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第20話 炎のない襲撃



屋敷は燃えなかった。


燃えなかったからこそ、殺す相手を選んでいるとわかった。


俺たちが裏門へ着いた時、ベランディの屋敷はまだ冬の朝の色をしていた。


白い壁。黒い門。濡れた石畳。煙突から上がる細い煙。


炎はない。


崩れた壁もない。


ただ、門番のベンノがいなかった。


毎朝、寒い寒いと文句を言いながら、俺に帽子を脱いで見せる男だ。


妻が粉屋で働き、息子が学校で字を覚え始めたと、先週嬉しそうに言っていた。


その場所に、知らない企業警備員が立っていた。


胸には認可章。


腰には黒い警棒。


地元警察でも中央警察でもない制服の男が二人。


薄い銀の警官章が、冬の光を受けて冷たく光っている。


「旦那様の命令で、臨時確認だ」


男の一人が言った。


父の名を使った。


その瞬間、胸の奥で何かが冷えた。


マルコは答えない。


俺の肩を押し、塀の影へ下げる。


テオが息を呑む音がした。


「若様」


彼は小声で言った。


「門の内側、いつもの人が一人もいません」


屋敷には人がいるはずだった。


厨房のロザ。

洗濯係の姉妹。

父の書記。

母の薬箱を積む少年。


それぞれに朝の動きがある。


今日は、その動きが切られている。


「坊ちゃん」


マルコの声が低い。


「夏の訓練を覚えていますか」


覚えている。


入る前に出る道を見る。

座る前に立つ場所を見る。

残ることが勇気になる時も、迷惑になる時もある。


「逃げます」


口に出すと、胃がねじれた。


逃げるという言葉は、前世の俺には敗北の響きだった。


学校から逃げ、親の期待から逃げ、最後には生きることからも逃げた。

そういう記憶が、喉の奥にこびりついている。


けれどマルコは、逃げる道を恥ではないと教えた。


誰かを生かすために逃げる。


父と母が中にいるかもしれない。


だが俺は逃げる。


その順番が、正しいのかどうか、身体が拒んでいる。


「まだ逃げない」


マルコはそう言った。


「奥へ入らず、旦那様の位置を確かめます」


彼の判断は速かった。


だが、俺に手順を教えたことはない。


それでいい。



屋敷の内側から、父の声が聞こえた。


「レオーネを入れるな」


怒鳴り声ではない。


命令の声。


十五年、俺が食卓で聞いた父の声とは違う。

それでも、俺へ向けられた部分だけは、いつもの父だった。


叫びかけた口を、マルコの手が塞いだ。


その手は震えていなかった。


震えていたのは俺だけだ。


塀の向こうで、短い音がいくつか続いた。


銃声だとわかる。


そこにあったのは、使用人の悲鳴と、割れる薬瓶と、誰かが母を呼ぶ声だった。


「診療所は」


俺はマルコの手を外して言った。


「奥様の側にも人を出しています」


「足りない」


「全部には足りません」


マルコは俺を見た。


その目に、謝罪はなかった。


謝罪よりひどいものがあった。


事実だ。


俺たちには足りない。



南埠頭では同じ時刻、荷が奪われていると聞いた。


火をつけるのではなく、保険の対象になる荷とならない荷を選び、

登録から落とされた班の名を使って責任を曖昧にする。


診療所では患者ごと封鎖し、薬箱の搬入を止める。

屋敷では通信を切り、父の退路を紙の権力で塞ぐ。


これは一人の憎しみではない。


机の上で重ねられた利害の帰結だ。


それでも、痛むのは一人ずつの身体だった。



診療所では、リーナが後に証言した。


白い馬車から降りた者たちは、患者の名を呼んだという。


名簿に載っている順番で。


熱を出した赤ん坊の母。

膝の痛む老人。

カルロの妹。


助けに来た顔で名を読み、確認のためだと言って戸口を塞ぐ。


診療所の中で何が起きたかを、俺は詳しく聞かなかった。


聞いたリーナが、しばらく水を飲めなくなったからだ。



門の方で企業警備員が崩れた。


父の部下か、屋敷の中の誰かが押し返したのだろう。


俺は見なかった。見ようとすると、マルコが肩を引く。


「今です」


塀の内側から、小さな包みが滑り出てきた。


父の手袋だった。


中に、何か硬いものがある。


マルコが拾い、俺へ押しつけた。


灰冠の指輪。


