第18話 夜の父子
晩秋の夜、父の執務室は明るすぎた。
机の上にはランプが三つ。
地図、名簿、倉庫証書、匿名の写し、診療所の走り書き。
紙が光を反射し、白い面ばかりが目に刺さる。
俺は立っていた。
父は椅子に座っていない。
窓際で港を見ている。背中が大きい。子供の頃は、その背中が壁に見えた。
今は、壁にもひびが入るのだと知ってしまった。
「報告しろ」
父が言った。
声はいつものドンの声だった。
俺は息を吐く。
マルコの稽古どおりに。
「初めて同行した徴収先、酒場主ピエトロの倉庫証書に、旧第七倉庫がありました。最近、見慣れない制服の警官が証書について尋ねています」
出来事を順番に並べるほど、心の中で苦くなる。
これは物語ではない。
ここにいる人間は、明日も腹が減る。
「市場では、迷子の母親の名と夫の勤め先を、偽の警官章をつけた男が確認していました。地元警察でも中央の制服でもない。章は薄い銀で、作りが軽い」
父は振り向かない。
指輪のある右手だけが、わずかに動いた。
「港湾名簿から、ベランディ保護下の荷役班が抜けています。共同炊事場、診療所、夜番に関わる者が集中しています。ルカは訂正に動いていますが、期限が短い」
ルカは部屋にいない。
彼は今も会計室で書類を作っている。
自分の失策だと言い、休まない。母なら叱るだろう。父なら黙って茶を置くかもしれない。
「匿名で内部控えの写しが届きました。余白に、幼い契約の印がありました」
父がこちらを見る。
「ソフィアか」
「断定はできません」
「お前はどう思う」
俺は少し黙った。
信じたい。
疑っている。
どちらも答えに入れなければ、嘘になる。
「彼女だと思います。助ける意図もある。オルシーニの利益もあるかもしれない。全部はわかりません」
父は小さく頷いた。
「続けろ」
「診療所に運ばれたカルロが、第七倉庫で知らない警官に名を聞かれたと言いました。妹が診療所にいるか、ベランディに借りがあるかも聞かれています」
「カルロは」
「ブルーノが負傷させました」
部屋の空気が重くなる。
ブルーノは扉の外にいる。
聞こえているかもしれない。
俺は続けた。
「カルロは借金を返さず、妹を保証に使おうとしていました。それは悪いことです。でも、ブルーノがしたことも責任です。母さんが治療費と食費、妹を巻き込ませない書面を命じました」
父の目が、ほんの少し柔らかくなる。
「エミリアらしい」
「父さんは」
言葉が勝手に出た。
「父さんは、それでいいと思うの」
父はすぐ答えなかった。
俺の心臓が嫌な音を立てる。
子供の頃、俺は父を失望させるのが怖かった。役に立てば愛されると思った。十五歳になっても、その癖は消えない。
今、俺は父に逆らおうとしている。
愛されるために始めた後継教育で、愛している父の仕事を否定しようとしている。
「何を指している」
父は静かに聞いた。
「徴収。見せしめ。守るための脅し。市場では感謝されました。警察より早く子供を守れた。名簿から消える人たちも、家が拾おうとしている。でも、その同じ家の人間がカルロを傷つけた」
声が震える。
「俺は、どこを見ればいいかわからない」
父は机へ歩き、地図の上に手を置いた。
昔、五歳の俺に港を教えた手。
第七倉庫を隠した手。
「全部見ろ」
「見たら、止めたくなる」
「止められるなら止めろ」
「父さんがそれを言うの」
俺の声が鋭くなった。
マルコが扉の側でわずかに動く。
父は動かない。
「父さんはドンだ。止められる側だろ。ブルーノを止められる。徴収のやり方を変えられる。警察より早いからって、俺たちが人を怯えさせていい理由にはならない」
言った。
言ってしまった。
部屋が静かになる。
前世なら、この沈黙だけで俺は謝っていた。ごめんなさい。今のは違います。俺が悪いです。何でもするから捨てないで。
喉までその言葉が上がってくる。
俺は歯を食いしばって飲み込んだ。
父は怒鳴らなかった。
「レオーネ」
「はい」
「お前の言うことは正しい」
胸が一瞬緩みかけた。
父は続ける。
「正しいだけでは、明日の市場は守れない」
また、胸が固くなる。
