第26話 灰冠の仮戴冠
春の礼拝堂には、白い花が少しだけ戻っていた。
父の葬儀の時、ソフィアが置いた一輪はもうない。
枯れる前に、リーナが押し花にした。
受け取ったわけではない。ただ、捨てることもできなかった。
今、祭壇の前にあるのは、港の人々が持ち寄った花だ。
高価なものはない。
市場の余り花。
教会裏で咲いた小さな花。
診療所の割れた花瓶に残っていた枝。
その前で、俺は名を読んだ。
ヴィットリオ・ベランディ。
パオロ。
ベンノ。
ロザ。
南埠頭の夜番。
屋敷の書記。
診療所の患者。
名前を持つ人たち。
最後まで確認が取れず、行方不明の欄に残る人たち。
そして、エミリア・ベランディ。
母の名は、死者としては読まなかった。
行方不明として読んだ。
その違いにすがっていることは、自分でもわかっている。
名を読み終えるまで、誰も喋らなかった。
ブルーノも、ルカも、マルコも、テオも。
未亡人たちも、荷役の老人たちも。
これは正式な戴冠ではない。
レガリアの法では、俺はまだ成人ではない。
ベランディ家の古い慣習でも、十六歳の子供がドンの椅子に座るなど、危うすぎる。
父の威光に守られた坊ちゃんが、父の死で持ち上げられているだけだと見る者もいる。
その見方は、半分正しい。
俺はまだ父の代わりになれない。
なるつもりもない。
だから今日決めるのは、王冠ではなく仮の責任だ。
礼拝堂の奥に、灰冠の旗が掛けられていた。
煤で少し汚れている。
洗えば落ちる汚れかもしれない。
でも、誰も洗えと言わなかった。
灰は、今の俺たちの色だった。
マルコが前に出る。
「ベランディ家は、ヴィットリオ・ベランディの死後、
レオーネ・ベランディを仮のドンとして承認する。
正式な成人まで、相談役代理と幹部会の監督を置く」
彼の声は硬い。
軍の報告みたいだった。
愛情が命令にしかならない男の、精一杯の支えだった。
「異議のある者は」
沈黙。
完全な納得ではない。
異議を言える余裕がないだけの者もいる。
復讐のために俺を担ぐ者もいる。
父の息子だから従う者もいる。
母の台帳を持っているから様子を見る者もいる。
信頼ではなく、必要と疑いの混ざった沈黙。
それでも、今の組織にはその沈黙を形にする必要があった。
承認の前に、ルカが数字を読んだ。
生存確認五十八。
そのうち、元の仕事に戻れる者は三十四。
重傷者七。
行方不明二十六。
死者は、確認できた者だけで百八十を超えた。
正確な総数はまだ出ない。
行方不明の欄に母の名がある限り、俺は数字の最後に点を打てなかった。
それでも読む。
六分の一は、合言葉ではない。
食費と薬代をかけ算するための現実だった。
俺は一歩前へ出た。
手には父の指輪。
はめない。
まだ指には大きすぎる。
「俺は父の代わりにはなれません」
最初にそう言った。
礼拝堂の空気が揺れる。
「父は俺を愛してくれた。熱を出した三歳の俺のそばにいた。食べ物で遊んで母に叱られた。
俺に、困っていい、助けを呼んでいいと言った」
父の優しい顔を口にすると、喉が詰まる。
でも、そこだけで止めない。
「同じ父が、人を恐れさせ、傷つけ、黙らせた。
その金で俺たちは飯を配り、薬を買い、孤児の靴を買った。
父の愛は本物です。父の罪も本物です。俺は片方だけを継がない」
ブルーノの顔が強張る。
未亡人の一人が小さく頷く。
ルカは目を伏せ、リーナは母の台帳を抱きしめていた。
「灰冠の規律を定めます」
ルカが紙を広げる。
これは法律ではない。
それでも、俺たちの内側で人を止める線になる。
「一つ。復讐の独断行動を禁じる。
敵の確認、幹部会の承認、被害を受ける家への補償見込みなしに動いた者は、身内でも処分する」
ブルーノの目が俺へ刺さる。
俺は逸らさない。
「二つ。遺族扶助、薬代、共同炊事場、子供の学費を最優先支出とする。
幹部の取り分は、これらの遅配がない月まで戻さない」
荷役の男たちがざわつく。
幹部だけでなく、現場の小さな取り分も薄くなる。
いい話ではない。
誰かが我慢する話だ。
「三つ。診療所、患者、子供、学校、共同炊事場を、徴収と報復の場にしない。
情報を取るために弱い者の名を使わない」
リーナが少し息を吸う。
カルロが後ろで目を伏せた。
「四つ。暴力を使った場合、理由と結果、負傷者、生活費の止まる家を記録する。
