第27話 食費から始まる反撃
5章 六分の一家族
礼拝堂で仮のドンとして承認された、その日の午後。
俺は玉座ではなく、共同炊事場の奥にいた。
大鍋の底では豆粥が薄く煮えている。
焦げつかないよう木杓子で混ぜるたび、湯気と一緒に豆の皮の匂いが上がった。
春とはいえ、ヴァレノの風はまだ冷たい。鍋の前にいると顔だけが熱く、背中だけが冷える。
「若様」
台所番のマルタが、粉袋の口を縛り直しながら言った。
「小麦粉は、今日の昼と夜で終わります。麦は明日の朝まで。豆は、水を増やせば二日」
水を増やせば。
その言葉は、負けを隠すための知恵に聞こえた。
薄くする。
延ばす。
腹をごまかす。
父を殺した相手の名を叫ぶより先に、俺たちが向き合うのは鍋の水位だった。
ブルーノが壁際で腕を組んでいた。
「若様。炊事場の話は女たちに任せりゃいい」
マルタの眉が上がる。
彼女は父の屋敷で厨房を任されていたロザの従妹だ。
ロザは戻らない。だから今、彼女が鍋の前に立っている。
「女たちに任せて、男たちは何をするんですか」
俺が聞くと、ブルーノは顎を引いた。
「奪われたものを取り返す」
「小麦粉を?」
「そういう話じゃねえ」
「俺はそういう話をしています」
声が硬くなった。
鍋の前にいた未亡人たちが、こちらを見ないふりをした。見ている。全員が聞いている。
俺は父の指輪を首の上から押さえた。
銀の輪は、心臓の少し上で冷たかった。
「食費。薬代。家賃補助。今日決めるのは、その三つです」
ブルーノの目に苛立ちが走る。
「それが反撃ですか」
「はい」
笑われるかと思った。
実際、若い男の一人が口の端を動かした。
その隣で、夫を失ったパオロの妻が双子の頭を抱き寄せた。
彼女は笑わなかった。
笑える話ではないことを、腹の底で知っている顔だった。
「食べられない家は、復讐に人を出せません。
薬が切れた重傷者は、情報も運べません。
家賃を払えずに追い出された未亡人は、敵が差し出す金に頭を下げるしかなくなります」
言いながら、胸が少し冷える。
敵が差し出す金。
俺たちも、かつてそうやって人を縛ってきた。
飢えた人にパンを出し、そのパンの横に家名を置く。助けた面は本物だ。縛った面も本物だ。
だから今、同じ仕組みで街を奪われる痛みが、こちらへ返ってきている。
「ルカ」
俺が呼ぶと、会計係のルカが折り畳んだ表を広げた。紙の端は何度も触られて柔らかくなっている。
「現金は、弔慰金配布後の残りで十二日分。全員へ通常の食券を出せば八日。
薬代を削れば十四日まで延ばせますが、重傷者三名の熱が戻る可能性があります」
「削らない」
リーナが即座に言った。
診療所の記録係になった彼女は、母の台帳を布で包んで抱いている。
まだ十代の少女の腕には重すぎるはずなのに、彼女は下ろさなかった。
「熱は待ってくれません。薬を一日減らすと、次の日に二日分必要になります」
ルカは頷く。
「その通りです。では、食材の方を再編します。
合法食堂会社の看板は凍結対象ですが、
炊事場としての無償配布は教会名義なら当面通せる可能性があります」
「教会を巻き込むのか」
ブルーノが低く言う。
「巻き込まれたがる神父はいません」
ルカは淡々と答えた。
「ただ、教会側にも守りたい順番があります。
路上に病人と子供が出れば、説教どころではない。
彼らは魂を守ると言う。なら、まず身体が倒れない場所を守る必要がある」
神父にも守りたいものがある。
俺たちのためではない。
自分の教会の秩序、信徒、慈善の名誉、そして本当に飢えた人間。
それらが重なる場所だけ、手を借りられる。
「ピエトロの酒場は」
「鍋を出すと言っています」
ルカの声に、わずかなためらいが混じった。
「ただし、彼の仕入れ先が今朝、ラゴ商会傘下の配送会社に買われました」
鍋の湯気が、急に薄く見えた。
ラゴ商会。
南埠頭の保険書類に名があり、父の死の夜、奪われた荷の印にも残っていた大手物流企業。
まだ敵と断定できない。
物流をまとめること自体には理屈がある。
事故を減らし、保険を通し、安定した配送をする。
小さな仕入れ先が不安定なら、大きな会社に買われた方が、帳簿の上では健全に見える。
だが、その健全さの下で、俺たちの炊事場に届く粉袋だけが細るなら。
それは制度と資本の顔をした封鎖だ。
「価格は」
「三割増し。前払い。さらに、港湾庁登録済みの受取人でなければ配送しないとのことです」
マルタが粉袋を叩いた。
「登録済みの受取人は、昨日、倉庫の札を止められたばかりですよ」
「だからです」
ルカの眼鏡が、ランプの光を拾った。
