第19話 静けさ
4章 灰の戴冠
第七倉庫のことを父に報告した夜から、二か月が過ぎていた。
暦は冬に入ったばかりで、ヴァレノの海は鉛色だった。
南埠頭の石畳には霜が薄く残り、荷車の車輪が通るたび白い粉みたいに砕ける。
魚市場の声はいつもより低く、息は白い。
俺はマルコとテオを連れて、荷役詰所の前に立っていた。
寒いから人が少ない。
最初はそう思いたかった。
けれど、欠け方が寒さのものではなかった。
「パオロの班は」
「三人欠勤です」
テオが小さな手帳を見る。
字を読むのが苦手だと言っていたが、マルコに叩き込まれてから、必要な名だけは読めるようになった。
「ミケーレは母親の病気。
サロは港湾庁の講習。
アントンは資格更新の呼び出し。あと、夜番の二人が来てません」
「理由がばらばらだな」
「ばらばらに見えるようにしたみたいで、気持ち悪いです」
テオの軽口が出ない。
そのことの方が、欠勤表より不穏だった。
欠勤の理由は、どれも責めにくい形をしていた。
病気の母親。
役所の講習。
資格更新。
子供の熱。
一つずつなら、むしろ正しい。
働く者の登録を更新し、病人を看取り、子供を医者へ連れていく。
それを疑えば、俺たちの方が人でなしになる。
だが、名簿から一度消された者ばかりに、同じ朝、責めにくい理由が重なる。
紙の上で人を消す手は、今度は生活の事情まで盾にしている。
「ミケーレの母親は、本当に悪いのか」
「昨日、診療所で薬を受け取っています。嘘ではありません」
テオは唇を噛んだ。
「でも、薬を届けたのはいつもの薬草商じゃなくて、港湾庁の認可票を持った新しい業者です」
認可票。
正しい札。
また、それだ。
パオロは祭りの日、母を庇って腕を撃たれた荷役だ。
今は軽い荷しか担げない。それでも、妻と双子のために毎朝詰所へ来る。
来られない日は、必ず診療所か酒場へ伝言を置く男だった。
今日は伝言がない。
詰所の壁には、港湾庁の新しい告知が貼られていた。
巡回予定の変更。
企業警備員との合同確認。
未登録者の埠頭立入制限。
さらに下には、保険対象荷の優先積み出しとある。
保険対象。
その文字を見た瞬間、ルカの会計室の匂いが戻った。
保険の通る荷は守られ、通らない荷は後回しになる。
通らない荷の中には、共同炊事場の豆袋や、診療所へ回す安い包帯が混じる。
高価な絹布は守られ、老人の膝に巻く布は倉庫で待たされる。
それは誰か一人が悪意で決めた順番ではない。
保険料、荷主の信用、登録番号、認可票。
紙面だけを読めば、どれも正しい。
事故を防ぐため。盗難を防ぐため。荷主の保険を通すため。
だが、その正しさが同じ朝に重なると、南埠頭からベランディの目と足だけが薄く削られていく。
「電話は」
マルコが詰所の黒い電話機を見た。
荷役頭が受話器を上げる。耳に当て、すぐ眉を寄せた。
「また雑音です。会計室へつながりません」
「診療所は」
「朝は一度つながりました。奥様が、薬箱の搬入が遅いと」
母の名が出ると、胸が少し緩んだ。
緩んだ自分を、すぐ叱る。
つながったのは朝だけだ。
今はわからない。
港では電話線がよく湿気で機嫌を損ねる。馬車が柱にぶつけることもある。
子供が石を投げて碍子を割ることもある。
だから通信不良ひとつで大騒ぎすれば、古参は若造が怯えたと言う。
実際、ブルーノはそう言った。
「冬の朝に欠勤が出て、電話が鳴らねえ。昔からある話ですぜ、若様」
彼は詰所の入口に立っていた。
厚い外套を着ても、肩の大きさは隠れない。
「昔からある欠勤は、共同炊事場の搬入班と診療所の薬箱係と夜番を同じ日に抜きません」
俺が言うと、ブルーノの片眉が上がった。
「言い切りますか」
「言い切りたくはない」
本当は、言い切るのが怖い。
当たれば港が危ない。
外れれば、俺は不安に名をつけて人を動かしたことになる。
働けない男の家へ確認に走らせ、少ない人手をさらに薄くする。
それでも、母の診療所の薬箱係が欠けている。
そこだけで、俺には十分すぎた。
「確認を増やします。診療所、共同炊事場、夜番の家。行方がわかるまで二人一組で」
「旦那様の許可は」
「あとで取る」
自分で言って、喉が乾いた。
父の名を待たずに命じる。
たったそれだけで、俺の中の十五歳が震える。
父に褒められたい子供と、父に止めてほしい後継見習いが、同時に息を詰めた。
マルコは反対しなかった。
「二人一組。走らない。戻る時刻を決める」
