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第28話 借りを返す街



夏のヴェッキア・リーヴァは、朝から熱を持つ。


石畳に撒かれた水はすぐ乾き、魚市場の匂いは強くなり、共同炊事場の薄い粥にも少し酸っぱい汗の匂いが混じる。


春から何とか回してきた配膳表は、壁の端が丸まり、何度も書き直された名前で黒くなっていた。


ラゴ商会に買われた仕入れ先は、相変わらず条件を増やす。


前払い。

登録済み倉庫の受取印。

港湾保険の番号。


王都の役所から見れば、どれもまともな条件だ。


荷を盗まれないため。代金を踏み倒されないため。

事故が起きた時、誰が責任を負うか決めるため。


だが、まともな条件をすべて満たせない人間は、まともな飯から順に遠ざけられる。


俺たちはその遠ざけられた側にいた。


「若様、無理な徴収はできません」


ルカは会計室代わりの船員宿の一室で言った。


「今、住民から強く取れば、短期の粉代にはなります。ですが、秋には誰も残りません」


「しません」


俺は答えた。


言い切りながら、胸の奥で別の声が囁く。


取れば早い。


父の時代なら、払わせる相手を見つけ、期限を切り、恐れを使ったかもしれない。


でも、そのやり方で失うものを、俺はもう見ている。


「借りを返してもらいます」


そう言うと、ルカの眉が動いた。


「それは、言い方を間違えると徴収です」


「だから一人で行かない」


俺は母の台帳の写しを閉じた。


「リーナと、白灯の連絡先を知る修道女に同席してもらう。

金ではなく、できることを聞く。断った者を記録して罰に使わない」


ルカはしばらく俺を見た。


「若様は、恩を利用する罪悪感を先に数えておられる」


「母の名前を盾にする気はありません」


母に救われた人間は多い。


だからこそ、危ない。


エミリア・ベランディの診療所に世話になっただろう、と言えば、たいていの住民は何かを差し出す。


感謝と恐怖と負い目が混じった手で。


俺たちがそれを当たり前に受け取った瞬間、母の診療所は父の指輪と同じ重さになる。


母は、借りを次の誰かへ返してと言った。


俺たちへ返せとは言っていない。



最初に訪ねたのは、チェネリ市場の魚屋の老婆だった。


十五歳の秋、迷子と財布の騒ぎで俺の手を拝むように握った人だ。


手のひらは相変わらず硬く、指の間に塩と魚の匂いが染みていた。


「若様、金は出せませんよ」


彼女は先に言った。


「息子が港湾庁の登録で弾かれましてね。うちも今日の氷代で精いっぱいです」


「金ではなく、魚の端を」


「端?」


「売り物にならない頭や骨。炊事場で出汁にします。

腐ったものは要りません。使えるものだけ、量を決めて」


老婆は目を細めた。


「ただで?」


「はい。ただし、渡した量と日付は記録します。後であなたの店が困った時、こちらも見返せるように」


「貸し借りの帳簿ですか」


「いいえ。忘れないための台帳です」


リーナが横で頷いた。


「奥様も、そう書いていました」


老婆の顔が変わった。


母の名を出した。


出してしまった。


胸が痛む。


だが、リーナの声は脅しではなかった。診療所の水差しを持っていた少女の声だった。


老婆は店の奥から木箱を出した。


「魚の頭なら、昼に余る。氷をケチると腐るから、夕方までに取りに来なさい。

うちの名を大きく出すんじゃないよ。ラゴの配送に嫌がらせされたら困る」


「守ります」


言ってから、また言い直す。


「名前は、台帳の写しを持つ者だけに見せます」


老婆は鼻で笑った。


「若様も言い直すようになったね」


「言い直さないと、父と同じ言葉になる」


言って、しまったと思った。


老婆は俺を見た。


「旦那様に救われたこともある。怖かったこともある。

あんたが全部を背負う顔をすると、こっちまで息が詰まるよ」


彼女は魚の骨を箱へ投げ入れた。


「こっちはこっちの腹で決める。奥様に助けられた借りを、子供の粥に返す。それだけだ」


恩は、俺が取り立てるものではなかった。


彼女が置き場所を選ぶものだった。



次に、学校教師を訪ねた。


フェデーレ先生は、父が昔、地図の上で示した小さな学校にいる。


痩せた男で、いつも袖に白墨の粉をつけている。


「子供の学費を止めない、と聞きました」


先生は俺たちを教室の隅へ案内した。


机は古く、板書石は欠けている。


窓の外で子供たちが縄跳びをしていた。


ベンノの息子もいた。まだ笑い方が少し下手だ。


「止めません」


「なら、こちらも夜に文字を教えます。荷役登録の書類を読めない大人へ。保証人欄で止まる者が多い」


「先生、それは港湾庁に睨まれます」


「港湾庁は、字が読める市民を望んでいるはずです」


先生は眼鏡を押し上げた。


「役所は港を整えたい。事故を減らしたい。密輸を防ぎたい。

