↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
18/98

第16話 欠けた名簿



ルカは帳簿の空白を見て、初めて俺の前で祈るように指を組んだ。


秋の雨が会計室の窓を叩いていた。


紙を湿気から守るため、暖炉には弱い火が入っている。


初めてここへ来た時と同じ匂いだ。インク、古い革、乾いた紙。


けれど、机の上にある名簿は同じではなかった。


港湾庁から届いた新しい登録一覧。


ルカ・モレッティは、それを三度読み直していた。


一度目は書記の顔で。

二度目は会計の顔で。

三度目に、彼は指を組んだ。


祈るように。


「何が抜けていますか」


俺が聞くと、ルカはすぐ答えなかった。


知らないと言うのではなく、言葉の順番を選んでいる沈黙だった。


父は執務室にいる。マルコは扉の側。俺はルカの向かいに座っている。


この部屋で、紙は銃より先に人を動かす。


そのことを、俺はもう知っていた。


「ベランディ保護下の荷役班です」


ルカは名簿の一欄を指した。


「全員ではありません。ですが、南埠頭の夜番、

共同炊事場へ食材を運ぶ班、診療所の薬箱を運ぶ小班が抜けています」


「偶然?」


「偶然なら、散らばって抜けます」


彼は別の紙を重ねる。


古い名簿。


そこには名前がある。


アントン、ミケーレ、サロ、パオロ。


祭りの日に母を庇って腕を負傷したパオロの名もあった。


今はまだ腕を吊っているが、軽い荷なら運ぶと聞いている。


働かなければ、食券だけでは足りないからだ。


新しい名簿には、その名がない。


「名簿にない人間は」


俺の声は乾いた。


「港湾保険の対象外です。荷に触れれば違反。

事故が起きても補償は出ない。雇った会社にも罰が来ます」


ルカは淡々と言う。


淡々と言わなければ、怒りで声が崩れるのだと思った。


「つまり、働けない」


「紙の上では、そうです」


紙の上では。


紙から消えた人間は、現実でも仕事を失う。


仕事を失えば、酒場の鍋が細る。

鍋が細れば、市場で喪章の女が分ける器も減る。

器が減れば、診療所で薬を飲む前の子供の腹が鳴る。


名簿の空白は、会計室の机の上だけにあるのではなかった。港のあちこちで、明日の食事の形を変える。


正しい制度が、登録のない者を排除する。


それ自体には理由がある。事故を減らす。密輸を防ぐ。賃金を明確にする。


だが、誰かが名簿から狙って名前を抜いたなら、それは制度の顔をした暴力だ。


ブルーノなら、殴った相手が見える。


この紙は、殴った手を見せない。


「訂正は」


「できます」


ルカは頷いた。


「ただし、期限があります。保証人、前歴証明、医師の就労許可、組合印。

抜けた人数分を短期間で揃える必要がある」


「揃えれば通る?」


ルカは眼鏡を外した。


「通るべきです」


「通る、ではなく」


「通るべき、です」


マルコが静かに聞いた。


「内部の遅れか」


ルカの肩がわずかに動く。


「私の対応が遅れた面はあります」


「責めているのではない」


「責められるべきです」


ルカは眼鏡を拭く。


「港湾統制令の運用が早まる兆しはありました。企業が登録事務を代行するという話も掴んでいた。

ですが、私は税率と差押え対策を優先した」


「全部は見られない」


俺が言うと、ルカは苦く笑った。


「旦那様ならそう言うでしょう。奥様なら、見られなかった人の名を読み上げる」


母の顔が浮かぶ。


エミリア診療所では、紙からこぼれた人間が椅子に座る。


字が読めない母親。過去の罰金を払えない荷役。


ベランディの名を怖がりながら、それでも傷を見せる男。


名簿から抜けた者たちは、今夜その長椅子に増えるかもしれない。


「ルカを疑う者が出ます」


俺は言った。


マルコがこちらを見る。


言わない方がいいかもしれない。


でも、言わないと。


「会計が紙を握っている。名簿が抜けた。誰かがそう噂する」


ルカは頷いた。


「当然です」


「当然と言わないでください」


思ったより強い声が出た。


ルカが少し驚く。


「疑われることに慣れた顔をされると、こちらが疑わなければいけないみたいになる」


自分でも何を言っているのかわからない。


前世の俺は、信じたい相手に裏切られるのが怖くて、先に全部疑った。


