第29話 酒
秋の夜、船員宿の地下は酒と湿った石の匂いで満ちていた。
共同炊事場は夏を越えた。
市場の魚の骨、学校の夜学、白灯の薬草、カルメロたちの背中。
どれも小さな協力だったが、小さいものは積むと重くなる。
食費はまだ苦しい。薬代は余裕がない。家賃補助は毎月、ルカの顔から血の気を奪う。
それでも、誰も飢えて死んではいない。
その事実が、復讐派には屈辱にも見えるらしい。
生き延びている。
だが、仇は討っていない。
その間に父の死が薄まるのではないかと、彼らは恐れている。
俺にも、その恐れはわかる。
父の声を思い出せない夜がある。
思い出せない自分を、裏切り者のように感じる夜がある。
だから、血で記憶を固定したくなる気持ちは、理解できてしまう。
わかってしまうからこそ、止めなければいけない場所がある。
「若様」
テオが地下の入口で囁いた。
「若いのが六人。ブルーノさんの周りにいます。
顔が、ええと、魚を捌く前じゃなくて、自分が捌かれに行く前です」
「例えを選べ」
「選んでこれです」
テオの軽口は戻っていた。
だが、声は低い。
地下室の奥では、ブルーノが杯を置いた。
「遅かったですな、若様」
彼の前に並ぶ若手たちは、父の葬儀の時から目つきが変わった者たちだった。
一人は南埠頭の夜番の弟。
一人は屋敷の書記の甥。
一人は診療所で母親を見失った男。
名前は、台帳にある。
だからこそ、ただの乱暴者として扱えない。
彼らの怒りには、死者の名がついている。
「集会の許可は出していません」
俺が言うと、若手の一人が立ち上がった。
「許可を待ってたから、旦那様は死んだんですか」
地下が凍った。
テオが一歩動く。
マルコが彼の肩を止めた。
俺は息を吐いた。
殴り返す言葉はいくらでもある。
お前に何がわかる。
父の最期を使うな。
俺だって戻りたかった。
「名前を言ってください」
俺は言った。
若手が眉を寄せる。
「何の」
「あなたが今、怒りの理由にした人の名前です」
彼は黙った。
「夜番の兄ですか。屋敷の書記ですか。診療所の患者ですか。
それとも、ヴィットリオ・ベランディですか」
彼の顔が歪む。
「兄です」
「名は」
「ダリオ」
俺はリーナへ視線を送る。
彼女は台帳を開いた。
「ダリオ。南埠頭夜番。妻なし。母親が腰痛。
妹が市場で針仕事。弔慰金、第一回支払い済み。家賃補助は二か月目から遅れ気味」
若手の手が震えた。
怒りの前に、生活が置かれたからだ。
「遅れてるじゃねえか」
「はい」
俺は認めた。
「だから、あなたが捕まれば、妹さんの針仕事の金と、お母さんの薬代はさらに遅れます」
「脅すのか」
「払う対価を数えています」
父が教えたことだ。
守ると言うなら、誰が代金を払ったか数えろ。
「今夜、何をするつもりでしたか」
若手たちが視線を交わした。
ブルーノは黙っている。
彼が止めたのか、煽ったのか。
たぶん、両方だ。
怒りを聞き、酒を注ぎ、ぎりぎりのところで俺を呼ばせた。
そうでなければ、彼ほどの男がこの程度の密談を俺に嗅がせるはずがない。
危険な味方。
台帳の言葉が、現実の男としてそこに座っている。
「ラゴの下請けが使ってる事務所へ行くつもりでした」
別の若手が言った。
「あいつらが粉を止めてる。保険の紙を握ってる。旦那様の日に、企業警備の印もあった」
ラゴ商会の下請け。
確かに怪しい。
だが、怪しいという言葉で殴れるなら、俺たちはとっくに全員を殴っている。
「証拠は」
「紙片があります」
彼は胸元から折れた紙を出そうとした。
マルコが目だけで止める。
俺は首を振った。
「ここで広げなくていい。誰から」
「酒場に来た男が。復讐したいなら、ラゴの犬が集まる場所を教えるって」
「名前は」
「知らねえ」
「顔は」
「帽子で」
マルコが低く言った。
「罠です」
若手の顔が赤くなる。
「決めつけるな」
「決めつけていません。確認しています」
俺は言った。
「その事務所には、本当にラゴの下請けがいるかもしれない。
粉を止める書類に関わった者もいるかもしれない。
彼らにも理屈があります。会社の荷を守る。保険を通す。自分の家族の給金を守る。
だが、それで俺たちの子供の粥が薄くなったことも事実です」
若手たちは黙る。
「だから責任を問う。けれど、帽子の男がくれた住所へ、怒った六人で行くことは責任ではない。
相手にこちらの残りを差し出すことです」
「残り、残りって」
ダリオの弟が拳を握った。
「俺たちは残り物か」
胸が痛んだ。
言葉を間違えた。
「違う」
俺はすぐ言った。
「あなたたちは、残り物ではない。ここから家を作り直す人間です。俺が言葉を間違えました」
謝ると、地下の空気が少し変わった。
ドンは謝らない方がいい。
そう考える者もいるだろう。