八歳の誕生日の夜に鉄の匂いを覚え、父と衝突した夜に警告として掌に置かれた輪。


今度は、扉の下から戻ってきた。


父の体温はもうなかった。


「レオーネ」


塀の向こうから、父の声。


近いのに、遠い。


「生きろ」


それは願いでもある、命令だった。


俺は父へ返事をしようとした。


できなかった。


マルコが俺を抱えるように引いた。


「嫌だ」


十五歳にもなって、子供みたいな声が出た。


「父さんが」


「坊ちゃん」


マルコの腕が硬くなる。


「死ねば守れる、という考えは捨ててください」


倉庫の訓練場。

夏の夕方。

銃の重さ。


あの時の言葉が、最悪の形で戻ってきた。


俺は残りたかった。


残れば父を助けられるわけではない。


残ればマルコもテオも俺を守ろうとして死ぬ。


わかっている。

わかっているのに、足が屋敷へ向かおうとする。


テオが俺の反対側の腕を掴んだ。


「兄ちゃん」


彼の声は震えていた。


「俺の母ちゃん、奥様に救われたんです。だから、俺も生きて返さなきゃ顔向けできない」


顔向け。

誰へ。


母へ。

父へ。

死んだ人へ。

まだ死んでいない人へ。


俺は指輪を握った。


掌に食い込む。

痛い。


その痛みだけを目印に、俺は走った。


途中で、診療所の方角から白い煙が上がっているのが見えた。


火事の黒煙ではない。


薬品か、石灰か、寒い空気に広がる粉のような煙。


俺は、ただ母の白い帽子を探した。


見つからなかった。



南埠頭からは、荷役たちの怒声が聞こえた。


それも遠くなった。


小麦粉。

安い綿布。

食堂会社の帳票。

港湾保険の控え。


高価な荷も一部は消えた。

だが、本当に効いたのは、明日から人を食べさせ、治療し、合法に働かせるための紙と物だった。


「マルコ」


俺は何度も言った。


「父さんを」


マルコは答えなかった。


彼の左腕から血が滴っていることに、俺は途中まで気づかなかった。

気づいた時には、彼はいつもと同じ顔で歩いていた。


「痛いなら痛いと言え」


母の声を思い出して、俺は言った。


マルコは少しだけ目を伏せた。


「痛いです」


それだけだった。



隠れ家は、かつて船員宿だった建物の地下にあった。


入ると、すでに何人かがいた。


厨房のロザはいない。

門番のベンノもいない。

荷役頭は額に血を滲ませていた。


リーナは患者の名を震える声で数えていた。

カルロは彼女の横で、自分の包帯を押さえながら水を運んでいた。


誰も勝った顔をしていない。

誰も英雄の顔をしていない。


ただ、逃げ延びた顔だった。



夜になって、父の死が伝わった。


マルコは一度だけ、父が最後まで俺の名を出さなかったと言った。


命令に俺の名を混ぜれば、部下が俺を探して戻る。


戻れば、死ぬ。


だから父は、退路と扉と患者と書類の名だけを命じたらしい。


誰が見届けたのか。


どんな最後だったのか。


俺は聞かなかった。


聞けば父の死を一つの場面にしてしまう気がした。


父は、俺の額に頬を当てた人だった。

母にパンで叱られた人だった。

カルロの包帯を残ると言った人だった。

人を恐れさせ、傷つけたドンでもあった。


その全部を、短い死にまとめてしまうことはできない。



母は行方不明だった。


診療所裏口で、白い外套の女を見た者がいる。


母かもしれない。

別人かもしれない。


白い馬車に乗せられたのか、自分で患者を逃がしたのか、誰にもわからない。


確かなことは、診療所の長椅子に残された薬箱が空で、母の手袋だけが片方見つかったことだった。


俺は父の指輪を握ったまま、地下の壁にもたれた。


泣けなかった。


泣けば、父だけを失ったことになる。


今夜、失われたのは父だけではない。


ベンノの息子の授業料。

ロザが毎週、姪へ持たせていたパン。

南埠頭の夜番の冬の賃金。

診療所の薬を待つ老人の膝。

母の声。


名前を数えきれないものが、炎もないまま奪われた。


指輪は掌の中で冷たかった。


父の最後の命令だけが、まだ熱を持っていた。


生きろ。


屋敷は燃えなかった。

地下へ逃げ延びた者たちの手元に残ったのは、片方の白い手袋と、父の指輪。

「生きろ」。


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