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灰冠の指輪 ~愛を知らず死んだ俺は、異世界で没落マフィアを再建する~  作者: ぬゅうた
3章 手袋の表と裏

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第15話 市場の感謝



チェネリ市場は、朝から声でできている。


魚を叩く音。野菜を並べる木箱の音。

値切る女の声。荷車を避けろと怒鳴る男の声。


どこかで赤ん坊が泣き、どこかで鍋が笑うみたいに煮立っている。


その市場の入口に、昨日の酒場主ピエトロが立っていた。


顔色は悪い。


それでも、給仕の女たちへ給金を渡したらしい。


マルコが短く確認し、ブルーノは鼻を鳴らした。


「一度で人間が変わるわけじゃねえ」


「変わったかどうかを、誰が見る」


俺が聞くと、ブルーノは市場を顎で示した。


「ここです。市場の婆さんたちは、地元警察より恐ろしい」


確かに、視線が多い。


魚屋の女、粉屋の老人、壺を売る少年。


誰もこちらを見ていないふりをしながら、俺たちを見ている。


ベランディの若様が何をするか。


昨日、酒場の奥で何があったか。


彼らは噂で知り、噂は帳簿より速く港を走る。


俺は市場へ来るのを望んだわけではない。


マルコが「昨日の続きです」と言い、父が許した。


同じ現場線上で見ろ、ということなのだと思う。


父は言葉にしなかったが、そう命じられている気がした。


市場の中央で揉め事が起きていた。


人垣の内側に、魚屋の若い男と、痩せた少年がいる。


少年の手首を男が掴んでいた。足元には小さな財布が落ちている。


「盗ったんだろ」


「盗ってない」


「俺の台から落ちた財布が、お前の足元にあった」


少年は泣きそうな顔で首を振る。


周囲の人々は怒っている。


だが、その怒りの中に恐れが混じっていた。


財布の金額が大きければ、警察沙汰になる。


地元警察が来れば、盗ったかどうかより、誰からいくら取れるかを見る。


少年の家に保証人がいなければ、母親まで連れていかれるかもしれない。


「若様」


魚屋の女将が俺に気づき、深く頭を下げた。


周りも一斉に道を開ける。


俺は息を吐いた。


「手を離してください」


魚屋の男はすぐ離した。


ベランディの言葉だから。


少年の手首には赤い跡が残っていた。


俺は財布を拾わず、まず周囲を見た。


マルコの稽古。


答える前に、息を吐く。机の傷を見る代わりに、市場の床を見る。


魚の水が流れている。落ちた財布は濡れていない。


なら落ちたばかりか、乾いた場所から蹴られてきた。


「財布は、どこに置いてありましたか」


魚屋の男が台の端を指す。


「ここだ」


「そこから落ちたなら、水に濡れます」


男は足元を見る。


財布の近くには、粉が少し落ちていた。白い粉。隣の粉屋の袋が破れている。


「誰かが踏んで蹴った」


俺が言うと、人垣がざわついた。


「盗った者を探す話ではなく、落とした物を戻す話にしましょう」


自分でも、父に似た言い方だと思った。


嫌になる。


でも、今はこの少年の腕が先だ。


粉屋の老人が咳払いをした。


「わしの袋を運んだ荷役が、さっきぶつかった。財布が落ちたのはその時かもしれん」


魚屋の男は顔を赤くした。


「だが、こいつが」


「少年が拾っていたなら、財布は彼の手にあったはずです」


俺は少年を見る。


「名前は」


少年は小さく答えた。


「ニーノ」


「ニーノ、財布に触った?」


「触ってない。怖くて」


正直だと思った。


嘘かもしれない。

全部はわからない。


でも、今ここで彼を盗人に決めれば、彼の家の明日が変わる。


「魚屋さん」


俺は男へ向き直った。


「財布は戻りました。ニーノの腕に跡が残りました。

あなたは謝る。ニーノは、落ちた財布を見たら声を上げる。これで終わりにしてください」


男は周囲を見る。


ベランディの若様に従ったと思われるのが嫌なのだろう。


だが従わなければ、今度は市場の女たちが黙らない。


彼は渋々頭を下げた。


「悪かった」


ニーノも下を向く。


「次は、すぐ言います」


終わった。


たったそれだけで、市場の空気が緩む。


すると老婆が近づいてきて、俺の手を取った。


昨日渡された黒い手袋ではない。今日は素手だった。


「若様、ありがとうございます。警察を呼ばれたら、あの子の母親まで泣くところでした」


