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異類婚姻譚 愛執堂  作者: 黒薔薇
『花嫁を待つ神』
12/46

二人の思い出

蓮命の言葉が店内に落ちた。


「今度こそ、僕の花嫁になってよ」


白藤美琴は言葉を失う。


恐ろしい

けれど同時に

胸の奥が妙にざわついていた。


その時だった。


「――蓮命」


静かな声が響く。


店主だった。

先ほどまで黙っていた店主が、

ゆっくりと立ち上がる。


「そこまでにしておきなさい」


穏やかな口調だが、

その声には有無を言わせない力があった。


蓮命の表情が僅かに曇る。


「邪魔をするのかい?」


「彼女はまだ何も思い出していない」


店主は静かに答える。


「選ぶのは彼女自身だ」


その言葉に

蓮命の瞳が揺れた。


長い沈黙。


やがて彼は小さく笑った。


「選ぶ……?」


その笑みはどこか危うい。


「僕は何百年も待ったんだ

忘れられても

祀られなくなっても」


「ずっと

ずっと待った」


空気が重くなると

店内の灯りが不安定に揺れ始めた。


棚の装飾品が微かに震える。


「やっと会えたんだよ」


蓮命は美琴から目を離さない。


「また失うかもしれないなんて

そんなの耐えられない」


その声には悲鳴にも似た執着が滲んでいた。


店主が眉をひそめる。


「蓮命…落ち着きなさい」


しかし蓮命は聞いていなかった。

まるで数百年分の孤独が一気に溢れ出したように。


「美琴」


彼は震える声で呼ぶ。


「お願いだから思い出して

君は僕を忘れても

僕は君を忘れたことがないんだ」


雨音が激しくなる。

窓を叩く音が店内に響く。


そして

蓮命の頬を一筋の涙が伝った。


「もう待ちたくない……」


その姿は恐ろしい怪異ではなく

何百年も同じ人を想い続けた、

哀しい神そのものだった。


店主は静かにため息をつく。


「だからこそ

急いではいけないんだよ、蓮命」


蓮命は言葉を失う。


美琴はそんな二人を見つめながら、

自分の胸の奥に残る説明できない

懐かしさを感じていた。


まるで

遠い昔に、

本当に彼と出会ったことがあるかのように――。


雨音だけが静かに響いていた。

誰も口を開かない。


店主は蓮命を見つめている。

蓮命は美琴だけを見ている。


そして美琴は――

自分の胸を押さえていた。


苦しい

怖い

それなのに

なぜか彼の言葉が頭から離れなかった。


「……知らない」


美琴は小さく呟く。


蓮命の瞳が揺れた。


「私はあなたを知らない

会ったこともない

覚えてない」


その言葉は残酷だった。

けれど事実だった。


蓮命は静かに目を閉じる。


長い沈黙。


やがて


「そうだね」


彼は力なく笑った。


「君は知らない

今の君は

僕を知らない」


その声はどこか寂しそうだった

数百年という時間の重さが滲んでいる。


店主は黙って二人を見守っていた。


蓮命はゆっくりと後ろへ下がる

先ほどまでの熱が嘘のように静かだった。


「ごめん」


ぽつりと呟く。


「少し焦ってしまった」


美琴は驚く。


あれほど執着していた神が

あれほど必死だった神が

今はひどく疲れて見えた。


「三百年も待ったのに」


蓮命は苦笑する。


「会えた瞬間に全部台無しにしそうになるなんて」


店主が肩を竦めた。


「だから言ったでしょう?」


「恋は時間を飛び越えられても、

心までは飛び越えられない…」


蓮命は返事をしなかった。

ただ美琴を見る。


その視線は相変わらず真っ直ぐだった。

逃げ場がないほどに

けれど先ほどとは違い

無理に掴もうとする視線ではない。


失うことを恐れながらも

必死に耐えている視線だった。


「美琴」


静かに名前を呼ぶ。


「もし

本当に何も思い出せなくても

君が別の人生を選んでも」


彼は一度言葉を切った。

そして少しだけ笑う。


「僕はたぶん待ってしまうんだろうね」


その笑顔が痛々しかった。


美琴の胸がちくりと痛む。


なぜだろう

知らないはずなのに

初めて会ったはずなのに

泣きそうになる


その時だった。


――ちりん


手に持っていた髪飾りが鳴った。


小さく

優しく

まるで誰かが触れたみたいに


美琴の視界が揺れる。


突然だった

知らない景色が頭の中に流れ込む。


赤い鳥居

夜の祭り

満開の藤


そして

長い黒髪の少女


彼女は笑っていた

誰かに向かって

とても幸せそうに


『また来るね』


その声が聞こえた。


『蓮命さま』


美琴の呼吸が止まる。


蓮命の瞳が見開かれた。


店主も静かに目を細める。


ほんの一瞬だった

記憶は霧のように消える。


けれど

確かに見た。

確かに聞いた。


「……今の」


美琴が呟く。


蓮命の声が震える。


「思い出したのかい?」


「違う……」


美琴は首を振る。


「分からない

でも」


胸を押さえると

鼓動が速い。

苦しいほどに。


「知らないのに懐かしい」


その言葉に

蓮命は泣きそうな顔で笑った。


神なのに

何百年も生きているはずなのに

まるで迷子の子供みたいに。


「それで十分だよ」


彼は静かに言う。


「今はそれで十分なんだ」


雨はまだ降り続いていた。


けれど

物語は終わっていなかった。


それは数百年前に終わった恋ではなく

これから始まるかもしれない恋だったからだ。


そして店主は、

どこか意味深な笑みを浮かべながら呟く。


「さて

続きが気になるなら――」


「今度は神社へ行ってみますか?」


その瞬間…

蓮命の視線が店主へ向いた。


店主は微笑む。


「安心しなさい

今度は彼女自身に選ばせるよ」


蓮命は何も言わないで

ただ再び美琴を見た。


その瞳には相変わらず消えない執着が宿っていた。

何百年経っても変わらないほどの

狂おしいほど一途な想いが。


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