第21話 六分の一
六分の一。
ルカが最初にその数字を言った時、俺は意味を理解できなかった。
隠れ家の地下は、湿った石と古い酒の匂いがした。
元は船員宿の倉庫で、今は窓のない部屋に毛布と水樽と簡易寝台が並んでいる。
誰かが祈り、誰かが呻き、誰かが名前を呼び続けていた。
俺は壁際に座っていた。
父の指輪を、まだ握っている。
指は固まって、開こうとすると痛んだ。
「若様」
ルカ・モレッティの声は掠れていた。
彼の眼鏡は片側にひびが入り、袖には煤ではなく紙の灰がついていた。
会計室から持ち出せた帳簿は二冊だけだという。
「聞いてください」
「聞いています」
自分の声が遠い。
俺の口から出ているのに、別の部屋から聞こえるようだった。
眠っていないせいだけではない。
父が死んだと知ってから、俺の身体は少し遅れて動いていた。
誰かが水を差し出せば受け取る。
名前を聞かれれば答える。
指輪を握れと言われれば握る。
自分の意思でしているのか、残った人たちに形を保たされているのか、わからない。
ただ、地下の隅で泣く子供の声だけが、妙にはっきり聞こえた。
その子は泣き疲れて眠り、起きるたび父親を探す。
人は、悲劇の主人公として泣き続けられるわけではない。
喉が渇き、腹が鳴り、毛布から足が出る。
死の翌朝にも、生活は容赦なく始まる。
ルカは名簿を広げた。
紙の端が濡れている。水か、血か、涙かはわからない。
「直系の構成員、協力者、屋敷勤め、南埠頭の常雇い、診療所の常勤手伝い。
重複を除いて、昨夜時点で三百十二名」
三百十二。
数字は人を隠す。
会計室でルカが言った。
今、その隠れた人たちが、一斉に紙の裏からこちらを見ている気がした。
「所在確認済みの生存者、五十一名。重傷八名。軽傷十九名。
逃走中または隠れている可能性のある者は、まだいます」
「なら、六分の一ではない」
俺は反射的に言った。
ルカは目を伏せた。
「希望を込めても、六分の一を少し超える程度です」
地下の空気が重くなる。
ブルーノが壁を殴った。
大きな音に、毛布の中の子供が泣き出す。
リーナがすぐ抱き寄せた。
その子は門番ベンノの息子だった。
父親は戻っていない。
母親は粉屋から帰る途中で足を怪我し、上の部屋で横になっている。
その子の明日のパンは誰が買うのか。
学校の板書石は。
冬の靴は。
六分の一という数字は、そういう問いをまとめて押しつけてくる。
「旦那様は」
ルカが言いかけて、言葉を止めた。
誰も父を旦那様と呼んでいいのか、迷っていた。
死んだ人に現在形を使うと、嘘になる。
過去形にすると、もう戻らないことが確定する。
「父は死んだ」
俺が言った。
言葉にした瞬間、地下のどこかで誰かが息を呑んだ。
俺も息が止まりそうになった。
「確認は取れているんですね」
「はい」
マルコが答えた。
左腕には母ではない誰かが巻いた包帯がある。
雑だ。血が滲んでいる。母なら巻き直しただろう。
母はいない。
「奥様は」
「診療所裏口で最後に目撃。白い外套。
患者二名を裏手へ誘導していたという証言があります。その後、不明」
不明。
死ではない。
生でもない。
一番、心を裂く言葉だった。
「探しに行く」
俺が立ち上がりかけると、マルコが前に出た。
「駄目です」
「母さんだ」
「だからです」
彼の声は硬い。
愛情が命令にしかならない男の声。
「今、坊ちゃんが外へ出れば、残った者が動きます。
奥様を探す者ではなく、坊ちゃんを守る者として死にます」
「俺は」
言い返せなかった。
俺は母を探したい。
父の死を確認した場所へ戻りたい。
南埠頭へ走り、奪われた荷と消えた名簿を見たい。
その全部が、俺の自己満足かもしれない。
ブルーノが低く言った。
「若様。探すには敵を叩くのが一番早い」
彼の目は赤かった。
泣いたのか、眠っていないのか、怒りで血走っているのか。
「屋敷をやった連中、診療所を塞いだ連中、南埠頭の荷を奪った連中。
顔はなくても腕はある。まず腕を折る」
まずの後、何をどうするのか、彼は言わない。
言わないことが、この場の最後の理性だった。
「戦える人数は」
俺は聞いた。
ブルーノの口が止まる。
ルカが代わりに答えた。
「動ける者は二十七名。そのうち銃を持てる者は十二名。ただし、負傷を隠している者を含みます」
「相手は」
「不明です。企業警備証、偽警官章、港湾庁の巡回表、
ラゴ商会の倉庫印、南の密輸屋の噂。どれも一部です」
ルカは紙を押さえた。
「それと、資産凍結です」
地下がまた静まった。
「何を」