「怒りを聞きます」
俺は椅子を引いた。
「今夜は、一人ずつ名前を言ってください。
失った人の名と、誰へ怒っているか。
俺でも、ブルーノでも、ラゴでも、警察でも、役所でもいい。
ただし、聞いたことをそのまま命令にしない」
「葬式ごっこか」
若手の一人が吐き捨てた時、ブルーノの手が動いた。
若手の胸ぐらを掴み、詰め寄って言う。
「言葉を選べ」
低い声だった。
「若様を甘いと思うのは勝手だ。だが、死者の名を読む場を笑ったら、俺が許さねえ」
若手は息を詰めた。
ブルーノは、俺を甘いと思っている。
それでも、死者の名だけは粗末にさせない。
彼の守る面と傷つける面は、同じ太い腕から出ている。
一人目が話した。
兄のダリオ。
港で夜番をしていたこと。
子供の頃、魚の目玉を食べさせられて泣いたこと。
ラゴ商会の荷車を見ると、石を投げたくなること。
二人目は、母親を診療所に残した男だった。
彼女は生きている。
だが、襲撃の日から声が出にくくなった。白い馬車を見ると震える。
彼は中央警察の制服を見るだけで息が苦しくなるという。
三人目は何も言えず、泣いた。
ブルーノは酒を注がなかった。
代わりに、水を置いた。
その手つきが不器用で、少しだけ優しかった。
夜半、入口で控えていたカルメロが降りてきた。
「若様。外に、知った顔の地元巡査が」
地元警察。
中央ではない。
賄賂も取るし、見て見ぬふりもする。だが、祭りの迷子を家へ送ったこともある。
市場の女たちから嫌われ、頼られ、同じ通りで酒を飲む男たち。
巡査の名はバルトロだった。
彼は帽子を胸に抱き、地下へは入らなかった。
「若様にだけ」
マルコと一緒に上へ出る。
バルトロは汗をかいていた。
「今夜、中央の一斉検挙がある」
彼は早口で言った。
「場所はラゴの下請け事務所。情報では、ベランディの残党が報復に来ることになっている」
「情報では?」
「そう書かれた紙が回ってきた。上は乗り気だ。
中央は手柄が要る。港湾庁は治安維持の証拠が要る。
ラゴは、被害者になれば保険と警備契約が通る」
彼は唇を噛んだ。
「俺は警察だ。あんたらを庇う義理はない。ベランディに泣かされた家も知ってる。
だが、怒った若いのをわざと集めて一網打尽にするのは、治安じゃねえ」
「なぜ知らせた」
「俺の姪が、エミリア先生に助けられた」
また母。
彼は続けた。
「それだけじゃない。中央に港を全部持っていかれたら、地元警察はただの案内係になる。
俺にも守りたい椅子がある」
正直だった。
姪への恩。
組織としての面子。
自分の仕事。
その全部が、彼をここへ立たせている。
「感謝します」
俺が言うと、バルトロは顔をしかめた。
「感謝で帳消しにするな。俺はあんたらを見逃してきたこともある。そのせいで泣いた奴もいる」
「帳消しにはしません」
「ならいい」
彼は帽子をかぶり直した。
「今夜は若いのを外へ出すな。出したら、俺は止められない」
地下へ戻ると、全員が俺を見た。
俺は帽子の男から渡された住所を、机の上に置かせた。
「中央警察の罠です」
若手たちの顔が変わる。
怒り。
羞恥。
恐怖。
「警察も全員敵か」
誰かが言った。
「違う」
俺はバルトロの名を出さずに答えた。
「俺たちを捕まえたい警察がいる。治安を守りたい警察もいる。
出世したい者、港を嫌う者、家族を守りたい者。全部いる。だから一つの札で見ない」
「では、どうする」
ブルーノが聞いた。
彼の声は、さっきより低く、少しだけ静かだった。
「今夜は誰も出さない。代わりに、明日、弁護士を通じてその事務所周辺の検問予定を照会する。
ラゴの粉の条件も、保険番号と受取印の根拠を紙で問う」
「紙か」
若手が悔しそうに言う。
「紙です」
俺は言った。
「ただし、怒りを消せとは言わない。今夜話した名は、台帳に残す。
復讐の燃料ではなく、責任を追うために」
外で、秋の風が戸を鳴らした。
若手たちは誰も納得した顔をしていなかった。
だが、立ち上がって出ていく者もいなかった。
ブルーノは最後の杯を手に取り、口へ運ばず机へ伏せた。
「若様は甘い」
「知っています」
「だが、今夜は俺が止める」
ブルーノはその大柄な体に、威圧感をまとわせて言った。
「出る奴は、俺の弟の名を踏んで出ろ」
誰も動かなかった。
罠の住所は、机の上で薄い紙のまま湿気を吸っていた。
血に近づいた夜は、血にならずに済んだ。
それでも、怒りは消えない。
消えないものを抱えたまま、俺たちはまた一つ、復讐より先に記録を選んだ。
復讐のための杯は伏せられた。
地下に集まった若手たちは、罠の住所を前に座り続ける。
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