なら、字が読めないことを罠にしてはいけない」


「罠にしているのが役所なら」


「その時は、教師が黒板で抵抗します」


静かな言い方だった。


俺はただ、夜の灯油代と、見張りを一人だけ出すと約束した。


見張りが教室の中へ入らないことも、条件に入れた。


子供と学びの場を、ベランディの徴収の影にしないために。



昼は、修道院へ行った。


教会の裏手、白壁の小さな建物に、白灯修道会の修道女が一人いた。


名はシスター・クララ。


母より少し年上で、声は柔らかいが、目は役所の窓口より厳しかった。


「エミリアは、あなたが来るなら最初にこう言えと言っていました」


彼女は茶も出さずに言った。


「白灯を、家の旗にしてはいけない」


俺は頭を下げた。


「わかっています」


「若い男の『わかっています』は、たいてい半分です」


テオが後ろで咳をした。笑いを飲み込んだのだろう。


クララは机に小さな布を置いた。


白い糸で灯の印が刺してある。


「白灯の家は、傷を見せても追い返さない場所です。

ベランディの味方という意味ではありません。

オルシーニの女でも、中央警察の下働きでも、ラゴ商会の荷車引きでも、傷があれば入れます」


「敵が隠れます」


「隠れるでしょう」


礼拝堂で俺が規律にした言葉を、そのまま返された。


「それでも、手当てする者を罰しない

。あなたが本気なら、その規律を白灯側にも文書で出しなさい。

こちらも、あなたたちの炊事場へ薬草と看護の手を少し回します」


「少し」


「少しです」


クララは即答した。


「白灯にも限界があります。エミリア一人が消えただけで、何人もの夜番が増えました。

私たちは聖人ではありません。眠らなければ倒れます」


母の網も万能ではない。


だからこそ、潰してはいけない。


「奥様は」


リーナが震える声で聞いた。


「何か、連絡を」


クララは少しだけ沈黙した。


「生きているとも、死んだとも言えません」


また、不明。


胸が裂ける。


クララは続けた。


「ただし、奥様が使った符丁は、まだ生きています」


俺は顔を上げた。


「どういう意味です」


「襲撃の後、白灯の連絡網に、古い順番で合図が回りました。エミリアが昔決めた順番です。

本人か、本人から教わった誰かかはわからない。でも、連絡は死んでいません」


母が生きている証拠ではない。


だが、母が残したものが生きている証拠だった。


それだけで膝が抜けそうになった。



午後、荷役頭のカルメロを訪ねた。


彼は港の片隅で、登録から落ちた男たちと網を修理していた。


仕事ではない。仕事と呼べば港湾庁に止められる。


だが、手を動かさなければ男たちは自分が不要になったと思い始める。


「若様、うちから出せるのは背中だけです」


カルメロは言った。


「粉袋は運べません。登録がない。だが、市場の魚の頭や、学校の夜学の机なら、港湾の荷じゃない」


「それも目をつけられる」


「つけられますな」


彼は笑った。


「こっちも守りたいもんがあります。若いのを復讐の酒に沈めるより、魚の臭い箱を運ばせる方がましです」


復讐の酒。


その言葉が、胸のどこかに引っかかった。


怒りは消えていない。


炊事場が回り、魚の骨が届き、夜学が始まっても、父の死は消えない。母の不在も、消えない。


借りを返す街は、同時に傷ついた街でもある。



夕方、共同炊事場の鍋に魚の出汁が入った。


薄い粥の匂いが、少しだけ食事の匂いになった。


テオが器を覗き込む。


「兄ちゃん、今日は魚がいます」


「骨だ」


「骨でも、いないよりは強いです」


リーナが少し笑った。


笑いながら、彼女は薬草の包みを数えている。


マルタは魚の頭をどう煮るかで市場の女と揉め、

ルカは夜学の灯油代を帳簿に入れ、カルメロの男たちは木箱を洗っていた。


俺が作ったものではない。


街の人間が、自分の事情と生活で少しずつ出したものだ。


そこには感謝もある。


打算もある。


恐怖もある。


ラゴ商会に睨まれたくないから名を伏せる者もいる。

ベランディが戻った時に貸しを残したい者もいる。

母に救われた記憶を、別の子供の粥へ返したい者もいる。


どれか一つだけを綺麗に選べば、また嘘になる。



夜、シスター・クララから預かった白灯の布を、俺は母の台帳の写しに挟んだ。


生きている者を先に。


その先に、母の影がまだ完全には消えていない。


俺は嬉しさを飲み込んだ。


希望は、扱いを間違えると命令になる。


だから、まず明日の鍋の数を確認する。


それでも眠る前、白い糸の灯が、暗い部屋の中でほんの少しだけ光って見えた。


【人物紹介】

・シスター・クララ

白灯修道会の修道女。エミリアが残した医療の連絡網を知る人物。


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