第96話:請求書と絶望 〜ヨーロッパの完全な詰み〜
スペイン王国、カスティーリャの王宮。
壮麗な謁見の間は、これまでにない異様な緊張感とざわめきに包まれていた。
玉座に座るイサベル女王は、固く組んだ手を微かに震わせていた。
彼女の顔には、長年の心労による深い皺が刻まれている。
数年前。
カナリア諸島沖で、誇り高きスペインの無敵艦隊が、極東の島国「ジパング」の軍艦によって紙屑のように粉砕された。
日本の圧倒的な技術力と経済支配の前に、スペインという国家そのものが完全に身動きが取れなくなり、深刻な不況と絶望のどん底に突き落とされたのだ。
だが、イサベル女王は諦めなかった。
なけなしの国庫を叩き、王冠の宝石すら売り払う覚悟で、一人の野心的な探検家・クリストファー・コロンブスに三隻の船を与えた。
日本の厳重な関税網が敷かれた海域を避け、誰も通ったことのない未知の西の海を越え、直接「黄金溢れるインディアス」へ到達し、莫大な富を独占して持ち帰る。
それこそが、スペインが再び立ち上がるための最後の「裏口」だった。
しかし、パロス港から早馬で届いた報告は、女王を激しく動揺させていた。
「コロンブス提督が帰還いたしました。……ですが、提督の船の背後には、山のように巨大な日本の軍艦が付き従っております。さらに、提督に同行する形で、日本の正式な使節団が陛下への謁見を求めております」
『どういうことだ。コロンブスは捕らえられたのか? ジパングの使節だと? まさか、侵略の最後通牒でも突きつけに来たというのか……?』
圧倒的な武力を前に、もはや拒否などできるはずもなかった。
重々しい沈黙の中、謁見の許可が下される。
「……クリストファー・コロンブス提督、ならびに日本使節団、御前へ!」
衛兵の高らかな声が響き、謁見の間の重厚な扉がゆっくりと開かれた。
宮廷に居並ぶ貴族たちが、一斉に息を呑む。
扉の向こうから現れたコロンブスの姿を見た瞬間、謁見の間は水を打ったような静寂に包まれた。
「……コロンブス? そ、その奇妙な装いはなんだ?」
イサベル女王は、玉座から身を乗り出して戸惑いの声を上げた。
現れたコロンブスは、探検家としての甲冑でもなく、ヨーロッパの貴族の衣装でもない。
上質な絹で仕立てられ、背中に奇妙な紋章が染め抜かれた、東洋の衣服(法被)を身に纏っていたのだ。
彼の顔に、偉大な発見を成し遂げた英雄の覇気はない。
圧倒的な現実の前に魂を抜き取られたような、虚ろな瞳をしている。
さらに異様なのは、コロンブスの背後に続く者たちだった。
美しく輝く絹の着物と羽織を身に纏い、腰に刀を差した数人の男たち。
その洗練された立ち振る舞いと、底知れぬ自信に満ちた眼差しは、彼らがコロンブスの従者などではなく、間違いなく「圧倒的な上位者」であることを示していた。
「女王陛下。ご無沙汰しております」
コロンブスは、重い足取りで進み出ると、恭しく膝をつき、深く頭を下げた。
「コロンブスよ、どういうことだ。その者たちは誰だ? 未知の海を越え、未開のインディアスへ辿り着いたのではなかったのか!? 黄金は、どこにある!?」
イサベル女王の焦燥に満ちた声が、王宮に響き渡る。
コロンブスはゆっくりと顔を上げ、背後に立つ日本の使節たちの存在を意識するように、一度だけ微かに視線を泳がせた後、乾いた唇を開き、ひどく掠れた声で答えた。
「……陛下。黄金は、ありません」
「なんだと……!?」
「そして、未開の海など……地球上のどこにも、存在しませんでした」
コロンブスの絶望の響きは、謁見の間の隅々にまで届いた。
「私は、日本が関与していない未知の地を探し、ついに西の海を越えて陸地を発見しました。……しかし、そこで見たものは、幾何学的に整備された巨大な港と、山のような巨大船でした」
イサベル女王は、呼吸を忘れたように固まった。
「そのため、私たちはそこを避けて数時間ほど移動し、何もない砂浜へ上陸しました。……ですが、辿り着いた辺境の集落すらも、瓦屋根の家々が立ち並び、完璧な文明の恩恵を受けていたのです。そして即座に、彼らの巡回兵に発見されました」
「では……お前は侵略者として捕らえられ、ヤツらの使者として脅迫状を持たされて送り返されてきたというのか……!」
女王の言葉に、コロンブスは静かに首を振った。
「それも違います。……彼らは私たちを、恐ろしい侵略者としてすら見ていませんでした。ただの無知で哀れな遭難船として処理し、温かい極楽のような湯に入れ、信じられないほど美味い飯を食わせ……」
