第94話:京都本社への報告 〜世界を塞いだ日〜
加里武大関所で、一人の探検家が己の無力さに打ちひしがれていた頃。
地球の裏側、すべての富と情報が集積する巨大帝国の中心地――京都。
かつて応仁の乱で灰燼に帰すはずだったこの都は、今や世界中から集まる富によって、美しく巨大な都市へと変貌を遂げていた。
幾何学的に整備された石畳の街道。
精緻なガラス窓が嵌め込まれた、整然と立ち並ぶ商家や工房。
上下水道は完備され、疫病の影すらない清潔な街並みには、活気に満ちた人々の声が絶え間なく響いている。
その中心にそびえ立つ「室町幕府・大商館本社(室町第)」。
最高級の畳と、見事な障壁画で彩られた静謐な執務室で、二人の女性が向かい合っていた。
「……ふふっ。おかしなことをする者たちもおるんやねぇ」
最高級の宇治茶が注がれた白磁の茶碗を傾けながら、日野富子が艶やかな唇をほころばせた。
富子は五十路に入っていたが、その美貌と絶対的な権力者としての威厳は、いささかも衰えを見せていない。
むしろ、世界規模の富を動かす「コンツェルン総帥」としての凄みが、彼女の微笑みに底知れぬ深みを与えていた。
富子の視線の先には、一枚の報告書がある。
世界中に張り巡らされた情報網(馬車リレーと快速通信船)によって、地球の裏側である「加里武」から、わずかな期間で京都本社へと届けられた書状だった。
「『南蛮のすぺいん王国より、未登録の旧式船が三隻、加里武海域へ漂着』……ですか」
富子の傍らで、うやうやしく報告書を読み上げているのは薫子だった。 彼女も四十代半ばを迎えていた。
今や幕府の「最高実務責任者」として天下に名を轟かせる身でありながら、富子に対する敬愛から、二人きりの時だけはこうして昔と変わらず自ら茶を淹れる役を引き受けていた。
「斯波商館からの報告によれば、大西洋の嵐に巻き込まれ、餓死寸前で流れ着いたとのこと。船長はコロンブスと名乗り、『自分は王の命を受けた大洋の提督だ』と怯えながら虚勢を張っていたようにおじゃりまする」
薫子の極めて丁寧な報告を聞き、富子はクスクスと肩を揺らした。
「嵐で遭難、ねぇ。そんな見え透いた嘘、誰が信じるんやろか。……我が国の厳しい関税網(ヨーロッパ近海)を避けて、はるか西の未知の海から、直接『黄金の国』の裏口を叩こうとしたんやろ? 呆れた執念やわ」
富子は、ヨーロッパ諸国──特にスペインのイサベル女王が、日本の経済支配にどれほど歯ぎしりして悔しがっているかを外交情報から熟知していた。
正規のルートを通れば、莫大な関税をむしり取られる。
だからこそ、あえて誰も通ったことのない西の果ての海に一縷の望みを託し、決死の密航船を送り出したのだ。
「ええ。ですが……彼らが必死の思いで辿り着いた『未知の新天地』は、すでに斯波大商館が巨大な商都に作り変えた後におじゃりました」
「ほんま、滑稽な話やわ。未開の島を見つけて原住民を騙くらかすつもりが、巨大な関所と大浴場でお出迎えされたんやから。さぞかし肝を冷やしたやろねぇ」
富子の笑い声が、静かな部屋に響く。
富子は、コロンブスの展開を若干取り違えているが、要点に大きな間違いは無い。
薫子もまた、薄く微笑みを浮かべていた。 だが彼女の内心では、歴史の巨大なうねりを完全にねじ伏せたことへの、熱い興奮が渦巻いていた。
『クリストファー・コロンブス。一四九二年……。無敵艦隊を沈められ、文字通り何年も身動きが取れなかったスペインが、血を吐くような思いで再起を図り、結局は史実と同じ年に彼を出航させたのね。なんて皮肉なのかしら』
薫子は、心の中で彼方の大西洋を見つめた。
『あなたの時代は、来ない。あなたが発見して征服するはずだった新大陸は、もう私たちが何年も前に「ホワイトな現地雇用」と「徹底したインフラ投資」で、完璧な経済特区にしちゃった後よ』
歴史上の大英雄が、日本の高度な管理社会の前に「ただの不法入国者」として保護され、圧倒的な文明格差に絶望して泣きながら飯を食う。
転生者である薫子にとって、これほど痛快で、完璧な「歴史改変の証明」はなかった。
「それで、薫子。斯波の者たちは、その密航者をどう処理したんや?」
富子の問いに、薫子は事務的な声色に戻って答えた。
