸ばす手つきは丁寧だった。


「先生だけの場所にするつもりはない」


「学者は、だいたい最初にそう言います」


ジータの声には、からかいだけではない警戒があった。


女だから下に見られること。


手で働く者だから下に見られること。


エヴァには、その二つのうち一つはよくわかる。


もう一つを、わかった顔で奪ってはいけない。


「では、ルールを作りましょう」


エヴァは記録帳を開いた。


「この台に試料を置く時は、置いた者の名を書く。布を替えた者の名も。

薄片を削った者、触った者、割った者。私の手も、あなたの手も、同じ紙に残す」


ジータは少し目を細めた。


「字が下手な者は」


「読めるまで書き直し。字の上手さではなく、次の人が読めるかどうか」


「なら、やれます」


その返事は、契約書の署名よりずっと信用できる音がした。


夕方、ルカ・モレッティが予算表を持ってきた。


会計係の顔は、最初から胃が痛そうだった。


「ロッセリ先生。試薬、棚、換気口、砂箱、保管用の金属皿。全部は無理です」


「全部必要です」


「全部必要なものは、全部買えないことが多い」


「それは科学の敵ね」


「炊事場の味方でもあります」


言い返せなかった。


廊下の向こうから豆粥の匂いがした。


この工房の金は、どこかから湧いたものではない。


倉庫修繕を遅らせ、家賃補助を薄くし、幹部の取り分を戻さずに捻った金だ。


エヴァの研究は、貧しい人々の我慢の上に机を置いている。


それを忘れれば、学院で自分を追い出した教授たちと同じ顔になる。


「優先順位をつけます」


彼女は言った。


ルカの眉が少し上がる。


「一、砂箱。二、換気。三、金属皿。棚は古い箱を使う。ただし、砂糖瓶と試料瓶が並ばない仕切りを作る。試薬は半分。椅子は」


「椅子は?」


「脚を切るのではなく、台を足す。安く済むでしょう」


「助かります」


「助かるのは私の背中よ」


ルカは初めて薄く笑った。


夜、工房は少しだけ研究室に近づいた。


高い椅子。

分けられた棚。

砂箱。

白い布の作業台。


壁には、エヴァの字で三枚の札が貼られている。


触るな。

測る前に割るな。

黙って成功するな。


最後の札を見て、ニコが首を傾げた。


「失敗を黙るな、ではなく?」


「成功を黙る方が危ない時もあるの」


「なぜです」


「昨日一度うまくいったことを、理由もわからず繰り返すから。成功は人を急がせる。失敗より礼儀が悪いわ」


ニコは真面目に頷いた。


本気で書き写しそうな顔だった。


「それと、先生はやめて」


「では、ロッセリさん」


「エヴァでいい」


言ってから、自分で少し驚いた。


学院では、名を呼ばれることは少なかった。


助手。

女史。

問題の多いロッセリ。

異端者。


肩書きは便利だ。


人を箱に入れて、蓋をする。


ベランディもきっと、彼女を便利な異端者として使いたい面がある。


資金を出す若いドンは誠実そうだったが、誠実な出資者ほど成果を急ぐことがある。


だから、ルールが要る。


彼を信じるためではない。


彼を疑い続けるためでもない。


誰か一人の善意や焦りで、他の手が焼けないようにするためだ。


エヴァは最後の荷物を開けた。


安宿の残りパンが紙に包まれている。


固くなっていた。


彼女は半分を自分の口に入れ、半分を机の端に置いた。


「それも記録しますか」


ニコが聞く。


「これは食べるだけ」


「よかった」


彼は本気で安心した顔をした。


翌朝、工房の窓から港の光が入った。


レオーネが来る前に、ジータが作業台の布を張り直し、ニコが試料瓶の栓を確認し、エヴァは椅子の高さをもう一度確かめた。


完璧ではない。


完璧なら、そもそもここにはいない。


失敗品の山を買った家と、失敗品の箱から追い出された研究者と、壊れたものを捨てられない技師と、手の名を紙に残したい工員たち。


良い材料ではない。


でも、記録するには十分だった。


エヴァは新しい帳面の最初のページに書いた。


第三残滓置き場。


仮工房。


触った者の名を残すこと。


そして少し迷ってから、最後に一行を足した。


この工房では、異端より先に、無記録を罰する。


その一行を見て、彼女はやっと椅子に座った。


【人物紹介】

・エヴァ・ロッセリ

学院を追われた鉱物学者。灰青色の石の扱いを調べるため、仮工房へ加わった。

内心は呆れながら、工房と魔晶石に可能性を感じている。

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