↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
27/98

第25話 灰を分ける



春の風が少し柔らかくなっても、ヴァレノの旧移民街には喪章が残っていた。


黒い布を袖に縫いつけた女。


父の帽子を抱く子供。


働けない腕を吊った男。


彼らが隠れ家の上の広間に集まる。


今日は弔慰金を配る日だった。


弔慰金。


言葉にすると、きれいに見える。


実際には、薄い封筒だ。


中身は足りない。


封筒の厚みで、広間の空気が変わる。


受け取る前から足りないとわかる厚み。


それでも受け取らなければ、明日のパン屋で何も言えない厚み。


どれだけ数えても、人一人の代わりにはならない。


父の命にも、パオロの腕にも、ベンノの毎朝の帽子にも、ロザの焼くパンにも、値段などつけられない。


だが、家賃には期限がある。

粉屋は粉をただでは渡さない。

薬草商は善意だけで店を開け続けられない。


だから、足りないと知りながら封筒を作る。


ルカは三晩眠っていない顔で、机の端に座っていた。


「死者の家へ一律では足りません」


彼は朝、そう言った。


「子供の数、働ける大人の有無、家賃、薬代で差をつけるべきです」


「差をつければ、争いになる」


ブルーノが言う。


「同じ死に値段の差をつけるのかと」


彼の声にも理屈があった。


同じ棺に違う金額を入れれば、死者への敬意が削られたと感じる家がある。


だが、同じ額にすれば、赤ん坊を三人抱えた未亡人と、

働ける兄弟のいる家が同じ封筒を持つことになる。


公平は、時々、生活を見ない。


「遺灰は同じに分けます」


俺は言った。


「金は生活で分けます」


ブルーノが俺を見た。


「反発しますぜ」


「受けます」


受けられるかどうかはわからない。


でも、受けると言わなければ、机の向こうの人たちは言葉の置き場を失う。


母の台帳を開く。


名前の横には、母の字で細かな生活が書かれている。


顔があると、手が止まる。


それでも顔から逃げてはいけない。



父の遺灰は、小さな陶器の壺に分けた。


ベランディ家の当主としての壺。

夫として、母の部屋へ置くはずだった壺。

そして、港の礼拝堂に残す壺。


母の部屋はまだ封鎖されている。


だから二つ目の壺は、俺の前に置かれていた。


母が戻った時に渡すためだ、とルカは言った。

戻るという言葉を誰も訂正しなかった。


死者の灰ですら、置き場所を決めなければ、残った者の争いになる。


広間の最初に呼んだのは、パオロの妻だった。


祭りの日に母を庇い、二か月後の襲撃で戻らなかった男。


彼女は双子の手を握っている。


「奥様の台帳に、豆が嫌いとありました」


俺が言うと、彼女は口元を押さえた。


「あの人、そんなことまで」


「食堂には、しばらく麦粥を増やさせます。家賃は三か月分。

パオロさんの腕の補償は、死後の弔慰とは別に処理します」


「腕?」


「祭りの日に負った分です。あの時から、働ける量が減っていた」


父と母を助けたことで、彼の家はすでに収入を失っていた。


彼女は封筒を受け取った。


深く頭を下げない。


俺はそれでいいと思った。



次はベンノの妻。


粉屋で足を痛めた女。


息子は板書石を握っていた。


「学校は続けます」


俺が言うと、彼女は首を振った。


「働かせます」


「続けます」


少し強い声になった。


「あなたが働けるようになるまで、食堂の手伝いはこちらで手配します。字は続けれるようにする」


父が五歳の俺に言った。


子供が字を読めない街は、契約で必ず負ける。



ロザの姪には、パン代と住む部屋の確認。


南埠頭の夜番の母には、薬代。


重傷で働けないサロには、弔慰ではなく休業補填。


カルロの名も呼んだ。


広間が少しざわつく。


彼は死んでいない。


しかも、ブルーノに傷つけられた負債者だ。


「カルロは働けません」


俺は言った。


「妹のリーナを保証に使わせない書面は継続します。食費は扶助台帳に入れる」


ブルーノは黙っていた。


彼の取り分を削って、その金を入れている。


彼は黙り続けた。



昼過ぎ、不満が噴き出した。


「うちは少ない」


年配の男が封筒を握りしめて言った。


甥を失った家だ。甥には妻子がいない。


だが、その男自身も腰を痛め、甥の稼ぎに頼っていた。


台帳にそこまでの記載はなかった。


母も全部は見られない。