彼の声で、周囲の男たちが動き始める。
ブルーノは不満そうだったが、止めなかった。
「若様」
詰所の外から、焼き栗屋の少年が顔を出した。
秋に匿名の名簿写しを運んできたのと同じ少年だ。寒さで鼻が赤い。
マルコの目が鋭くなる。
少年は怯え、両手を上げた。
「届け物です。俺、中は見てません」
小さな紙片だった。
封もない。
ただ、折り目の内側に三つの点があった。
干し杏三つ。
ソフィア。
胸の奥が、嫌な形に縮んだ。
紙には短い文だけが書かれていた。
-今夜、鐘楼で。港湾庁の巡回表を信じないで。
会いたい、とは書かれていない。
それでも、会いたいという伝言だとわかった。
文字の角が少し乱れていた。
ソフィアの字は、劇場街の招待状みたいに整っている。
しかし、今朝の紙は違う。
急いだのか。
誰かの目を避けたのか。
それとも、俺がそう読んで、彼女を信じたいだけなのか。
ソフィアは全部を言わない。
俺も全部は信じられない。
けれど、彼女が何もない日にこんな紙を出す女ではないことも知っていた。
「誰から受け取った」
マルコが聞く。
少年は首を振る。
「知らない女の人です。劇場街の匂いがしました」
香水のことだろう。
ブルーノが紙片を睨んだ。
「オルシーニの娘ですか」
「断定はできない」
「若様はそう言う。だが向こうは、こちらの名前を断定して削ってきている」
返せなかった。
オルシーニ家がこの襲撃を仕組んでいると決めつければ、単純で済む。
父も、指輪を俺の掌に置いた夜に言った。
オルシーニだけを疑えば、見えない相手を逃がす。
見えない相手。
名簿を直し、巡回表を動かし、企業警備の告知を貼り、電話線を湿気のせいにできる相手。
一人の悪役の顔ではなく、机と判子と保険証書と警備認可の束でできた相手。
「カヴァッロ」
荷役頭がぽつりと言った。
「何です」
「最近、ラゴ商会の番頭がそう呼んでいました。
馬の印の会合だとか、冗談みたいに。
中央の役人、企業警備、南の密輸屋が一つの卓についたと」
カヴァッロ。
馬。
まだ名前なのか、符丁なのか、冗談なのかもわからない。
だが、顔のないものに初めて影がついた気がした。
その時、詰所の電話が鳴った。
皆が動きを止める。
荷役頭が受話器を取る。
「はい。南埠頭詰所」
雑音。
彼の顔が変わる。
「診療所からです。声が遠い」
俺は受話器を奪うように受け取った。
「母さん?」
返事は掠れていた。
女の声だ。
母ではない。
リーナだと思った瞬間、雑音に潰れた。
「薬箱が、来ない。奥様が、裏の患者を」
「リーナ、落ち着いて。母さんは」
「白い馬車が」
そこで切れた。
電話線の向こうで、何かが落ちる音だけが残った。
白い馬車。
港湾庁の巡回変更。
企業警備の合同確認。
欠けた荷役。
ばらばらだったものが、俺の中で一つの線になろうとする。
遅い。
そう思った。
遅すぎる。
「屋敷へ戻ります」
俺が言うと、マルコはすでに外へ目を向けていた。
「馬車は使いません。通りが詰まる」
「診療所は」
「別に人を出します」
「母さんが」
マルコの手が俺の肩を掴んだ。
強い。
「坊ちゃん。全員を同じ足で追えません」
詰所の隅で、荷役頭が帽子を握っていた。
彼にも家がある。
俺が診療所へ走れと命じれば、彼は走るだろう。
走れば、南埠頭の残った荷役はさらに薄くなる。
共同炊事場へ豆を運ぶ者がいなくなる。
夜に市場で鍋を待つ子供の器が一つ減るかもしれない。
母を助けたい。
その願いですら、誰かの昼飯を削る。
そういう場所に、俺はもう立ってしまっていた。
昔の訓練を思い出す。
誰かを守るなら、その人が歩ける速度で考える。
母なら患者を置いて走れない。
父なら最後に出ようとする。
俺なら残ろうとする者の顔をする。
「わかっています」
声は震えていた。
わかっていることと、できることは違う。
港の鐘が鳴った。
聖燈祭の鐘ではない。
南埠頭の警鐘。
その直後、遠くで別の鐘が鳴る。
教会裏。診療所の小さな鐘。
さらに、屋敷の方角から、低い鐘の音が遅れて響いた。
三方向。
同時に。
冬の港が、一瞬で静けさを捨てた。
【人物紹介】
・カルメロ
南埠頭の老いた荷役頭。港で働く者たちの顔と生活を知っている。
若者たちの欠勤が、寒さだけによるものではないと気づいた。
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