正しかったと言う前に、誰が払ったかを書く」
父の帳簿。
母の台帳。
その両方を一つにする。
「五つ。紙を軽んじない。
名簿、保険、巡回表、警備認可、凍結通知。
銃より先に来るものを見落とした者は、地位に関係なく責任を負う」
ルカの指が震えた。
彼は自分の対応遅れを今も責めている。
俺は彼を見る。
「責任は、一人に押しつけるためではなく、次にこぼす人を減らすために使う」
ルカは深く頭を下げた。
「六つ。白灯符丁を不可侵とする。
母の医療網は、ベランディの命令で汚さない。白灯の下に来た者は、敵家の人間でも傷を見せられる」
この規律に、一番強いざわめきが起きた。
敵家の人間でも。
「白灯を使って隠れる敵が出たら」
カルメロが聞いた。
「出ます」
俺は答えた。
礼拝堂が少しざわつく。
「それでも、白灯の場で傷を手当てする者を罰しない。
必要なら、外に出た後で責任を問う。
診療所の中で権力を振るえば、母の場所は終わります」
これは甘い。
そう思う者がいるだろう。
俺自身、怖い。
だが、恐れで白灯を潰せば、母が残した一番強い網を俺の手で切ることになる。
「七つ。カヴァッロ同盟を、単独の仇として扱わない」
礼拝堂が静まった。
初めて、その名をはっきり言った。
「馬の印、企業警備、巡回表、偽警官章、ラゴ商会、法律顧問。まだ断片だけです。
顔のない利害の束を、一人の悪役にして斬った気になるな。
だが、顔がないから責任がないわけでもない。紙と金と名を追う」
ブルーノが低く言う。
「血は」
「血を忘れない」
俺は答えた。
「でも、血だけを追わない」
長い沈黙。
やがて、マルコが膝をついた。
父へする礼とは違う。
俺を守るためではなく、俺の命令を外へ通すための礼。
「相談役代理として、承ります」
ルカが続いた。
「会計として、承ります」
彼の声は細いが、折れていなかった。
リーナが母の台帳を胸に、頭を下げる。
「診療所として、記録します」
テオが少し遅れて膝をついた。
「護衛班として、ええと、承ります」
誰かが小さく笑った。
笑いはすぐ消えたが、空気が少しだけ呼吸を取り戻した。
最後に、ブルーノが膝をついた。
浅くはない。
父へする礼と同じ深さでもない。
その中間。
「現場統制として、承ります」
彼の声には、まだ復讐が残っている。
消えないだろう。
消えないものを、規律の中へ置く。
それが今の俺にできることだった。
役割も、この場で決めた。
マルコは相談役代理。
俺を守るだけでなく、俺の命令が逃げや怒りになっていないか止める役。
ルカは会計。
ただし、母の台帳と別に、扶助と補償を二人以上で確認する。
ブルーノは現場統制。
現場を担う復讐派を抱えたまま、それを止め、管理する責任を負う。
テオは護衛班。
肩書きを聞いた彼は、また腹が減る仕事ですかと小さく言い、マルコに睨まれて黙った。
リーナは診療所の記録係。
幹部ではない。
だが、彼女が台帳を閉じれば、俺たちの規律は半分死ぬ。
マルコが小さな革紐を差し出した。
父の指輪を通すためのものだ。
「はめないのですか」
「まだ入らない」
俺は答えた。
「それに、今は父と同じ手を作るための輪にしたくない」
指輪を革紐に通し、首に掛ける。
冷たい銀が胸骨に触れた。
心臓の少し上。
重い。
重くていい。
軽く感じる日が来たら、たぶん危ない。
礼拝堂の扉が開き、春の風が入った。
港の匂いがする。
魚、煙、雨上がりの石畳、遠い汽笛。
父が愛し、支配し、傷つけ、守った街の匂い。
母が白い手で傷を洗った街の匂い。
俺はその匂いの中で、最初の誓いを口にした。
「継がないために継ぐ」
誰かが息を呑んだ。
俺は続ける。
「父の愛を言い訳にしない。父の罪から目を逸らさない。
母の台帳を飾りにしない。灰の中で生きている者を先に動かす」
誕生日の鐘は鳴らなかった。
代わりに、礼拝堂の外で共同炊事場の鍋を叩く音がした。
昼の合図だ。
仮のドンとして最初に向かう場所は、玉座ではなく、薄い豆粥を配る列だった。
父の指輪は革紐に通し、胸元へ。
仮のドンが最初に向かったのは、玉座ではなく、薄い豆粥を配る列。
「継がないために継ぐ」
その覚悟を持って。
--
第4章「灰の戴冠」は、ここまで。
評価、コメントはページ下部よりお気軽に。
作者の励みになります。




