第14話 初めての徴収
3章 手袋の表と裏
初秋の朝、港の風は少しだけ冷えていた。
屋敷の玄関で、マルコが黒い革手袋を差し出す。
「今日は現場へ行きます」
「父さんの許可は」
「あります。旦那様は、見るだけだと」
見るだけ。
この前の魔晶石の時もそうだった。
見るだけと言われて、結局俺は少し喋った。
喋った言葉はノートに残り、灰青色の石は工房の奥で眠っている。
でも今日の現場は石ではない。
人だ。
手袋をはめる。指先が少し余る。十五歳の手には、まだ父のような厚みがない。
「なぜ手袋を」
「触る物があるかもしれません」
マルコはそれ以上言わなかった。
血を隠すためだ、と俺の中の嫌な声が言う。
いや、ただの礼儀かもしれない。
酒場へ入るとき、素手で客の卓に触らないためかもしれない。
どちらでもあるのだろう。
ベランディ家の仕事は、いつも一つの意味だけでできていない。
馬車は南埠頭の手前で止まった。
そこからは歩く。
テオはついてこなかった。代わりに、ブルーノ・フェッレが待っていた。
八歳の誕生日に俺の皿へ肉を山ほど乗せようとして母に叱られた男。
片耳の端が欠け、笑うと壁が揺れる古参。
今日は笑っていない。
「若様」
彼は太い首を少しだけ折った。
「お勉強の日ですかい」
「見るだけです」
「見るのが一番残ります」
冗談の形をしていたが、声は硬かった。
マルコが短く言う。
「余計なことはしない」
「わかってますよ、軍曹殿」
ブルーノは昔の呼び名でマルコをからかった。マルコは反応しない。
目的地は、チェネリ市場へ向かう角にある酒場だった。
看板には葡萄の房が描かれている。昼前なのに、扉の奥から煮込みの匂いがした。
安い豆、塩漬け肉、焦げた玉ねぎ。港の男たちが腹に入れる匂いだ。
俺は何度かこの店の前を通ったことがある。
母の診療所から帰る途中、腕を吊った荷役がここでスープをもらっていた。祭りの日、店先で水を配っていた女も見た。
いい店。
そう思いたかった。
扉を開けると、客の声が少し沈んだ。
ベランディの名が入ってきたからだ。
酒場主のピエトロは、カウンターの中で布を握っていた。
四十くらいの男で、髭に白いものが混じっている。目の下が黒い。眠っていない顔だった。
「ブルーノさん」
「今日は若様もおいでだ」
ブルーノが俺を示す。
店内の視線が集まる。
俺は頷いた。
できるだけ父のように、落ち着いて。
その真似をしている自分が嫌だった。
「奥で話す」
ブルーノが言うと、ピエトロはすぐに動いた。
奥の小部屋には、空の酒樽と帳面台があった。
壁一枚の向こうで客が匙を鳴らしている。
日常の音が近いほど、これからする話の異物感が増した。
ブルーノは椅子に座らない。
マルコも立ったまま。
俺だけが座れと言われた。
「若様は座ってください」
従うと、視線が低くなる。
座っている俺の前で、大人が追い詰められる。
その構図を、身体が覚えてしまう気がした。
ピエトロは帳面を差し出した。
「今週分は、少し待ってもらえませんか」
「少し、とは」
ブルーノの声は低い。
「三日。いや、二日で」
「先週も二日だった」
「市場の仕入れが上がって」
「その前は、娘が熱を出した」
ピエトロの顔が歪む。
本当なのだろう。
娘が熱を出したことも、市場の仕入れが上がったことも。
本当だからといって、金が消えるわけではない。
ブルーノは帳面を見ずに言った。
「借りたものは返す。揉め事を収めた礼は払う。店を守らせたなら、守った者にも飯を食わせる。難しい話じゃねえ」
「わかってます」
「わかっている人間は、給金袋に手をつけない」
空気が変わった。
俺は顔を上げる。
ピエトロの手が震えた。
「誰が」
「俺に聞くのか」
ブルーノは一歩近づいた。
大きな音は立てない。
拳も上げない。
ただ、狭い部屋が彼の身体で小さくなる。
「給仕の女が二人、家賃を払えずに診療所へ来た。皿洗いの少年は靴底に縄を巻いていた。お前の店は客を減らしていない。酒樽も空だ。なのに給金が遅れる」
俺は息を呑んだ。
酒場主は被害者だけではなかった。
従業員の賃金を流用していた。