彼女の手は硬く、魚の鱗で細かな傷がある。


拝むように握られて、俺は身体が固まった。


感謝される。


怖い。


昨日、酒場の奥でピエトロは怯えていた。給仕の女は怯えた会釈をした。


今日は市場の老婆が泣きそうな顔で俺に礼を言う。


同じベランディの名で。


「俺だけでは」


言いかけると、ブルーノが小さく笑った。


「そこで謙遜すると、かえって失礼ですぜ」


「なぜ」


「この人らは、助かったと言いたいんです。若様が綺麗な顔で逃げると、言葉の置き場がなくなる」


また、乱暴に正しい。


俺は老婆へ頷いた。


「次に何かあったら、酒場か診療所へ知らせてください。子供を先に」


「はい、若様」


老婆は手を離した。


手のひらに、魚と塩の匂いが残った。



市場の奥では、昨日見た喪章の未亡人が、ピエトロの店の鍋を小さな器に分けていた。


彼女は俺に気づくと、礼をする前に、隣の子供の手へ匙を握らせた。


「先に食べな」


その一言に、胸が詰まった。


ベランディの扶助は、彼女の夫を海から戻せなかった。


生活を完全に立て直したわけでもない。


ただ、今日の昼を空白にしなかった。


その昼の一部は、昨日脅された酒場から来ている。


彼女が感謝する相手の名前と、ピエトロが恐れる相手の名前は同じだった。



昼近く、別の騒ぎが起きた。


迷子だ。


赤い帽子の女の子が、泣きすぎて息を詰まらせている。


母親は荷を取りに行ったわずかな間に見失ったらしい。


市場の人々は慣れていた。


誰かが水を出し、誰かが高い台へ上がって帽子を探し、誰かが泣く子供の前にしゃがむ。


父の命令がなくても動く。


ベランディが作った秩序なのか。


それとも、ベランディがなくても残る共同体なのか。


俺にはまだ判断できない。



女の子はすぐ母親と再会した。


母親は泣きながら子供を抱き、俺たちへ何度も礼を言った。


その時、俺は人垣の外に、見慣れない制服の男を見た。


地元警察の青ではない。


祭りの日に見た中央の制服とも少し違う。襟の形だけ似せて、布地が安い。


胸には銀色の警官章。


だが、光り方が違う。


父の指輪の銀とも、役所の印章とも違う。薄く、軽い。


男は迷子の母親へ近づき、何かを尋ねていた。


名を。

住所を。

夫の仕事を。


助けるための確認にも見える。


でも、彼の目は泣く子供ではなく、母親の答えを数えていた。


「マルコ」


俺が呼ぶと、マルコはすでに見ていた。


「追いますか」


ブルーノが低く言う。


「ここで騒ぎにしない」


マルコが答える。


男は視線に気づいたのか、人波に紛れた。


追えない。

追えば市場がまた割れる。


制服の男をベランディが囲めば、翌日の新聞はどちらを悪く書くかわからない。


俺は迷子の母親へ近づいた。


「今の警官に、何を聞かれましたか」


母親は不安そうに答える。


「子供の名と、夫の勤め先を。届けに必要だと」


「地元の警官ではありません」


そう言うと、彼女の顔から血の気が引いた。


「私、答えてしまって」


「あなたは悪くありません」


すぐに言った。


言わなければ、彼女は自分を責める。


前世の俺が何でも自分のせいにしたように。


「悪いのは、助ける顔で近づいた者です」


その言葉は、自分にも返ってきた。


助ける顔で近づく。


ベランディ家は、それを一度もしていないと言えるのか。


市場の端で、ピエトロが従業員へ重い鍋を渡していた。


昨日脅された男が、今日は市場の食堂へ煮込みを届けている。


彼の店が動くことで、昨日給金を奪われた女たちも働ける。


脅しの後に、飯がある。

飯の裏に、脅しがある。


俺は偽の警官章が消えた路地を見た。


本物の権力を似せた薄い銀。


もしあの男が本物なら、名を尋ねることにも理由があるのだろう。


だが、正しい形を借りた嘘は、ただの嘘より見分けにくい。


市場の人々は、父の指輪を怖がりながら頼る。

警官章を信じたいのに、信じきれない。


どちらの不信も、彼らの弱さではなく、これまで積まれた経験の結果だ。


その光は、市場の感謝より冷たく、しかし父の指輪の鉄の匂いより静かに感じた。


昨日は脅し、今日は感謝される。

市場の老婆は手を握り、昨日の酒場主は鍋を運ぶ。

その人混みの向こうでは、薄い警官章の男が名前を集めていた。


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