彼女はの選択
青嵐の差し出した手を
私は見つめていた。
月明かりに照らされた手
千年も
その手はずっと私を待っていた。
「……分からない」
私の口から出たのはそんな言葉だった。
「何も思い出せないの…
千年前のことも…
澪って人のことも…」
「私には分からない」
青嵐は何も言わずに
ただ静かに聞いていた。
「だから…」
私は俯く。
「その気持ちに応えられるかも分からない…」
長い沈黙が落ちると
湖の水面が揺れ
風が吹く。
そして
青嵐は小さく笑った。
「そうか…」
その声はどこまでも穏やかだった。
「なら仕方ないな…」
私は驚いて顔を上げる。
もっと強引に来ると思っていたし
もっと執着すると思っていた。
だってこの龍神は
千年も私を待っていたのだから。
青嵐は立ち上がり
そして月を見上げた。
「本当はな…」
ぽつりと呟く。
「お前が来たら…
もう二度と帰さないつもりだった」
私は息を呑む。
「え……」
青嵐は苦笑した。
「当然だろう?
千年だぞ!」
「俺は千年待ったんだ…」
その声は静かだったけれど
その奥にある感情は重かった。
途方もなく重かった。
「何度も思った…」
「湖へ閉じ込めてしまおうか?…
人ではなく眷属にしてまおうか?…
俺と同じ時間を生きさせようか?…」
蒼い瞳が私を見る。
「そうすれば二度と失わないからな?」
ぞくりと背筋が震えた。
それは冗談ではなく
本気だったのだ。
本当に
千年間
ずっと
こんなことを考えていたのが分かるけれど
青嵐は目を閉じる。
「だが…
それでは意味がない」
「俺が欲しかったのは…
籠の中の花ではなく
お前自身だ…」
私は何も言えなかった。
それを見て
青嵐は少し寂しそうに笑う。
「だから選べ…雫」
「人間として生きるなら…
今夜中に帰してやる…
俺はもう追わない」
その言葉に
胸が苦しくなる。
なぜだろう
本当なら喜ぶべきなのに
なぜか泣きそうだった。
青嵐は振り返り
湖を見る。
その背中が
とても大きくて
そして
とても孤独に見えた。
千年
誰もいない湖で
たった一人
待ち続けていたのだから。
その時だった。
風が吹く
チリン――
簪の鈴が鳴った。
その瞬間…
視界が真っ白になる。
「っ!」
頭の中へ流れ込んでくる。
湖と鳥居に
月夜で
笑う少女と
それを見て泣く龍神
『青嵐様…
待っていてください』
『絶対に帰ってきますから…』
『約束ですよ?』
少女が笑う。
優しく
幸せそうに
そして
病に苦しみながら
最後まで笑っていた。
『だから…
独りにならないでください』
『そして…
私を忘れないでください』
『また会いましょう…』
景色が消え
私は気付けば泣いていた。
ぽろぽろと
涙が止まらない。
青嵐が振り返ると
その瞳が揺れる。
「……雫」
私は首を横に振った。
「違う!」
震える声だった。
「まだ…全部思い出したわけじゃない」
「でも!」
胸に手を当てる。
確かにそこにいる
千年前の私が
「ずっと待ってたのは…」
青嵐だけじゃない!」
青嵐の目が見開かれるのを見て
私は涙でぐしゃぐしゃになりながら笑った。
「私も…帰りたかったんだと思う」
静寂の中
湖が揺れ
月が輝く。
青嵐は何も言わない。
言葉を失ったみたいに
ただ私を見ている。
私はゆっくり彼へ歩み寄った。
そして
差し出されていた手を握る。
神様なのに
不思議なくらい
温かかった。
すごく
温かかった。
「全部は思い出せない…
それでも」
私は微笑む。
「青嵐と一緒にいたい!」
その瞬間
青嵐の表情が崩れた。
千年間
張り詰めていたものが
ようやく解けたみたいに
彼は少し震えながら
私の手を握り返す。
「……そうか」
掠れた声だった。
「そうか……」
そして
龍神は初めて泣いた。
誰にも見せたことのない涙を流しながら
私を抱きしめる。
強く
壊さないように
大切に
「おかえり」
その言葉が耳元で響くと
私は目を閉じた。
遠くで湖の民たちが歓声を上げ
月が祝福するように輝いていた。
その夜
水瀬雫は人間の世界へ帰らなかった。
けれど
それは契約に従ったからではない。
ましてや
誰かに強制されたからでもない。
自分で選んだのだ。
龍神の花嫁として
青嵐の隣にいることを。