「足します」


ルカがすぐ書き加える。


「確認します」


俺は付け加えた。


男の顔が赤くなる。


「疑うのか」


「確認します。疑いではなく、次の人にも同じようにするためです」


マルコの授業を思い出す。


信用しないのと、確認するのは違う。


ここで確認を省けば、この男だけを特別扱いすることになる。

確認を責める声で言えば、彼の困窮を嘘扱いすることになる。


どちらも違う。


俺はリーナへ向いた。


「白灯の先生に、この家の薬代と腰の状態を見てもらってください。

ルカは家賃の支払先を確認。今日の分は仮払い」


男はしばらく俺を睨み、それから小さく頭を下げた。


感謝ではない。

納得でもない。


でも、怒りで場が割れることは避けられた。


男は怒りの置き場を失い、今度は俺を睨んだ。


「若様は、装飾品を売ると聞きました。本当ですか」


「はい」


俺は答えた。


「俺の誕生日の銀細工、母の許可なく売れない物を除く宝飾、父の私財。

すべて弔慰と食費へ回します」


広間が揺れた。


ブルーノが顔を上げる。


「旦那様の物を」


「父の物だからです」


声が震えた。


父の懐中時計。

礼服の飾り釦。

俺が幼い頃に抱かれた椅子。


売れば戻らない。


だが、保管して眺めるために生き残ったわけではない。


「父の指輪は売りません。家の印だから。

母の鍵も売りません。診療所の機能だから。

それ以外は、死者の家賃より重いとは思わない」


ブルーノは何か言おうとした。


その時、パオロの妻が封筒を胸に抱いたまま、静かに言った。


「うちの人は、旦那様の時計より双子の靴を選ぶと思います」



夕方までに、用意した現金はほとんど消えた。


残ったのは、再計算の山と、足りない欄ばかりの紙。


弔慰金を配れば感謝されると思っていたわけではない。


それでも、封筒を渡すたび、俺は少しずつ削られた。


ありがとうと言う人もいる。

足りないと言う人もいる。

顔を見ない人もいる。


全部、正しい。


共同体を守ると言うなら、共同体に裁かれる時間も引き受けなければならない。


最後の封筒を片づけている時、テオが妙な紙片を見つけた。


「兄ちゃん、これ」


弔慰金袋の一つに紛れ込んでいたらしい。


薄い銀色の箔が、端に貼られている。


刻印は不鮮明だった。


だが、俺は見覚えがあった。


市場で見た偽の警官章。


診療所を封じた制服。


同じ軽い光。


紙片の裏には、馬の頭のような印が押されていた。


カヴァッロ。


顔のない相手が、弔慰金の袋にまで紙を混ぜてくる。


これは脅しなのか。


監視なのか。


それとも、誰かが内側から知らせたのか。


まだわからない。


「袋を作った者を責めるな」


俺は先に言った。


ルカが顔を上げる。


「しかし、混入した経路を」


「調べる。だが、袋詰めをした未亡人たちを並べて疑うな。

彼女たちは昨日まで弔慰を受ける側だった。今日は配る側に回ってくれた」


敵はそこを狙ったのかもしれない。


疑いが共同体の内側を裂くことを、紙片一枚でできると知っている。


カヴァッロが顔のない同盟なら、俺たちの顔同士を疑わせることは、銃より安い攻撃になる。


「確認と不信を分けます」


俺は自分に言い聞かせるように言った。


「それも、灰冠の規律に入れる」


ルカは紙片を別封筒へ入れ、封をした。


「証拠として残します」


「証拠は人を守るために使います。誰かを黙らせるためではなく」


言いながら、その区別がいつも保てるとは思えなかった。


だから記録する。


俺自身を疑うためにも。


ブルーノが紙片を見て、低く笑った。


「ほらな。向こうは弔いの日にも遊びに来る」


「遊びではない」


俺は紙片を布に包んだ。


「向こうにとっても、これは仕事です。保険、警備、名簿、弔慰金。人の死を紙の動きに変える仕事」


俺は窓の外を見た。


春の夕暮れに、港の煙が灰色に伸びている。


今日、俺たちは灰を分けた。


公平ではなかった。

十分でもなかった。


ただ、争いを少し先へ延ばし、明日のパンを少しだけ残した。


それが今のベランディにできる、精一杯の弔いだった。


十分でも、公平でもない弔慰金。

袋を作ったのは、昨日まで受け取る側だった未亡人たち。


--

評価、コメントはページ下部よりお気軽に。

作者の励みになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。