コロンブスは、両手で抱えていた美しい装飾の桐の箱を、震える手でそっと床に置いた。
「私の大西洋における航海術の腕を買って……私を、彼らの商館に雇い入れたのです」
謁見の間に、信じられないものを見るようなざわめきが広がった。
女王が全財産を賭けて送り出した誇り高き大洋の提督が。
圧倒的な文明の前に屈し、あろうことかただの「現地採用の案内人」として調教されて帰ってきたのだ。
「……お初にお目にかかる。スペイン女王陛下」
コロンブスの背後に控えていた日本の使節団長(斯波大商館の役員)が、一歩前へ出た。
通訳を介して発せられるその言葉は、極めて丁寧でありながら、一片の隙もない冷徹さを帯びていた。
「我々は、室町幕府・斯波大商館の者でおじゃる。本日は、はるばる海を越え、陛下へ我らが本社からの『ご挨拶』の品をお持ちいたしました」
使節団長が目配せをすると、コロンブスが桐の箱の蓋を開けた。
中に入っていたのは、美しく整えられた、数種類の紙の束だった。
「まず一つ目。これは、西の海で遭難していた陛下の臣下たちを、我が商館の関所が救助し、検疫し、本国まで牽引しエスコートしたことに対する……国家宛の『遭難救助特別経費の請求書』におじゃりまする」
通訳の言葉を聞き、イサベル女王の顔から完全に血の気が引いた。
侵略の宣言ではない。ただの、事務的な経費の請求。
それはつまり、日本にとってスペインという国家が、対等な敵ですらなく、「法とルールの枠組みの中で処理すべき、ただの債務者」に過ぎないという圧倒的な宣告だった。
「……次に、こちらを」
使節団長は、分厚く美しく製本された冊子を指し示した。
「現在、我が国が地球規模で取り扱っている、ありとあらゆる商品の『総合商品目録』におじゃりまする」
女王の側近が震える手でそれを受け取り、ページを捲る。
そこには、活版印刷の美しい文字と緻密な挿絵で、信じられない数の品々が記載されていた。
莫大な香辛料、極上の絹織物、美しい陶磁器とガラス細工、精錬された銀、北方の極上毛皮、そしてあの恐ろしい火器の数々。
スペインの全産業を束ね、何百年かけても絶対に追いつけない、圧倒的で無尽蔵な「富の結晶」。
「西の海にも、すでに我が国の商圏は広がっております。ゆえに、陛下におかれましては……今後は危険な抜け道など探さず、正規の手形と関税をお支払いの上、この目録から何なりとご注文くださいませ」
使節団長は、商人の鑑のような極めて優雅な笑みを浮かべ、最後に、一枚の巨大な羊皮紙を女王の目の前に広げて見せた。
「……そ、それは……」
イサベル女王は、その紙を見た瞬間、絶句した。
それは、最新の『世界地図』だった。
ヨーロッパから見て東の果てにある日本。そこから太平洋を越え、コロンブスが向かったはずの未知の西の大陸(大東大陸)。さらにそこから南下し、パナマのくびれを越え、再び大西洋を渡ってヨーロッパへと繋がる、地球規模の航路。
そのすべての海岸線に、日本の巨大な関所、港、そして交易拠点の印が、びっしりと、隙間なく描き込まれていたのだ。
「我々は、お客様のご要望には誠心誠意お応えする所存におじゃりまする。何卒、末永きご贔屓を」
使節団長は、深く一礼した。
あまりにも重く、冷たく、そして残酷な静寂が、スペイン王宮を支配していた。
イサベル女王は、玉座に座ったまま、その世界地図と分厚い目録を呆然と見つめていた。
『抜け道などない……』
彼女はようやく、その絶対的な事実を理解した。
自分たちが命懸けで切り拓こうとした未知の海。
そこに待ち受けていたのは、未開のジャングルでも、黄金の都でもなく。
極東の帝国が地球規模で張り巡らせた、「完璧な資本主義の箱庭」だったのだ。
武力で立ち向かえば、紙屑のように粉砕される。
こっそりと裏口を探せば、笑顔で請求書を突きつけられる。
この地球上のどこを探しても、日本の経済網から逃れられる隙間など、もう一ミリも残されていない。
「あ……ぁ……」
イサベル女王の口から、乾いた悲鳴のような声が漏れた。
誇りも、野望も、国家の尊厳も。
刀を一度も抜かれることなく、ただ圧倒的な「文明」と「経済」という名の暴力によって、根底から叩き折られた瞬間だった。
「女王陛下……!」
側近たちが慌てて駆け寄る中。
イサベル女王は、操り糸を切られた人形のように玉座から崩れ落ち、冷たい石の床に両膝を突いた。
それは、ヨーロッパという旧世界が、極東から現れた新たなる世界の支配者に対し、完全なる白旗を揚げた日であった。