疑えば傷つかないと思った。実際は、疑い続ける方がずっと自分を傷つけた。


俺はルカを信じたい。


だから確認しなければならない。


「古い名簿と、新しい名簿と、申請控えを全部見せてください」


「もちろんです」


ルカはすぐ紙束を出した。


隠さなかった。


それだけで安心してはいけない。


でも、少し息がしやすくなった。



午後まで、俺たちは名前を照合した。


一人ずつ。


ただの作業ではない。


名前の横には生活がある。


パオロは腕を負傷中。妻と子供二人。診療所の搬入も手伝う。


ミケーレは字が読めないが、荷の重さを手で当てるのがうまい。


サロは賭場で借金を作ったことがある。だから登録で落とされやすい。


だが今は共同炊事場の薪運びをしている。


アントンは酒癖が悪い。市場で二度揉めた。けれど、孤児院の冬の石炭を黙って運んだことがある。


人は、一行で済まない。

名簿は一行で済ませる。


その差に、制度の強さと残酷さがある。


「この名簿を作る側にも、理由はあるんですよね」


俺が言うと、ルカは頷いた。


「あります。事故の補償先を明確にしたい。密輸を減らしたい。

港を王都の投資に耐える場所へ変えたい。

彼らの机から見れば、古い口約束は危険な穴です」


「でも、その穴に住んでいる人がいる」


「ええ。私たちも、その穴を利用して利益を得てきました」


ルカは自分たちを外へ置かなかった。


それが少し痛かった。


制度に踏まれた人を拾う時、ベランディは善人の顔をする。


けれど、穴がある方が都合のよい仕事もしてきた。


紙が強くなる時代に困るのは、弱い住民だけではない。俺たちも、自分たちの古い力を失う。


だから、この怒りが全部綺麗だとは言えなかった。


夕方、屋敷の裏門から小さな封筒が届いた。


差出人はない。

封蝋もない。


届けた少年は、焼き栗屋の使いだと言った。誰に渡されたかは知らない。


マルコが封筒を光に透かし、刃物ではなく細い紙片で開いた。中身は数枚の写し。


港湾名簿。


俺たちの手元にあるものとは違う。


抜けているはずの荷役班の名が、そこにはあった。


ただし、余白に赤い線が引かれている。


登録済み。

保留へ変更。

変更理由、記載なし。


ルカの顔から色が消えた。


「内部控えです。港湾庁の外へ出るものではありません」


「誰が」


俺は問いながら、答えを考えていた。


ソフィア。


劇場街の令嬢。オルシーニの娘。言葉と契約を武器にする少女。


彼女には金融と議会の近くにいる大人たちがいる。


港湾庁へ直接入らなくても、写しに触れる線があるのかもしれない。


だが、証拠はない。


封筒の最後に、小さな紙片が入っていた。


干し杏の種を包む時に使ったような、薄い紙。


そこに、三つの点が描かれている。


干し杏三つ。


五歳の鐘楼で、ソフィが差し出した契約の印。


嘘はつかない。


ただし全部は言わない。


胸の奥が痛んだ。


「若様」


ルカが言う。


「これは、使えば助かります。ですが、出所を問われれば困る」


「使わなければ」


「訂正期限に間に合わない者が出るでしょう」


紙が人を動かす。


その紙を、敵かもしれない少女が送ってきた。


完全な説明はない。


信じるには足りない。


疑って捨てるには、名前が重すぎる。


俺は三つの点を見た。


「写しは写しとして使わない」


俺は言った。


ルカが顔を上げる。


「この情報をもとに、こちらの控えの誤りを正面から照会する。

出所は伏せる。誰かを巻き込むためではなく、荷役班を戻すために」


「時間は厳しい」


「なら、急ぐ」


急げば失敗する。


それもわかっている。


でも、何もしなければ紙の上で人が消える。


俺は封筒を閉じた。


三つの点は、机の上で小さな傷のように残った。


信頼は、安心して渡せるものではない。


震えながら、少しだけ置くものなのだと思った。


紙から名前が消えれば、給金も仕事も消えていく。

雨の会計室へ届いたのは、港湾庁の内部控え。

差出人の名はなく、薄い紙片に干し杏三つの印だけが残っていた。


--

評価、コメントはページ下部よりお気軽に。

作者の励みになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。