「地元警察は賄賂を取る。中央は港を数字で見る。企業は保険の通る者だけを雇う。酒場主は娘の薬代のために給金へ手をつける。借りた若者は妹を巻き込もうとする。そこへ、俺たちが綺麗な手で立てる場所はない」
「だから汚していい?」
「いいとは言っていない」
父の声が低くなる。
「汚れると言っている」
その違いは、逃げ道のようで、逃げ道ではなかった。
父は自分の罪を善行に変えない。
だが、やめるとも言わない。
「俺は人を恐れさせてきた。払わせ、黙らせ、時には傷つけた。その金で飯を配り、薬を買い、港の女と子供を守った。どちらも俺だ」
「どちらもなら、傷つけられた人はどうなる」
父の目が俺を射る。
怒りではない。
疲れに近いものだった。
「残る」
短い答えだった。
「礼も恨みも残る。だから、お前は帳簿を読め。診療所へ行け。市場の婆さんの手も、カルロの包帯も見る。どちらかを消した瞬間、ドンではなくなる」
「俺はドンになりたいわけじゃない」
言った後で、胸が痛んだ。
嘘ではない。
全部でもない。
俺は父に認められたかった。役に立ちたかった。守りたかった。
ドンという名がその道にあるなら、そこへ行くしかないと思っていた。
今は、行きたくない。
この道の先に、母の診療所へ運ばれる人が増えるなら。
父は深く息を吐いた。
「それでいい」
「え」
「なりたい者に継がせる仕事ではない」
父は右手の手袋を外した。
灰冠の指輪が灯りを受ける。
八歳の誕生日の夜、鉄の匂いを覚えた指輪。
門灯の下で男が口づけした指輪。
父の手を重く見せる輪。
「第七倉庫、偽警官章、名簿欠落」
父は一つずつ言った。
「偶然ではない。だが、敵を絞るには早い。オルシーニだけを疑えば、見えない相手を逃がす。中央だけを疑えば、地元の裏切りを見落とす。企業だけを疑えば、港の小さな恨みを踏む」
「では」
「調べる。守る。必要なら脅す。だが、血に急がない」
父はそう言った。
それでも、ブルーノを完全に止めるとは言わなかった。
古い威信に縛られている。
ブルーノの忠義に支えられ、同時にその復讐心を使ってきた父だからこそ、簡単には切れないのだ。
「父さん」
「何だ」
「母さんは、父さんの仕事を許しているの」
父の顔が、初めてはっきり痛んだ。
「許してはいない」
窓の外で、港の汽笛が鳴る。
「一緒に生きている」
その答えは重かった。
許すことと、一緒に生きることは違う。
母は父を愛している。
父の罪を消してはいない。
診療所で被害を減らし、遺族扶助を整え、ブルーノへ当然ですと言う。
その全部で、父の仕事の横に線を引いている。
俺も、いつか線を引けるのだろうか。
父は指輪に指をかけた。
ゆっくり外す。
その動作だけで、部屋の温度が変わった気がした。
「レオーネ」
「はい」
父は俺の前に立ち、掌を取った。
子供の頃は、父の手に包まれるだけだった。今は、俺の手も少し大きくなっている。それでも、父の掌は厚く、熱い。
灰冠の指輪が、俺の掌に置かれた。
重い。
想像よりずっと重い。
「継ぐな」
父は言った。
俺は顔を上げる。
「だが、覚えておけ」
「何を」
「この輪に口づけする者の中には、救われた者も、怯えた者もいる。お前がいつか何かを選ぶ時、片方だけの顔で選ぶな」
指輪は俺の指には大きすぎた。
掌の中で冷たく、すぐ父の体温が消えていく。
俺は握りしめた。
継ぐなと言われた。
それなのに、預けられた。
扉の外で、ブルーノが低く咳をした。廊下の遠くでは、母の足音が近づいてくる。
俺は掌を開かず、父の目を見た。
初めて、褒めてほしい子供としてではなく、同じ家の一人として。
「覚えます」
声は震えていた。
それでも、父は頷いた。
夜の港の灯りが、窓の向こうで一つずつ滲んでいた。
継ぐな。だが、覚えておけ。
ヴィットリオが預けた指輪は、まだレオーネの指には大きすぎる。
掌の上で冷えていく銀を挟んで、父子が初めて同じ家の一人として向き合った。
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第3章「手袋の表と裏」は、ここまで。
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