けれど、彼がそうした理由も見える。
高い利息。仕入れ。病気の娘。客を失えば、従業員の仕事も消える。
どこかを止めれば別の誰かが困る。
だからといって、給金を奪われた者の空腹が消えるわけではない。
「ピエトロ」
俺は思わず名前を呼んだ。
マルコの視線が来る。
発言していい場面か。
考える。
息を吐く。
「娘さんは、今」
ピエトロは俺を見る。
その目に、期待と警戒が同時に浮かんだ。
「熱は下がりました。奥様のおかげで」
母。
ここにも母の手があった。
「なら、診療所への支払いは」
「待ってもらっています」
「給仕の人たちの給金は」
ピエトロは答えない。
ブルーノが鼻で笑った。
「若様。こういう奴は、優しく聞くほど奥へ逃げます」
「逃げ道を全部塞いだら、何が残る」
自分で言って、声が震えているのがわかった。
ブルーノの目が俺に向いた。
「残るのは約束です」
「恐怖で作った約束は」
「腹を空かせた女の今日の飯になります」
言い返せなかった。
ブルーノは俺を傷つけるために言ったのではない。彼は本気で、順番をそう考えている。
まず払わせる。
あとで理由を聞く。
そうしなければ、弱い者から順に踏まれる。
けれど、その払わせ方でまた別の弱い者が作られる。
ブルーノはピエトロの前に手を置いた。
指輪はない。
それでも、彼の手にはベランディの力があった。
「今夜までに給金を先に払え。うちへの分は、その後だ。利息の上乗せは旦那様へ俺から話す。だが、もう一度従業員の袋に手を入れたら、この店は守らねえ」
守らない。
その言葉は、殴るより重く響いた。
この通りでベランディに守られない店がどうなるか、俺でも想像できる。
酔客。別の貸し手。
地元警察の小遣い稼ぎ。税の名を借りた嫌がらせ。
守りは、脅しと背中合わせだった。
ピエトロは膝を折りかけた。
ブルーノが襟首を掴んで止める。
「床に頭を擦るな。従業員に頭を下げろ」
その乱暴な正しさに、俺はまた混乱する。
ブルーノはピエトロを傷つけている。
同時に、給仕の女たちを守ろうとしている。
「証書を」
マルコが初めて口を開いた。
ピエトロは棚から紙束を出した。店の権利、樽の仕入れ契約、倉庫の保管証。
ルカの授業を思い出しながら、俺は紙面を追う。
保管証の隅に、倉庫番号があった。
旧第七倉庫。
俺の手袋の指先が、紙の上で止まる。
「これは」
ピエトロの顔色が変わった。
「古い証書です。使っていません」
「いつから」
「父の代から」
「最近、誰かが聞きに来たか」
ピエトロは口を閉じた。
ブルーノが彼の肩へ手を置く。
力を入れているようには見えない。
だがピエトロの顔が歪む。
「警官が」
「地元か」
「わかりません。制服は、見たことのないもので」
俺はマルコを見た。
マルコの表情は変わらない。
変わらないから、何かを考えている。
酒場を出る時、カウンターの女が俺を見た。
給金を遅らされた女の一人だろう。
彼女は怯えた目で俺に会釈した。
感謝ではない。安心でもない。ベランディの若様に無礼をしないための角度だった。
その後ろで、鍋の湯気が上がっている。
客は昼飯を待っている。
この店が潰れれば、彼女の給金は戻らない。
守れば、彼女は脅しの現場で働き続ける。
通りの向かいでは、黒い喪章を袖に縫いつけた女が、酒場の裏口から小鍋を受け取っていた。
夫を海で亡くした未亡人だと、マルコが小声で教えた。
ピエトロの店は、週に二度、遺族扶助の食券を煮込みに替える。
儲けにはならない。だが店に人が集まり、ベランディへの借りも残る。
昨日まで俺は、そういう網を少し温かいものだと思っていた。
今は、網の糸が誰の給金から撚られたのかを見てしまった。
外へ出ると、秋の光が白かった。
手袋には血などついていない。
でも、俺は外したくなかった。
指先に、旧第七倉庫の文字の感触が残っていた。
【人物紹介】
・ブルーノ・フェッレ
ベランディ家の構成員。豪快で忠実だが、暴力を手段にすることへの迷いは少なめ。
食費はだいたい二人分。
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