雪解けの約束
「記憶はなくても、
心は覚えているようですね?」
店主の言葉が、
静かな店内に落ちた。
私は返事をしなかった。
いや…
返すことができなかった。
だって
その言葉を聞いた瞬間から
胸の奥で、
ずっと眠っていた何かが動き始めた気がしたから
白い雪に
凍えるような風
誰かの手と
笑い声
そして――
「冬真……」
自分でも驚いた。
気付けば、
その名前を口にしていた。
店主が目を細める。
「今、何と?」
「自分でも何故呼び捨てにしたのか
……分かりません」
私は胸元を押さえた。
「どうして名前が出てきたのか……
私にも分からないんです」
その時だった。
店の奥から
カランと
小さな音がした。
私が振り返ると
古い棚の上になにか見えた。
そこには、
一つの小さな木箱が置かれていた。
店主がゆっくり立ち上がる。
「どうやら、
愛執堂も答えを出し示したようですね…」
「答え……?」
店主は木箱を手に取って
そして私の前へ置く。
「開けてみてください」
言われるまま
恐る恐る蓋を開くと
中には古びた簪が一本入っていた。
雪の結晶を思わせる、
白銀の簪だった。
それを見た瞬間
頭の中に光が走った。
雪山
何百年も前の夜
私の前世は
一人の少女だった。
吹雪の中で道に迷い
泣きながら雪の中を歩いていた。
そこへ現れたのが
銀色の髪を持つ青年だった。
『こんなところで何をしているんだ?』
『……帰れないの』
『なら俺が送ろう』
冷たい顔をしているのに
その手だけは温かかった。
彼は私を山の麓まで送り届けてくれた。
別れ際に
私は泣きながら言った。
『また会える?』
青年は少し困った顔をした。
『人間はすぐに死ぬ』
『そんなこと言わないでよ…』
『俺は待つことができる』
『じゃあ……私が迎えに来る!』
『本当に?』
『うん!約束!』
少女だった私は笑った。
その約束を
私は忘れていた。
いや
忘れたというより生きるために、
何度も生まれ変わる中で
記憶だけを置いてきてしまったのだ
それでも
彼は
二百七十三年ずっと
たった一つの約束を忘れなかった。
私は簪を握りしめた。
「……私」
声が震える。
「約束したのを思い出したんですね?」
店主は静かに言った。
「ええ、でも……」
私は俯いた。
「私、約束を破ったんですよね…」
店主は首を横に振った。
「いいえ」
「え?」
「あなたはまだ…約束を破ってはいません」
店主は優しく微笑んだ。
「あなたは一度、
ちゃんと彼のもとへ帰ってきた」
「ただ……
彼が、それに気付けなかっただけです」
私は顔を上げた。
「どういう意味ですか?」
店主は答えなかった。
代わりに
入口へ視線を向ける。
カラン――
扉が開いた。
そこには
冬真が立っていた。
長い銀髪に
銀色の瞳
そして…
黒い和服を着ているけれど
以前とは違っていた。
その顔には迷いがあった。
「……紬」
私は立ち上がる。
怖くない。
もう
不思議なくらい怖くなかった。
冬真はゆっくり歩いてくるけれど
私から少し離れた場所で足を止めた。
「近付いてもいいか?」
私は驚いた。
あの日
彼は私を追いかけた。
今は
私の答えを待っている。
私は小さく頷いた。
「……はい」
冬真が一歩近付く。
そして
私の手にある簪を見た。
銀色の瞳が大きく揺れる。
「それ……」
「これ、知ってるんですか?」
冬真は答えないで
ただ簪を見つめている。
やがて
震えるような声で呟いた。
「覚えていたのか?」
「全部じゃないですけど…」
私は苦笑した。
「まだ、ほとんど思い出せません」
「でも」
簪を胸元へ抱く。
「あなたと約束したことだけは……分かります」
冬真は目を伏せた。
そして
「それだけでいい」
その声は
二百七十三年という時間を耐え抜いた人の声には
思えないほど静かだった。
私は少しだけ笑う。
「でも、一つだけ聞きたいです」
「何だ?」
「二百七十三年も待ったんですよね?」
「ああ」
「どうして?」
冬真は少し考えた。
そして
「約束だからだ」
即答だった。
私は思わず笑ってしまう。
「それだけ?」
「それだけだ」
「……そっか」
なんだか可笑しくなった。
でも同時に
胸の奥が温かくなった。
店主はそんな私たちを見ながら
静かに微笑んでいた。
「これで、ようやく終わりましたね」
「……終わる?」
私が振り返ると
店主は店内を見回した。
古い人形
簪
写真
手紙
そして
何百年もの間、
誰かの想いを見守ってきた家具たち
「愛執堂は」
店主が静かに言う。
「人が愛に迷った時、
辿り着く場所でした」
「独占したい者
失った者
待ち続けた者
許せなかった者」
「それぞれが、
自分の愛を抱えてここへ来ました。」
私は黙って聞いていた。
「けれど」
店主は笑う。
「本当は、ここへ来ることが目的ではないのです」
「どういうことですか……?」
「帰る場所を見つけること」
その言葉を聞いて
私は冬真を見る。
彼もまた私を見ていた。
店主は最後に一度だけ店内を見渡した。
そして
「もう、この店を必要とする人はいないでしょう」
「え……?」
店主は鍵を取り出した。
古びた小さな鍵を
「愛執堂は本日をもって閉じます」
私は驚いた。
「どうして?……」
「十分、役目を果たしましたから」
店主は笑った。
「あなた方が最後のお客様です」
その瞬間
古時計が鳴った。
カチ
コチ
そして
時計の針が
初めて見るほど静かに十二時を指した。
店内に飾られていた人形たちが
ほんの少しだけ笑ったように見えた。
私は思わず涙を拭う。
「店主さん」
「はい」
「ありがとうございました」
店主は優しく微笑んだ。
「こちらこそ…
良い恋をしてください」
その言葉と同時に
窓の外から冷たい風が吹いた。
けれど
今度は寒くなかった。
むしろ
どこか懐かしくて優しい
雪が溶けるような風だった。
店を出ると
隣には冬真がいる。
「帰るか」
私は頷いた。
「うん」
2人で歩き出す。
何処へ行くのかは分からない。
でも
今度は一人じゃない。
ふと振り返ると
そこにはもう
愛執堂という店はなかった。
古い路地だけが静かに残っている。
私は不思議に思いながらも
冬真の隣を歩いた。
その手が
ほんの少しだけ私の手に触れる。
私は逃げなかった。
代わりに
そっと握り返した。
「冬真」
「何だ?」
「今度は私が忘れないから」
冬真は一瞬だけ目を見開いた。
そして
二百七十三年の間、
一度も見せなかったような
穏やかな笑顔を浮かべた。
「ああ
今度は俺も、
待つだけにはしない」
二人は夕暮れの街を歩いていく。
その背中を
誰もいないはずの愛執堂の窓から
店主が静かに見送っていた。
最後の灯りを消す。
カチ
古時計が止まる。
これで
すべての物語が終わった。
誰かを縛る愛も
失った愛も
狂おしい執着も
長い約束も
いつか誰かの心を救う。
愛とは
誰かを自分のものにすることではない。
帰りたいと思える場所になること
そして
帰ってきた相手を
もう一度、選ぶこと
店主は最後に小さく笑った。
「良い結末でしたね」
そう呟いて
愛執堂の扉を閉じる。
――カラン
その音を最後に
愛執堂は
長い長い物語の幕を閉じた。




