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灰冠の指輪 ~愛を知らず死んだ俺は、異世界で没落マフィアを再建する~  作者: ぬゅうた
5章 六分の一家族

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第32.5話 左腕の袖をまくる日



テオ・リッチは左腕を動かせないまま、右手だけでスープ皿を持とうとして床にこぼした。


薄い豆のスープだった。


肉は入っていない。香草も少ない。けれど温かかった。


温かいものをこぼすと、床板まで情けない匂いになる。


「あ」


声を出したのが失敗だった。


リーナがすぐ振り向いた。


「動かないで」


「床が逃げます」


「逃げる床より、あなたの腕の方が問題です」


反論しようとして、左腕が脈打つように痛んだ。


工房の小爆発から五日。


熱は下がった。夜中に汗で目を覚ますことも減った。


けれど左の前腕はまだ包帯の中で熱を持ち、指先を少し動かすだけで皮膚の奥が引きつれる。


テオはそれを、できるだけ軽い怪我の顔にしていた。


軽い怪我なら、護衛を外されない。


軽い怪我なら、坊ちゃんがあの目をしない。


軽い怪我なら、自分の椀を右手で持てないくらいで、捨てられる理由にはならない。


「平気です」


言った瞬間、リーナの眉が上がった。


「それ、禁止」


「誰が決めたんです」


「あなたが工房で痛いと言わされてから、私が決めました」


彼女は布を持って膝をつき、こぼれたスープを拭いた。


診療所の記録係になってから、リーナは怒る時の声がエミリア奥様に少し似てきた。


本人に言えば怒るだろうか。


テオは気になりつつも、言わない。


「皿は私が持ちます」


「子供じゃないんで」


「怪我人です」


怪我人。


その言葉は、包帯よりきつく巻きついた。


テオは右手で匙を握った。


匙は左側に置かれていた。いつもの癖だ。取ろうとして肩が動き、腕が痛む。


リーナが無言で匙を右側へ置き直した。


親切だ。


親切は時々、できないことをはっきり見せる。


「午後、工房へ行きます」


テオが言うと、リーナは即答した。


「行きません」


「見回りじゃないです。軽作業です。札を運ぶとか、羊毛を数えるとか」


「羊毛は数えなくても逃げません」


「俺は逃げます」


冗談にした。


リーナは笑わなかった。


「逃げたいなら、痛いと言ってから逃げて」


彼女の声が、少しだけ低くなった。


そこで初めて、テオは彼女も怖いのだと気づいた。


工房で焼けたのは、テオの腕だけではない。ニコの指も傷ついた。


リーナは飛び込んできて、焦げた羊毛と白い煙の中で包帯を巻いた。


痛いと言えと怒鳴ったのは坊ちゃんだったが、痛いと言わせた後で手当てを続けたのは彼女だ。


「痛いって言ったら」


テオは匙を見た。


「何か減る気がするんです」


「何が」


「使えるところ」


リーナは手を止めた。


言ってしまってから、テオは後悔した。


こういう話は、軽口の横に隠しておくものだ。


出せば、相手が重い顔をする。重い顔をされると、こちらまで本当に怪我人になる。


「使えるところは、痛いと言ったくらいで減りません」


リーナは言った。


「隠した痛みで悪くしたら、減ります」


正しい。


正しい言葉は、包帯を剥がす時に似ている。必要で、痛い。


昼過ぎ、テオは結局、工房へ行った。


もちろん一人ではない。


リーナがついてきた。


「監視ですか」


「付き添いです」


「言い方が柔らかいだけですね」


「では監視です」


負けた。


仮工房の扉には、まだ新しい紙が貼られている。


失敗を隠した者は追放。


その下に、エヴァの字。


失敗を記録した者は、次の人間を守る。


テオは左腕を上げかけ、痛みでやめた。


扉を開けたのはリーナだった。


中では、エヴァが焦げた箱の破片を番号順に並べていた。


ニコは包帯を巻いた指で、小さな金具を持てずに苦戦している。


ジータが彼から工具を奪い、無言で締め直した。


「戻るには早いわ」


エヴァが顔も上げずに言った。


「顔を見る前に言います?」


「歩き方がうるさい」


ひどい。


テオは笑おうとしたが、左腕がまた痛んだ。


「軽作業ならできます」


「何を」


「見回り。荷運び。破片拾い。羊毛数え」


「「「却下」」」


三人から同時に言われた。


ニコだけは申し訳なさそうな顔をした。


「すみません。でも、破片は危ないので」


「じゃあ、俺は何を」


声が少し尖った。


工房が静かになる。


テオは失敗したと思った。


怪我人のくせに怒るな。


そう言われる前に、右手を軽く振る。


「いや、ほら。立ってるだけなら置物ですし。置物ならせめて高く売れる顔がよかった」


誰も笑わない。


扉の外で足音がした。


