第95話:帰還する提督と、巨大なる影
1493年、春。
イベリア半島の南西に位置する、スペイン王国パロス港。
見張り台に立っていた兵士が、沖合の水平線に一つの船影を捉え、弾かれたように半鐘を鳴らした。
「船だ! 帆に十字の紋章……サンタ・マリア号だ! クリストファー・コロンブス提督が帰還されたぞ!」
その報せは、瞬く間に港町全体へと広がった。
数年前に無敵艦隊を日本の軍船に沈められ、深刻な不況と閉塞感に覆われていたスペインにとって、それは久方ぶりに射した希望の光だった。
イサベル女王が、なけなしの国庫を叩いて送り出した決死の探検船団。
彼らが日本の関税網を避けて未知の西の海を越え、黄金溢れる「インディアス」への直接航路を切り拓いたのであれば、スペインは再び世界の覇権を握ることができる。
「提督が帰ってきたぞ!」
「黄金だ! 黄金の国を見つけたに違いない!」
港には次々と群衆が押し寄せ、歓喜の声が渦を巻き始める。
ボロボロに傷ついたサンタ・マリア号が、ゆっくりと港へ向かって進んでくるのが見えた。
しかし。
港を包んでいた熱狂は、次の瞬間、凍りついたような静寂へと変わった。
「……おい。あのサンタ・マリア号の後ろにいる、あの『山』は……なんだ?」
誰かが震える声で呟いた。
サンタ・マリア号の背後の靄の中から、信じられないほど巨大な影がヌッと姿を現したのだ。
それは、スペインがかつて誇ったガレオン船の何倍もの体積を持つ、漆黒の巨大船だった。
いくつもの櫓が天を突き、船体には無数の大砲の砲門が整然と並んでいる。
波を切るというよりも、海そのものを押し退けて進むような、圧倒的な暴力と富の結晶。
「まさか……ジパングの軍艦……!?」
カナリア諸島沖で無敵艦隊を紙屑のように粉砕した、あの悪夢の船。
それが、なぜコロンブスの船の背後にぴったりと張り付いているのか。
港の群衆は恐怖に後ずさり、歓迎の歓声は悲鳴のようなざわめきへと変わっていった。
***
その頃。
巨大な日本の「快速多櫓船(最新鋭護衛艦)」の甲板で、クリストファー・コロンブスは静かに己の祖国の港を見下ろしていた。
『なんて……小さく、薄汚れた港なのだ……』
それが、半年ぶりに祖国を見た彼の、偽らざる第一印象だった。
かつては巨大で堅牢に見えたパロス港の石組みも、日本の「加里武大関所」の幾何学的に計算され尽くした巨大港湾施設に比べれば、まるで子供の泥遊びのように貧相に見えた。
「コロンブス殿。無事に本国へのエスコートが完了しましたな」
背後から声をかけられ、コロンブスは振り返って深く頭を下げた。
そこに立っていたのは、見事な絹の着物と羽織を身に纏った、斯波大商館の役員(使節団長)だった。
「ええ。道中の完璧な護衛と、極上の船旅に心より感謝いたします。使節殿」
コロンブスが身に纏っているのは、探検家としての甲冑でも、貴族のローブでもなかった。
上質な絹で仕立てられ、背中に斯波大商館の紋章が染め抜かれた、日本の美しい「法被」であった。
帰還の航海は、彼が知る「海の旅」の常識を覆すものだった。
ボロボロのサンタ・マリア号は日本の巨大艦にロープで牽引され、彼ら一行は護衛艦の清潔な客室で過ごした。
毎日のように温かい飯が提供され、壊血病の恐怖など微塵も存在しなかった。
何より彼を驚愕させたのは、船内に積載された莫大な「真水」だった。
彼らは巨大な樽の内側を焼いて木炭を敷き詰め、さらに銀の塊を沈めることで、長期間の航海でも水が一切腐らない魔法のような技術(防腐・殺菌)を持っていた。
水夫たちが泥水のような腐った水を舐めるヨーロッパの航海とは次元が違う、圧倒的な兵站の差。
日本の圧倒的な航行速度と物量の前に、大西洋の荒波すらただの余興に過ぎなかった。
『もう、あの地獄のような航海には戻れない……』
彼はすでに、斯波大商館の「大西洋航路・専属水先案内人」としての雇用契約にサインしている。
危険な冒険に命を懸ける探検家としてのプライドなど、温かい白米と安全の前にとうの昔に溶け去っていた。
「ではコロンブス殿。我々も下船し、王宮へ向かうとしよう。そなたの案内で、我らが本社からの『贈り物』を、女王陛下へお渡しせねばならんからな」
「承知いたしました。ご案内いたします」
コロンブスは、上司に命じられた忠実な部下として、恭しく一礼した。
***
サンタ・マリア号へ移乗し、ついに桟橋へと降り立ったコロンブスと、日本の使節団。
周囲を取り囲む群衆や役人たちは、血走った目で彼らに詰め寄ろうとしたが、一歩踏み出しただけで完全に動きを止めた。
背後に停泊した日本の巨大艦。
砲門こそ閉ざされているものの、その威容は港全体を完璧に見下ろしており、『使者に手を出せばどうなるか分かるな』という、無言のプレッシャーを放っていたのだ。
コロンブスは、怯える同胞たちをひどく冷めた感情で見つめた。
もし自分が一人で、手ぶらで帰還していれば、間違いなく裏切り者として即刻捕縛されていただろう。
だが今の自分は、あの巨大な軍艦を背後に持ち、堂々たる装いをした大帝国の使節団に「随行する正規社員」なのだ。
「て、提督……! 黄金は!? インディアスから莫大な黄金を持ち帰ったのでしょう!?」
一人の役人が、震える声で尋ねた。
その視線は、日本の使節団の後ろでコロンブスが大切そうに両手で抱えている、美しい装飾が施された桐の箱に向けられていた。
コロンブスは、奇妙な東洋の衣服(法被)を着たまま、静かに首を振った。
「……違う。黄金などない」
「な、なんだと……!? では、ヤツらの海に迷い込み、拿捕された挙句、哀れにも送り返されてきたというのか!?」
「それも違う」
コロンブスは、抱えた桐の箱の重み──極東の帝国が放つ、冷徹で絶対的な経済的暴力の重みを確かめるように、きつく抱き直した。
「私が持ち帰ったのは……『現実』だ」
群衆が息を呑む中、コロンブスはそれ以上何も語らず、使節団と共に迎えの馬車へと乗り込んだ。
彼が王宮にいるイサベル女王に突きつけなければならないのは、侵略の脅迫状でも、敗北の宣告でもない。
この桐の箱に収められた、日本の巨大コンツェルンからの「法人(国家)宛・遭難救助費用の請求書」 そして、スペインの全産業を束ねても絶対に追いつけない絶望的な「総合商品目録」である。
歴史に名を刻むはずだった大探検家は、日本の巨大商社の一社員として、祖国に完全なる「詰み」を宣告するための使節団の案内役となり、王宮へ向かう街道を静かに進んでいった。




