第17話 手袋の裏
晩秋の夕方、診療所の床に泥が落ちた。
扉を開けたのは、テオだった。
彼の肩を借りて、一人の若者が入ってくる。顔は腫れ、片腕を腹に抱え、歩くたびに息を詰めていた。
血の匂いは濃くない。
だが、痛みの匂いがした。
汗、泥、濡れた上着、怖がる人間の息。
母は診察台を指した。
「そこへ」
若者の後ろから、黒い巻き毛の少女が入ってきた。十四か十五くらい。手には水差しを持っている。
俺は彼女を知っていた。
四歳の時、膝を擦りむいて診療所へ来た女の子。言葉が通じず、俺が緑の飴を渡した子。
最近は診療所を手伝っていて、俺に水を出してくれることがある。
名はリーナ。
そのリーナが、俺を見て固まった。
「若様」
礼の形を取ろうとして、水差しが揺れる。
母が短く言った。
「礼はあと。水を置いて、布を」
リーナはすぐ動いた。
手が震えている。
診察台の若者は、彼女の兄だった。
「誰が」
俺は聞いた。
聞かなくても、わかっていた。
扉の外から、ブルーノが入ってきたからだ。
彼の頬にも小さな擦り傷がある。怒りでついた傷ではない。誰かが抵抗した時の跡。
「俺です」
隠さない。
言い訳もしない。
それが、かえって腹立たしかった。
「なぜ」
「払わずに逃げた。店主を騙して借り、妹の名まで保証に出そうとした」
診察台の若者が呻く。
「違う、俺は」
母が彼の肩を押さえた。
「喋るなら、息を整えてから」
処置が始まる。
母は俺にも手袋を渡した。
白い布の手袋。
初めて徴収へ行った朝の黒い革手袋とは違う。
「レオーネ、使った布を分けて。汚れたものは籠へ。水は替える」
「俺が」
「あなたが」
母の声は静かだった。
逃がさない声だ。
俺は頷いた。
母の手元を必要以上に追わない。
ただ、結果だけが目に入る。
若者の身体に、誰かが力を使った跡があった。死ぬ傷ではない。だが、明日働ける傷でもない。眠れば忘れる痛みではない。
ブルーノは壁際に立っていた。
マルコもいる。
テオは珍しく黙って、リーナの代わりに水を運んだ。
診療所には他の患者もいた。
咳をする老人。
赤ん坊を抱く女。
祭りの日に腕を撃たれたパオロ。
彼らは全員、ブルーノを見ていないふりをしていた。
見れば、自分の生活に余計な線が引かれるからだ。
これが、手袋の裏だ。
徴収の時、俺はピエトロの給金流用を見た。市場では、ベランディの名が子供を警察沙汰から救った。
そして今、同じ家の古参が、診療所の手伝いの兄を運び込ませている。
「母さん」
俺は小さく呼んだ。
「何」
「この人は、悪いことをしたの」
若者の目がこちらを向く。
リーナも。
ブルーノも。
母は包帯を巻く手を止めなかった。
「借りたものを返さず、妹を巻き込もうとしたなら、悪いことをした」
ブルーノの顎がわずかに上がる。
「でも」
母は続けた。
「だからといって、痛みで正しさを作れるわけではない」
ブルーノの目が細くなった。
「奥様。見せしめが要る時はあります。こいつが逃げれば、真似する若いのが出る。そうなれば店が潰れ、女たちの給金も消える。若様も見たでしょう」
俺を巻き込むな。
そう思った。
でも、俺は見た。
給金を奪われた女。市場で警察を恐れる老婆。紙から消される荷役班。
ブルーノの論理は、空から降ってきた暴力ではない。
彼は本気で、守るために殴る。
その本気が、怖い。
母は顔を上げた。
「ブルーノ」
「はい」
「見せしめにされた側も、誰かの家族です」
診療所が静かになった。
リーナの肩が震えた。
若者は目を閉じる。
ブルーノは、すぐには返事をしなかった。
母の言葉は綺麗な理想ではない。
診療所の床には泥が落ち、籠には汚れた布があり、リーナの兄は明日働けない。
見せしめが家を守るとしても、その家の外に別の家がある。
母はそこから目を逸らさない。
「俺は」
ブルーノの声が低くなる。
「家族を見せしめにされたことがあります」
マルコがわずかに動いた。
初めて聞く話だった。
「弟がいました。腕のいい荷役で、口も悪かった。昔、南の連中に逆らって、港の端に転がされた。誰も名を言わなかった。警察も来なかった。旦那様だけが、弟の名を呼んだ」