レオーネが入ってきた。


彼はテオの包帯を見て、いつものように言葉を探した。


探す時間が長い。長いほど、テオの方が先に何か言わなければならない気がする。


「兄ちゃん、皿は割ってません。床にスープを飲ませただけです」


「テオ」


その声で、軽口の場所がなくなった。


レオーネは頭を下げた。


深く。


工房の全員の前で。


「俺が急がせた。君の腕を焼いた。治療費も休業補填も出す。けれど、それで」


言葉が詰まった。


テオはぞっとした。


謝罪が怖いのだと、その時知った。


謝られるほど、自分が遠くへ置かれる気がする。


大事な怪我人。守られる側。もう走らない方がいい人間。


「やめてください」


思ったより強い声が出た。


レオーネが顔を上げる。


「謝るなって意味じゃなくて。いや、謝ってもらうのは高くつくのでいいんですけど」


うまく言えない。


左腕が痛い。


その痛みより、ここから外される想像の方が嫌だった。


「俺、腕を焼かれるために工房にいたんじゃないです」


テオは言った。


「でも、兄ちゃんを庇っただけでもない。俺も、工房が成功したら飯が濃くなるって思ってました。

早く形になれば、みんな助かるって。だから鈴を鳴らした時、俺も笑った」


あの一瞬。


箱の中の音が丸くなり、ニコの顔が明るくなった。テオも胸が浮いた。


危ないと思うより先に、うまくいったと思った。


「俺も急いでました」


レオーネは首を振りかけた。


テオは右手を上げて止めた。


「責任を半分にしろって話じゃないです。俺の腕は俺の腕なので、痛いのは俺です」


リーナが小さく頷いた。


「だから、俺が戻り方を決めたい」


工房の奥で、マルコが立っていた。


いつからいたのか、誰も気づかなかった。


「戻るなら、別の訓練です」


彼はそう言った。


中庭へ連れて行かれた。


片手でできる警戒訓練。


それは、想像していたより地味だった。


左腕を吊り、右手だけで扉を開ける。

開けた瞬間に身体をどちらへ逃がすかを決める。


落とした物を拾わない。拾いたくなったら、まず周りを見る。

皿を持つ時は壁を背にしない。痛みで視界が狭くなる時は、声に出して確認する。


「情けない訓練ですね」


テオは言った。


「生き残る訓練です」


マルコは返した。


「強く見える必要はありません」


「護衛なのに?」


「護衛だからです」


短い言葉だった。


それ以上、説明はない。


マルコの愛情は、いつも説明を省く。だから腹が立つ。


だが、その省かれた場所に、後で気づくものがある。


夕方、テオは工房へ戻った。


危険な見回りには出ない。


破片にも触らない。


代わりに、右手で在庫札をめくった。


焦げた羊毛。

割れた木片。

白く変色した薄片。


ニコの血がついた布。

テオの焦げた袖。


どれも番号がついている。


「伝令もできます」


彼は言った。


「走らなければ」


リーナが付け足す。


「走りません。早歩きです」


「早歩きもしばらく禁止」


「港の伝令が散歩になります」


レオーネが少し笑った。


笑った顔は、まだ苦しそうだった。


それでいいのかもしれない。


すぐ楽になられたら、こちらの腕だけが置き去りになる。


包帯交換の時間になった。


リーナが古い布をほどく。


皮膚が空気に触れた瞬間、テオは歯を食いしばった。


「痛い?」


いつもの問い。


いつもの嘘を、口が覚えている。


平気です。


そう言えば場が軽くなる。皆が少し安心する。


自分も、まだ使える人間の顔でいられる。


でも、隠した痛みで悪くしたら減る。


テオは息を吐いた。


「痛いです」


小さな声だった。


リーナは頷いた。


「では、もう少しゆっくり」


それだけだった。


大げさに慰めない。褒めない。かわいそうな顔もしない。


ただ、布をゆっくり外した。


その扱いが、一番助かった。


夜、食堂でマルコが無言で匙を右側へ置いた。


レオーネは在庫札の束を持ってきて、テオの前に置いた。


「明日から、これを頼みたい。工房と診療所の間の札確認と伝令。危険な見回りは、包帯が取れるまでなし」


「給金は」


「護衛見習い分のまま」


「怪我人割引は」


「ない」


「なら引き受けます」


テオは右手で札を受け取った。


左腕はまだ熱い。


治っていない。


居場所も、前と同じ形ではない。


それでも、皿を持てない手にも、数えられる札はある。


彼は包帯の端を見た。


明日、工房へ行く時は、左腕の袖を隠さずまくる。


かわいそうに見せるためではない。


平気なふりで痛みを消さないために。


そして、自分の腕がまだここにあると、自分に見せるために。


「痛いです」と言っても、給金も居場所も、その信頼もなくならない。


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