「合法倉庫会社の口座。食堂会社の運転資金。扶助用の表口座。
港湾庁の調査協力という名目で、一時停止されています」
「凍結の解除は」
「早くて数週間。名義人の死亡確認、相続、捜査協力、港湾庁の照会。すべてが必要です」
ルカは紙をめくった。
「しかも、旦那様名義の私財は差押え対象になる可能性があります。
違法収益と合法収益の混在を突かれれば、争うだけで金が消える」
父の椅子、母の診療所、俺の誕生日に贈られた銀細工。
思い出が、捜査対象と換金価値に変わっていく。
それもまた、近代の紙の力だった。
「誰が」
「中央捜査局と港湾庁の連名です」
正しい形。
印紙。
署名。
昨夜、人を殺した手とは別の手が、朝には金を止める。
銃声より先に紙が世界を動かす。
会計室でそう思った。
今は、紙が血の後始末まで奪っていく。
「扶助金は」
「手元の現金は三日分。共同炊事場の食材は、南埠頭の荷が奪われたため二日分。
薬は診療所の在庫次第ですが、建物に入れません」
ルカの声は、会計の声だった。
人を隠す数字。
だが、彼の手は震えている。
「孤児は」
「屋敷勤めの子を含めて十九名増える見込みです。
未亡人、または主な稼ぎ手を失った家が三十八。重傷者の家が八。
パオロのように働けない期間の補填が必要な者を入れると、さらに」
「診療所の患者は」
リーナが答えた。
「昨日いた人のうち、ここへ来られたのは七人です。老人二人は教会に移しました。
赤ん坊の母親は、薬を持たずに逃げています。
奥様の薬棚が取れないと、熱が戻るかもしれません」
「薬草商は」
「いつもの人は、今朝から店を開けていません。家族ごと、親戚の家へ移ったと」
移った。
逃げた、とは誰も言わない。
逃げることは恥ではない。
だが、薬草商が逃げれば薬が止まる。
彼にも子がいる。
「パオロは」
俺が聞くと、ルカは黙った。
その沈黙だけで足りた。
祭りの日に母を庇い、腕を吊りながらも軽い荷を運んだ男。
妻と双子。
名前がまた一つ、数字の裏から落ちてくる。
「奥様なら」
リーナが小さく言った。
皆が彼女を見る。
彼女は水差しを抱え、唇を噛んでいた。
兄のカルロはまだ包帯を巻いている。
ブルーノに傷つけられ、それでも今は生存者の水を運んでいる。
「奥様なら、名前で読みます。
パオロさんの双子は、豆が嫌いです。
ベンノさんの子は、字の練習を始めたばかりです。
ロザさんは姪にパンを持たせてました」
彼女の声は震えた。
「数字だけにしたら、怒ります」
母の顔が浮かぶ。
会計室へ怒鳴り込む母。
診療所でブルーノへ当然ですと言う母。
見せしめにされた側も誰かの家族だと、逃がさない母。
母はいない。
でも、怒る声は残っている。
「名を読みます」
俺は言った。
「全員。死者、行方不明、重傷者、生活費が止まる家。別々に」
「読み上げれば、泣く者が増えます」
カルメロが言った。
老いた荷役頭の声は枯れていた。
「読まなければ、消えます」
俺は答えた。
ブルーノの弟の名を、父は消さなかった。
母は患者の負傷だけでなく、働けない日数と食費を書いた。
今、俺が名を省けば、父と母のどちらからも逃げることになる。
ブルーノが苛立つ。
「今は弔いより血だ」
「血を選ぶ金がない」
自分の声が、思ったより冷たかった。
皆がこちらを見る。
俺は続けた。
「人もいない。敵の顔もない。今、報復に出れば、残った六分の一からまた削るだけです」
「それで旦那様を殺されて黙るのか」
ブルーノの声が低くなる。
彼の怒りは、父への忠義から来ている。
過去に弟の名を消された男の怒りでもある。
その怒りがどこから来たのかは見える。
許せるかは別だ。
「黙るとは言っていない」
俺は父の指輪を開いた掌に置いた。
大きすぎる。
俺の指には入らない。
「でも、最初に数える」
父が教えた。
守ると言うなら、誰がその代金を払ったか数えろ。
母が教えた。
痛みを記録しろ。責任から逃がすな。
今、その二つが同じ場所で俺を見ている。
地下にいる全員の視線が、指輪へ集まった。
救われた者も、怯えた者も口づけした輪。
今は、十五歳の俺の掌にある。
誰もまだ、俺をドンとは呼ばなかった。
呼ばないまま、全員が俺の次の言葉を待っていた。
残ったのは六分の一。
地下では、ルカの帳簿とリーナの記憶を頼りに、死者、行方不明者、重傷者を一人ずつ読み上げる。
指輪はまだ、レオーネの掌の上。
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