蓮命の狂気
店内の空気が変わった気がしたが
雨音だけが静かに響いている。
けれど
私の心臓だけが異様なほど大きく鳴っていた。
「……白藤、美琴」
蓮命はもう一度私の名前を呼んだ。
まるで何百回も
何千回も
その名前を呼び続けてきたかのような声音で。
「どうして……私の名前を知ってるの?」
私が尋ねると、
蓮命は少しだけ目を細めた。
その表情は穏やかだった。
優しくて
どこか悲しそうだった。
「それは…知っているからだよ?
君のことをずっと前から…」
その言葉に背筋が冷える。
店主は黙ったまま二人を見ていた
まるで何もかも知っているように。
蓮命はゆっくり私へ近付く。
一歩
また一歩
不思議だった
恐ろしいはずなのに
なぜか目が離せない。
「君は覚えていないだろうね
覚えてなくていい
それでいい
人は忘れる生き物だから」
彼はそう言って微笑む。
「でも僕は忘れないよ?
一度も
ただの一度もね…」
その声は静かだった。
だが
その静けさの奥に、
異様な執着が滲んでいる気がした。
「春にどんな花を好きだと言ったか
夏にどんな歌を口ずさんだか
雨の日に何を考えていたか
最後に泣いた日も
全部僕は忘れずに覚えている」
私は息を呑む。
知らない
そんなはずがない
この人に会ったことなんて――
ないはずなのに
「やめてください……」
思わず後退ってしまう
すると蓮命の表情が少しだけ曇った。
「やめてほしいの?」
小さく首を傾げる。
「どうして?」
まるで本気で分からないような顔だった。
「僕はただ
君との再会を喜んでいるだけなのに…」
店内の灯りが揺れ
雨音が強くなる。
蓮命は髪飾りへ視線を落とした。
「その髪飾り
僕が君に贈ったものなんだよ?」
「約束の品だった
いつか必ず迎えに行くって
そう言っただろう?」
私は思い出せず首を横に振る。
知らない
覚えていない。
けれど
なぜだろう
胸の奥が痛んだ。
「違う……
私は知らない……!」
その瞬間だった。
蓮命の微笑みが僅かに歪んだように見えた。
ほんの少しだけ
本当に少しだけ
けれど確かに
「そうか……
まだ思い出せないんだね……」
彼は優しく言った。
優しすぎるほど優しく
それが逆に恐ろしかった。
「大丈夫
焦らなくていい」
「百年だって待ったんだから
今さら数日や数年くらい誤差だよ」
店内が静まり返る。
百年
数年
そんな言葉を当然のように口にする。
蓮命は一歩近付いて
そして私の髪へそっと手を伸ばす。
触れてはいない。
あと少しで届く距離ぐらいで
それなのに
その手から目が離せなかった。
「美琴」
優しく
甘く
私の名前を呼ぶ。
「会いたかった
ずっと
本当にずっと」
その声は震えていた。
初めてだった
誰かの感情が零れ落ちるのを見たのは
「何度季節が変わっても
何度人が生まれて死んでも
神社が朽ちても
信仰が消えても」
「君のことだけは忘れられなかった」
蓮命は笑うけれど
目は笑っていない。
どこか壊れそうなほど必死だった。
「だから
今度こそ離さない」
その言葉に、
私の心臓が大きく跳ねた。
「え……?」
蓮命は微笑んだまま続ける。
「だってそうだろう?
やっと見つけたんだ
やっと帰ってきてくれるんだ」
「また失うなんて無理だ…
そんなの耐えられない!!」
さっきまで穏やかだった声が、
少しずつ熱を帯び始める。
「君は忘れてもいい
思い出せなくてもいい」
「僕が覚えているから」
「君の好きなこと全部
嫌いなことも全部
苦手なことも全部」
その言葉がやけに重かった。
蓮命は静かに笑う。
「ああ……
やっぱり綺麗だ」
「生まれ変わっても
何度巡っても
君は君だ」
その瞳には
私しか映っていなかった。
まるで数百年分の想いを閉じ込めたような、
狂おしいほど一途な視線だった。
そして蓮命は、
まるで祈るように呟く。
「もうどこにも行かないで?
お願いだから…
「今度こそ
僕の花嫁になってよ」──。




