第30話 紙の檻
冬の港湾庁は暖かすぎる。
石炭がよく燃え、廊下には磨いた床の匂いがあり、窓には厚いガラスがはまっている。
外では南埠頭の荷役が白い息を吐いているのに、役所の中では書類の端が湿気で丸まることもない。
紙に都合のいい場所だ。
俺はルカと並んで、港湾庁の待合椅子に座っていた。
十七歳の冬。
父が死んで一年近くが過ぎた。
共同炊事場はまだ薄い。家賃補助は毎月ぎりぎり。
復讐派はブルーノが押さえているが、押さえる手にも疲れが出ている。
母の白灯網は小さく動き続けているが、母自身の行方はわからない。
そして今、ベランディ系の合法倉庫が営業停止寸前になっていた。
その倉庫は、父の時代なら大きな資産とは呼ばれなかった場所だ。
屋根は直しながら使い、壁には潮の染みがあり、
奥の柱は荷役たちが背をこすって磨いたように黒ずんでいる。
だが今の俺たちにとっては、粉袋を受け取る場所であり、
白灯へ送る薬草を一晩置く場所であり、
登録から落ちた男たちに「まだ次がある」と思わせる場所だった。
そこが紙の上で止まれば、扉は閉まっていなくても街の中では死ぬ。
倉庫番の老人は、鍵を開ける仕事を失うだけではない。
毎朝、粉袋の数を見て市場へ知らせる小さな役目も失う。
「若様」
ルカが小声で言う。
「ここでは怒らないでください」
「怒る顔をしていましたか」
「はい」
即答だった。
俺は息を吐いた。
マルコの稽古は、こういう場所で一番役に立つ。
銃の前より、窓口の前で。
「理由はわかっています。港湾統制令の改正。
保険番号の再登録。荷役組合の承認。倉庫の防火検査。帳簿の名義確認」
「それだけ並べられるなら、怒る理由もおわかりでしょう」
ルカは書類鞄を膝に置いた。
「どれも単体では正しい」
「はい」
防火検査は必要だ。
倉庫が燃えれば、隣の家まで焼ける。
保険番号がなければ、事故の補償先が曖昧になる。
荷役組合の承認は、安すぎる賃金で人を使う会社を止めるためにある。
ベランディの倉庫は、父の時代に口約束と顔で回っていた部分が多い。
それで助かった人もいる。
だが、その曖昧さを利用して、密輸や脅しや給金の不透明さも生まれた。
港湾庁の役人は当然嫌うだろう。
名前を呼ばれ、俺たちは奥の小部屋へ通された。
港湾庁の主任書記、ガスパレ・ヴィーダは、細い口髭の男だった。
机は整い、ペン先は磨かれ、指先にインクの染みがない。
「レオーネ・ベランディ殿」
彼は殿をつけた。
礼儀として。
距離として。
「倉庫会社の営業継続について、条件は通知した通りですが」
「全条件を一か月以内に満たせ、という通知です」
俺が言うと、彼は頷いた。
「法は全事業者に同じ期限を求めています」
「同じ期限が、同じ負担とは限りません」
ルカが横でわずかに動いた。
強く言いすぎた。
だが、ヴィーダ書記は怒らなかった。
「承知しています」
彼は静かに言った。
「私の父も、読み書きが苦手な荷役でした。古い港に助けられた人間の一人です」
意外だった。
彼は続ける。
「同時に、古い港で潰された人も知っています。
登録のない仕事で怪我をして、誰も雇い主ではないと言われた男。
倉庫の隅で消えた荷の責任を、字の読めない少年へ押しつけた番頭。
ベランディ家だけの話ではありません。古い仕組み全体の話です」
彼には守りたい港がある。
紙に載らない者を守るためにも、紙へ載せたい。
その正しさは、俺たちを傷つけている。
「では、停止しかありませんか」
ルカが聞いた。
ヴィーダ書記は、机の端の書類を揃えた。
「猶予は出せます。ただし、名義の透明化、税の未納分、保険番号、組合承認、防火修繕の計画書。
少なくとも計画が必要です」
「費用がかかります」
「だから停止を免れる価値があります」
言い方は冷たいが、間違っていない。
費用が出せない事業者に倉庫を任せられない。
役所の机から見れば、それは当然だ。
「ラゴ商会は」
俺は聞いた。
「同じ検査を受けていますか」