ブルーノは俺を見た。
「俺にとってベランディは、弟の名を消さなかった家です。だから俺は、名を消す奴を許さない」
復讐心。
忠義。
その根は同じ場所に絡んでいた。
弟の名を消された男が、誰かを見せしめにする。
その順番が見えるからこそ、カルロの包帯から目を逸らせなかった。
どちらも本当だった。
リーナは兄の包帯を押さえながら、ブルーノを見なかった。
彼女にとっても、名を消される怖さは他人事ではない。移民の家の子で、言葉が遅れ、母が診療所の書類を何度も代筆したと聞いている。
その家が今、ベランディの力に救われ、ベランディの力で傷ついている。
俺はリーナへ何か言おうとした。
謝罪か、説明か、約束か。
どれも、彼女の前では軽く見えた。
俺の口から出る言葉は、若様の言葉になる。慰めようとしても、従わせる響きが混じる。
だから、黙って汚れた布を籠へ入れた。
黙ることが逃げになる時もある。
今は、少なくとも、彼女の怒りの場所を奪わないための沈黙でありたかった。
母は静かに言った。
「あなたの弟さんの名を消した人間は、罰を受けるべきだった」
ブルーノの顔が一瞬だけ歪む。
「この子の兄を痛めつけたことも、別の責任です」
責任。
母は、ブルーノの傷を否定しなかった。
その傷で別の傷を作ったことも、薄めなかった。
「治療費は」
ブルーノが言う。
「俺が払います」
「当然です」
母はすぐ答えた。
「それと、働けない日の食費。妹さんの名を保証に使わせない書面。レオーネ、ルカへ伝えて」
「はい」
俺は頷いた。
リーナがこちらを見る。
彼女の目は、感謝ではなかった。
怒りでもない。
どちらか一つであれば、俺はまだ楽だった。
ベランディの診療所に兄を治してもらい、ベランディの古参に兄を傷つけられた少女の目。
その目を、俺は忘れてはいけない。
処置が終わる頃、若者は少しだけ息を整えた。
名はカルロ。
彼は水を飲み、かすれた声で言った。
「俺、逃げたんじゃない」
ブルーノが動きかける。
母が視線で止めた。
カルロは続ける。
「第七倉庫で、仕事があるって言われた。名簿にない奴でも日銭になるって。行ったら、知らない警官がいて、名を聞かれた」
俺の背中が冷える。
「警官」
「地元じゃない。胸の章が、薄く光ってた」
市場の男。
偽の警官章。
「何を聞かれた」
マルコが低く言う。
カルロは目を伏せた。
「名と、妹が診療所にいるか。ベランディに借りがあるか」
リーナが水差しを握りしめた。
ブルーノの顔に、怒りが上る。
今度の怒りは、カルロへではない。
だが、怒りの向かう先が変わっただけでは、危険が消えるわけではない。
「若様」
ブルーノが言った。
「やはり、先に潰すべきです」
何を、誰を、どうやって。
彼は具体的には言わない。
言わなくても、診療所の空気が硬くなる。
俺はカルロの包帯を見た。
リーナの震える手を見た。
母の白い手袋を見た。
守るための暴力が、また守るべき場所へ戻ってきていた。
「父さんに報告します」
俺は言った。
それしか言えなかった。
ブルーノは不満そうだったが、黙った。
母は汚れた手袋を外し、俺の手袋も外させた。
「レオーネ」
「はい」
「見たことを、綺麗にしないで」
その言葉は、父の指輪の鉄の匂いより重かった。
机の端には、母がつける患者の控えがあった。
カルロの名前の横には、負傷の記録だけでなく、働けない日数、食費、妹を巻き込ませないための書面、ブルーノから徴収する治療費が並ぶ。
母は痛みを記録する。
責任から誰も逃がさないために。
それは父の帳簿とは別の力だった。
俺はその力に、少しだけ救われ、同じだけ怖くなった。
診療所の床を拭くと、泥は落ちた。
でも、リーナの目とカルロの証言は、どこにも流れていかなかった。
【人物紹介】
・リーナ
母の診療所を手伝う少女。ブルーノに殴られたカルロの妹。
幼い頃に診療所でレオーネから緑の飴をもらい、今は患者へ水と布を運んでいる。
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