「はい。言葉通り『遭難者』として扱い、保護いたしました。……ただ、彼の大西洋における気象や海流の知識は確かなものだったようで。斯波商館は彼を罪に問わず、航海士として『中途採用』したとの報告におじゃりまする」
「……はっ?」
富子は一瞬きょとんとし、次の瞬間、耐えきれないように吹き出した。
「あはははっ! 雇った!? あの南蛮の女王が、なけなしの国庫を叩いて送り出した決死の探検家を、うちの商館が現地採用の船乗りにしちゃったん!?」
「はい。初任給と福利厚生の条件を提示したところ、涙を流して雇用契約書に署名したそうにおじゃりまする」
「ひぃっ……お腹痛い……っ。斯波の連中、えげつないことしよるわ。王様の命令で来た『大洋の提督』とやらを、賃銀で囲うただの社員にしてまうなんて!」
富子は目尻に浮かんだ涙を、美しい絹の袖で拭った。
武力で打ち首にするよりも、はるかに残酷なプライドのへし折り方である。
自国の商館長たちが、自分たちが作り上げた「資本主義」というルールを完璧に理解し、使いこなしている証拠でもあった。
ひとしきり笑い終えた後、富子はふと真顔になり、冷ややかな瞳で薫子を見た。
「……で? 薫子。このまま『遭難者を助けて雇いました、めでたしめでたし』で終わらせるつもりは、ないんやろ?」
富子には分かっていた。
目の前で控えめにお茶を淹れているこの女が、そんな生ぬるい結末で満足するはずがないと。
薫子は、富子の空いた茶碗にゆっくりと新しいお茶を注ぎながら、ふわりと優雅に微笑んだ。
「おっしゃる通りにおじゃりまする。抜け道を探すようなおイタをしたネズミには、ここらで完全に『現実』を突きつけ、心を折って差し上げねばなりません」
薫子の言葉は極めて丁寧だったが、その内容は冷徹な経済的暴力に満ちていた。
「コロンブス殿には、一度本国へ帰還していただきましょう。もちろん、あの旧式のボロ船ではなく、我が国の威信を示す山のような『快速多櫓船(最新鋭の護衛艦)』の護衛をつけて、堂々と」
「おお。大名行列みたいに、スペインの港へ凱旋させるんやね。それで?」
「はい。彼に持たせる手土産におじゃりますが……。まずは、彼ら一行を保護し、湯に入れ、飯を食わせたことに対する、法人(国家)宛の『遭難救助および検疫費用』の、きっちりとした『請求書』を」
富子の口角が、ニィッと吊り上がった。
「それから、もう一つ」
薫子は、懐から美しく製本された分厚い冊子を取り出し、富子の前に置いた。
「現在、我が国が地球規模で取り扱っている、ありとあらゆる商品の『総合目録』におじゃりまする」
香辛料、絹織物、陶磁器、ガラス細工、精錬された銀、極上の毛皮、そして火器に至るまで。
日本が世界中の海と陸を繋いで生み出している、圧倒的で無尽蔵な富のリスト。
「これを、イサベル女王陛下へお渡しするよう申し付けます。『西の海にも我が国の商圏が広がっておりますゆえ、今後は正規の手形と関税をお支払いの上、何なりとご注文くださいませ』と……極めて丁重なご挨拶を添えて」
執務室に、再び沈黙が落ちた。
しかしそれは、重苦しいものではなく、あまりにも残酷な一手に対する感嘆の沈黙だった。
黄金を持ち帰るはずだった探検家が。
自国の軍艦の何倍もある巨大な異国の護衛艦に送られ、手ぶらで帰還する。
そして持ち帰るのが、侵略の脅迫状ではなく、ただの「国家事業に対する特別経費の請求書」と、「絶対に追いつけない圧倒的な商品目録(ビジネスの案内状)」。
それを見た時、スペイン女王はどう思うだろうか。
自分たちが命懸けで切り拓こうとした未知の海すら、日本の「完璧な箱庭(商圏)」のほんの一部に過ぎなかったと悟るのだ。 地球上に、日本の経済網から逃れられる隙間など、もう一ミリも残されていないという絶望。
刀を一度も抜くことなく、一国の王の心を根底から叩き折る、究極の兵器。
「……薫子。そなた、ほんまに恐ろしい女やわ」
富子は、背筋に心地よい悪寒を感じながら、心底楽しそうに笑った。
「もったいないお言葉におじゃりまする」
薫子は、静かに、そして深く頭を下げた。
「私はただの、富子様に仕える欲深い小間使いにおじゃりまするから」
窓の外では、今日も絶え間なく荷車が富を運び、人々の笑い声が都を満たしている。
世界を暴力ではなく「経済」で完全に塞いだ日。
日本の二人の頂点は、来るべきヨーロッパの完全降伏の知らせを待ちながら、優雅に茶を啜った。