ヴィーダ書記の目が一瞬だけ細くなる。
「受けています」
「同じ厳しさで?」
「書類上は」
正直な答えだった。
書類上は。
「不公平を訴えたいなら、議会へ」
ヴィーダ書記は言った。
「私の窓口は、受け取れる紙しか受け取れません」
ルカは書類鞄を外套の中へ入れる。
「猶予は取れます。しかし、修繕費と税の一部納付、保険の再契約で、家賃補助一か月分が消えます」
「消せません」
「では倉庫が止まります」
選べないものを選ぶ。
それが最近の俺の仕事だった。
冬の市場へ戻ると、マルタが炊事場の入口で待っていた。
「粉が止まれば、魚の出汁だけでは無理です」
「わかっています」
「わかってる顔は飽きました」
彼女は腕を組んだ。
ロザが戻らない今、厨房の女たちは俺へ遠慮をしなくなった。いいことだと思う。痛いが。
「どうするんです」
「金を作ります」
「どこから」
それが問題だった。
賭場は動かせない。
貸付を強めれば、カルロのような包帯が増える。
密輸に戻れば、港湾庁と中央捜査局に首を差し出す。
合法事業は紙の檻の中で締められている。
ルカは船員宿に戻るなり、机へ書類を広げた。
「売れる資産を洗い直します」
「もう売りました」
「売れなかったものもあります。価値が低すぎる、権利が曖昧、手続きが面倒。そういうものです」
価値が低い。
権利が曖昧。
手続きが面倒。
今の俺たちに似ている。
だからといって、何でも希望に変わるわけではない。
紙束の山を、俺とルカは夜までめくった。
倉庫の半端な持分。
壊れた船具。
古い保険の返戻金。
父が受け取らず保留にした補償請求。
どれも小さい。
小さすぎる。
テオが途中で干し肉を差し入れた。
「兄ちゃん、食べないとルカさんみたいな顔になります」
「私は食べています」
ルカが言う。
「紙を?」
テオが真顔で聞き、リーナが吹き出した。
笑いが紙の山の上を転がる。
俺も干し肉を噛んだ。
固い。
塩が強い。
父の屋敷の食卓では、こんなものを噛みながら資産表を見たことはなかった。
それでも、今の方が数字の重さはわかる。
夜半、ルカの指が一枚の公告で止まった。
「若様」
紙は王都の官報の写しだった。
旧鉱山残滓保管権、入札公告。
ヴァルモーラ旧銀鉱山、第三残滓置き場。
保管、搬出、処理に関する権利。
最低価格は、驚くほど低い。
低い理由も書いてあった。
鉱山としての価値なし。
処理費用の負担あり。
残留金属の品位不安定。
過去に火災未満の反応事故あり。
灰青色の混入物、取扱注意。
灰青色。
俺は紙を持つ手に力を入れた。
ニコの工房。
六歳の春、息をするように光った小石。
十五歳の晩夏、父が兵器商売を禁じた失敗品。
人を燃やす石ではなく、冷えた手を温める石なら。
「魔晶石」
ルカが小さく言った。
「買えるのか」
「買える価格です」
彼はすぐに続けた。
「ただし、買えば倉庫修繕費が遅れます。家賃補助にも影響する。
しかも、資源になる保証はありません。処理費用を抱えるだけの可能性が高い」
希望は、いつも費用の顔をして来る。
俺は公告を見た。
鉱山ではない。
鉱山が捨てたもの。
失敗の山。
「ニコを呼びます」
「今から?」
テオが目を丸くする。
「...明日の朝です」
「よかった。今からなら俺が走る顔でした」
少し笑いが戻る。
この紙は、救いかもしれない。
同時に、罠かもしれない。
それでも、倉庫の紙の檻の中で、初めて別の扉が見えた。
扉の向こうにあるのは、宝ではない。
捨てられた灰青の山だ。
俺たちが買えるものは、それくらいしか残っていなかった。
【用語紹介】
・旧鉱山残滓保管権
ヴァルモーラ旧銀鉱山の第三残滓置き場について、保管・搬出・処理を行う権利。
鉱床を掘る権利ではなく、残された廃石を扱うためのもの。
過去に事故も起きているため、入札価格は低い。
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