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異類婚姻譚 愛執堂  作者: 黒薔薇
雪男との約束
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紬の動揺

胸の奥で

何かが静かに軋む音がした。


「……春川様?」


店主の声で我に返り

私は慌ててカップをテーブルへ置いた。


「す、すみません……」


自分でも分かるくらい

手が震えている。


どうして?


どうして私は

こんなに動揺しているの?


知らない話のはずなのに…


「少し落ち着きましょう?」



店主は優しく微笑むと、

新しく紅茶を注ぎ直した。


紅茶から

湯気がゆっくりと立ち上る。


その香りを吸い込むと、

不思議と心が少しだけ落ち着いていく。


「雪城様」


店主が静かに口を開く。


「春川様は困惑されています。」


「……ああ」


冬真は短く答えた。


「当然だろ?」


その声には、責める色も怒りもなかった。


「覚えていないのだから仕方がない。」


私は思わず顔を上げる。


「どういうことですか……?」


冬真は私を見ると

銀色の瞳が揺れていた。


「約束を忘れたことを責めるつもりはない。」


「え……?」


「人間は転生したら何もかも忘れる。」


静かな声だった。


「それが当たり前だ。」


その言葉が、胸に刺さる。



責められていない。


なのに

どうしてこんなに苦しいんだろう?


「では」


店主が二人を交互に見つめる。


「雪城様は…」


「春川様を見つけて、

どうするおつもりだったのですか?」


冬真は少し考えるように目を閉じた。


長い沈黙。


やがて


「分からない。」


そう一言話したのだった。


私は思わず目を丸くする。


「え……?」


「探すことだけを考えていた。」


冬真は静かに続ける。


「見つけた後のことは……考えていなかった。」


店主は小さく笑う。



「それはまた…

雪城様らしい。」


「そうなのか?」


「ええ…」


店主は紅茶を一口飲んでからこう言った。



「二百七十三年という時間は、

人の心さえ変えてしまいます。」


「ですが…」


穏やかな笑みのまま冬真を見る。


「春川様は

あなたが探していた少女ではありませんよ?」


私は驚いて店主を見る。


「……え?」


冬真も黙っていた。


2人の様子を見て

店主はゆっくり続ける。


「少なくとも、今ここにいる春川紬様は…

二十四年間を生きてきた、一人の女性です。」


「広告代理店で働き…

毎日残業に追われ…

疲れたと言いながら、

それでも一生懸命生きている。」


私は少し照れくさくなるが

仕事と思ってたことを言われて怖くなるが

平然とした態度で私は答える。


「そんな普通の女性です。」



店主は冬真へ視線を向ける。



「ですから…」


「雪城様…わかってると思いますが…

二百七十三年前の約束を、

そのままこの方へ向けるのは酷でしょう?」


店内が静まり返る。


冬真は何も言わずに

ただ

静かに私を見つめている。


その瞳からは、

さっきまでの鋭さが消えていた。


代わりにあったのは

迷いだった。


「……すまない紬」


ぽつりと零れた謝罪に

私は驚く。


「怖がらせるつもりはなかった。」


その一言だけだった。


でも

その声は嘘じゃない。


私はゆっくり返事を返す。


「……私も。」


言葉を探しながら


「びっくりしただけです。」


「知らない人に名前を呼ばれて……

追いかけられて……」


思い返すと、

やっぱり怖い。


だけど

目の前の人は

私を傷つけようとしているようには見えなかった。


むしろ

ずっと何かを失くしてしまった人のように見えた。


店主はそんな二人を見て、

そっと微笑む。


「少し提案があるのですが?」


私と冬真は同時に店主を見る。


「お二人とも、今日はここまでにしませんか?」


「え?」



「無理に答えを出そうとしても、

良い結果にはなりませんし…」


店主は穏やかな口調で続ける。


「春川様は今日一日で混乱しすぎていますし…」



「雪城様も、

ようやく見つけた相手を前に

冷静ではいられないでしょう?」


冬真は小さく目を伏せて

否定はしなかった。


「ですので…」


店主は引き出しから一枚の小さな名刺を取り出し、

私へ差し出す。


『愛執堂』


その文字と、

電話番号だけが書かれていた。


「困ったことがあれば、

いつでもいらしてください。」


そしてもう一枚を冬真へ差し出す。


「雪城様…春川様を追い回すのは禁止ですよ?」


「……分かった…」


「約束できますか?」


冬真は少しだけ考えたあと、

静かに頷いた。


「ああ…約束する。」



その"約束"という言葉に

私の胸はまた、小さく痛んだ。


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