第99話:日野富子と小間使い 〜シスターフッドの到達点〜
次期CEO・足利義材の完璧な戴冠式が終わり、大名たちがそれぞれの任地へと散っていった夜。
室町第の奥深く、日野富子の私室には、しっとりとした静寂が満ちていた。
縁側の御簾は上げられ、見事な満月が、広大な庭園の池に銀色の光を落としている。
そして夜風に乗って、遠くメガロポリス・京都から、夜通し稼働する工場の微かな響きと、灯りに照らされた街の活気が、心地よい子守唄のように届いていた。
「……ほんまに、ようやったわ。うちら」
最高級の南蛮硝子(切子細工)の盃を傾けながら、富子がふうっと、長く甘い溜息を吐いた。
五十路を超えてなお凄みのある美しさを保つ彼女の顔は、今夜ばかりは、すべての重圧から解放された少女のように無防備に和らいでいた。
「ええ。まことに……長き道のりにおじゃりました」
富子の向かいに座り、静かに盃に酒を注いでいるのは、薫子である。
彼女もまた、四十代半ばを迎えている。
しかし、その所作の美しさと、底知れぬ知性を宿した瞳は、富子と初めて出会った幼い頃から何一つ変わっていない。
富子は硝子の盃を月の光に透かし、くすくすと笑った。
「思えば、不思議な縁やったねぇ。……うちがまだ将軍家に嫁ぐ前、お忍びで山科の村を覗きに行ったら、水車を回して銭を数えとる、得体の知れん小さな童女がおったんやから」
「ふふっ。あの時の富子様は、まこと恐ろしいお嬢様におじゃりました。私の商いを、いきなり力ずくで奪い取ろうとなさったのですから」
「そないなこと、あったっけ?」と富子はとぼけながら、美味しそうに酒を煽った。
「……やけど、あの時、そなたの手を取ってほんまに良かったわ」
富子の目が、ふと真剣な色を帯びた。
「細川や山名の爺さんたちが、京の都を火の海にして殺し合おうとした時も。誰も知らん未知の海へ、この国の莫大な富を乗せて大船団を送り出した時も。……うちは、ちっとも怖くなかった。そなたが隣で算盤を弾いて、完璧な『仕組み』を作ってくれとったからね」
「もったいないお言葉におじゃりまする。……すべては、富子様という絶対的な『盾』と、ご決断があってこその事」
薫子は、静かに頭を下げた。
「血を流すいくさは、何も生み出しませぬ。……人間の強欲は、殺し合いではなく、銭稼ぎと開拓へ向けさせてこそ、この星の富を豊かに循環させる。それを富子様が、誰よりも深くご理解してくださったからです」
薫子の言葉に、富子は満足げに頷き、そして、じっと薫子の顔を見つめた。
「なぁ、薫子」
「はい」
「……そなたは、いったい何者やったんや?」
富子の問いかけは、ひどく穏やかだった。
恐れや疑念ではなく、純粋な、長年の相棒に対する親愛と敬意に満ちた問いだった。
「赤子の頃から、複式簿記とかいう帳面を書き。見たこともない水車や鉄砲を作らせ。海の向こうに何があるかを、まるで見てきたかのように知っとった。……そなたがおらんかったら、この国はとうの昔に、焼け野原になっとったはずや」
『…………』
薫子は、静かに目を伏せた。
脳裏に蘇るのは、前世の記憶。
休日の京都でトラックに轢かれ、この応仁の乱前夜の狂った世界に放り込まれた日のこと。
戦国時代という、百年にわたる地獄の無駄遣い。
それを防ぎたい、日本の国力を完全な状態で維持したまま、世界の大航海時代にぶつけてみたいという、一人の歴史オタクの途方もないエゴと野望。
『私は……ただの、歴史を知る現代人。あなたの時代から見れば、数百年先の未来から来た、ただの狂ったオタクよ』
もしそう言えば、この聡明な富子なら、あるいは信じてくれるかもしれない。
自分たちが歩んできた道が、本来の歴史をどれほど巨大に、そして美しく捻じ曲げた結果であるかを、共に分かち合えるかもしれない。
だが。
薫子はゆっくりと顔を上げ、富子に向かって、極上の、本当に幸せそうな微笑みを浮かべた。
「私は……ただの、富子様に仕える欲深い小間使いにおじゃりまする」
それは、二人が初めて手を組み、「室町ふぁんど」を立ち上げた日から、薫子がずっと貫き通してきた答えだった。
自分の正体など、もはやどうでもいい。
目の前にいるこの偉大な女性と共に、誰も血を流さず、誰もが豊かになれる、最高に強欲で平和な世界を作り上げたという事実。
それだけで、薫子の魂は、筆舌に尽くしがたいほどの幸福感で満たされていた。
富子は、薫子のその答えを聞くと、一瞬だけ目を丸くし。
やがて、肩を震わせて、おかしそうに笑い声を上げた。
「あははっ! せやね。そなたは、うちの優秀で、底なしに欲深い小間使いや。……それ以上の答えなんか、野暮ってもんやね」
富子は自ら徳利を持ち、薫子の空いた盃に、とくとくと酒を注いだ。
「なら、これからも頼むえ、小間使い。うちらが作り上げたこの巨大な箱庭が、どこまで豊かになっていくか……特等席で、一緒に見届けよか」
「はい。……喜んで、お供いたしまする」
二つの美しい硝子の盃が、月明かりの下で、チリンと涼やかな音を立てて合わさった。
刃の鳴る音は、もうどこにもない。
かつて灰燼に帰すはずだった都の夜空には、ただ、どこまでも平和で豊かな、永遠の繁栄を約束する星々が輝き続けていた。