「彼らは違法なことを言っていない。条件を並べているだけです。こちらが満たせない条件を」
ブルーノが吐き捨てる。
「なら、満たせるようにする前に、倉庫を押さえた奴の鼻を折る方が早い」
「折った鼻で粉は焼けません」
マルタが言った。
場が止まった。
ブルーノが彼女を見る。
マルタは怯えた。けれど、引かなかった。
「ロザ姉さんは戻りません。厨房に残ったのは、鍋と、焦げた棚と、食べさせる口だけです。
私らは、誰の鼻が折れたかより、今夜の匙の数が知りたいんです」
ブルーノの拳が一度だけ握られた。
彼は怒っている。
当然だ。
父を殺され、仲間を失い、今、厨房の女に止められている。
その屈辱も本物だ。
だが、マルタの言葉も本物だった。
「匙の数を出します」
俺は言った。
「今日から共同炊事場を三段階に分ける。
重傷者と子供のいる家は濃い粥。働ける者は薄い粥にパン半分。
独り身で動ける者は、昼を炊事場、夜は各自の仕事先で補う」
「若様」
ルカが顔を上げる。
「それは不満が出ます」
「出ます」
公平ではない。
全員に同じ薄さで配れば、文句は少ないかもしれない。
「不満は俺が受けます。配膳表には理由を書く。
子供、重傷、妊婦、夜番、仕事探し。
嘘の申告があれば確認する。でも最初から疑う顔で配らない」
リーナが台帳に書く。
紙に、豆粥の匂いが移りそうだった。
「薬代は」
「母の隠し口座から三分の一だけ使います」
ルカが息を止めた。
「三分の一で止める理由は」
「母の金を、今日の安心で全部溶かさないためです。残りは家賃と、白灯の連絡に使う」
家賃。
その言葉で、未亡人たちの視線が強くなった。
借家の戸は、銃より静かに閉まる。
追い出された家族は、復讐派にも、敵の使いにも、役所の保護にも流れる。
どれが悪いとは言えない。誰だって雨をしのぐ屋根が要る。
「家賃補助は、家主へ直接払うのではなく、受け取る家の名前と、支払い先の控えを二人で確認します」
「手間がかかります」
ルカが言った。
「手間をかけます」
母の台帳は、一人の手では守れない。
一人に任せれば、その一人が潰された時に全員が飢える。
ルカだけに任せれば、ルカが裏切ったという噂がまた走る。
リーナだけに任せれば、診療所の少女へ重さが集まりすぎる。
規格化。
前世の言葉が頭をよぎる。
でも、これは工場の部品ではない。
俺ができるのは、手順を揃え、記録を残し、誰か一人に神様をさせないことだけだ。
「炊事場の当番表も作ります」
マルタが言った。
「未亡人だけで回すと、また誰かが倒れます。男も鍋を洗ってください」
テオがぱっと顔を上げた。
「俺、鍋洗いならできます。肉の匂いが残ってる鍋がいいです」
「残っていません」
マルタが即答した。
誰かが小さく笑った。
笑いは薄い。
でも、豆粥の湯気の上に少しだけ浮いた。
ブルーノは笑わなかった。
それでも、彼は外套を脱いだ。
「鍋は洗わねえ」
そう言いながら、空の粉袋をまとめ始める。
マルタが鼻を鳴らした。
「袋を畳むだけなら、子供でもできます」
「なら、俺は子供に負けねえ」
今度は、少し大きく笑いが起きた。
父がいない場所で笑うことに、罪悪感が刺さる。
だが、笑った口で粥を食べる子供を見たら、父も母も怒らない気がした。
怒るとすれば、笑ったことではなく、笑いを言い訳に記録を怠った時だ。
夕方、最初の配膳表が壁に貼られた。
濃い粥。
薄い粥。
パン半分。
薬代。
家賃補助。
名前と理由。
恨みを買う紙だ。
同時に、明日の腹を守る紙でもある。
広間の隅で、ピエトロが空の籠を持って立っていた。
「若様」
彼は帽子を胸に当てた。
「仕入れ先から、明後日以降は現金前払いでなければ粉を出さないと」
「ラゴ商会の名で?」
「はい。あと、配送には登録済み倉庫の受取印が必要だと」
倉庫。
俺たちの合法倉庫は、まだ止められたままだ。
粉はある。
金を払えば買える。
だが、受け取る紙がない。
敵は、腹を直接殴らない。
匙と印紙の間を締める。
俺は壁の配膳表を見た。
今日の反撃は、誰も倒していない。
ただ、薄い豆粥を公平ではなく必要で分け、薬代を削らず、家賃の紙を二人で確認することだった。
情けないほど小さい。
でも、その小ささの向こうで、ラゴ商会の印がこちらの台所に影を落としていた。
反撃は、食費から始まる。
そして敵もまた、食費から俺たちを殺しに来ていた。
再建の最初の議題は、粥の濃さとパンの大きさ。
マルタは男にも鍋を洗わせ、ブルーノは文句を言いながら粉袋を畳む。
肉は、まだ入っていない。
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