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もし応仁の乱が起きなかったら? 〜日本を世界最速の大航海時代へ導く〜  作者: tky
第5章:世界地図を塗り替えた日

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第93話:再就職 〜歴史的英雄の中途採用〜

『私の、労働力としての価値……』


斯波大商館・加里武支店の執務室。

初老の商館長から冷徹に突きつけられた問いに対し、クリストファー・コロンブスは必死に頭を回転させていた。


黄金はない。

この帝国が欲しがるような、美しい絹や香辛料もない。

武力など論外であり、彼が持参した「未開人を騙すためのガラス玉」など、この豪華絢爛な部屋の中ではゴミ以下の価値しかなかった。


『ダメだ。私には何もない。財産も、この国で通用する権威も……』


処刑、あるいは奴隷としての過酷な強制労働。

絶望的な未来が脳裏を過ったその時、コロンブスはふと、己の足元を見た。


いまだに船揺れが残っているかのように、少しだけフワフワとした感覚。


そうだ。

自分は、あの死と隣り合わせの未知の海を、ボロボロの三隻の船だけで渡り切ったのだ。


「……航海術だ」


コロンブスは、乾いた声でぽつりと呟いた。


「何?」


「私は幼い頃から海に生き、数々の船を導いてきた! 羅針盤が指す方位と船の進み具合から現在地を正確に推し量り、海の色や鳥の飛ぶ向きで陸地の接近を嗅ぎつけることができる!」


コロンブスは身を乗り出し、必死の形相で通訳に訴えかけた。


「今回は不運な嵐に見舞われたが、私がいなければ、あの旧式の船団はとうの昔に海の藻屑になっていたはずだ! 私には、風の匂いと波のうねりで嵐を予知し、いかなる過酷な海であっても船を導く『勘』と、長年培った経験がある! 私は一流の航海士なのだ!」


もはや探検家としての誇りも、スペイン女王の威光も関係なかった。

彼は己の命を繋ぐため、純粋な『一人の航海士』としてのスキルを、極東の商人に向かって必死に売り込んでいた。


商館長は、コロンブスの必死のプレゼンを通訳越しに聞きながら、手元の書類に視線を落とした。

そして、奇妙な玉のついた道具(算盤)をパチパチと弾き始める。


「……ほう。あの荒れ狂う西の海を、まともな海図もなしに、勘と経験だけで渡ってきたというのか」


商館長の目が、再びコロンブスを捉えた。

先ほどの冷ややかな視線とは違う。

それは、質の良い商品や、使える道具を見定めた時の、確かな「評価」の色だった。


「我が幕府も、すでに西の海を渡る航路は確立している。だが、あの海は広く、気象の変動も激しい。我が国の堅牢な船であっても、自然の猛威は常に利益を損なう『危険負担りすく』となる」


通訳の言葉に、コロンブスは息を呑んだ。

この帝国は、すでにあの広大な海を渡る航路すら自らの手で確立しているというのか。


「過酷な航海を生き延びた実績と、優れた航海術。それに、南蛮側の海の事情を知る者……。なるほど、確かにそれは我が商館にとっても、実利のある『価値』だ」


商館長はペンを取り、新しい書類にサラサラと何かを書き込んだ。


「よかろう。コロンブスとやら。その腕前、我が『斯波大商館』が買おう」


「か、買う……? それは、私を奴隷にするということか……!」


コロンブスが身構えた瞬間、商館長は呆れたように鼻で笑った。


「勘違いするな。我が国に奴隷という非効率な制度はない。労働には正当な対価を払う。そなたを、我が商館の『大洋航路・専属水先案内人』として正規に雇用してやると言っているのだ」


「こ、雇用……私が、雇われる……?」


「そうだ。これよりそなたは、斯波大商館の『中途採用者けいやくしゃいん』だ」


商館長は、書き上げた書類を通訳を通してコロンブスに読み上げさせた。


そこには、コロンブスの価値観を根本から破壊する内容が記されていた。


毎月支払われる、莫大な額の給金(スペインの貴族階級に匹敵する額)。

航海中の安全な個室の保証。

陸にいる間の、あの清潔な風呂つきの宿舎の提供。

そして、三食の温かく栄養満点な食事(美味い白米と出汁つき)の完全無料支給。


「な、なんだこれは……」


コロンブスは震える手で書類を受け取った。


「さらに、航海中に負傷したり病に倒れたりした場合は、我が商館が誇る最高峰の医術を無償で受けさせる。万が一命を落とした場合でも、本国の遺族には見舞金が支払われる『労災保険』も完備している」


商館長は、さも当然のことのように言い放った。


「もっとも、そなたら一行が飲み食いした飯代と、検疫などの遭難救助にかかった『経費』は、最初の数ヶ月の給金から天引きさせてもらうがな。……どうだ? 不服か?」


***


不服なはずがなかった。


スペイン女王にどれだけ頭を下げ、何年もかけて必死にパトロンを探し回っても、ここまでの安全と富が保証されたことなど一度もなかった。


ヨーロッパの船乗りたちは、常に使い捨てだった。

壊血病で死ねば海に捨てられ、給金は誤魔化され、怪我をすれば見捨てられるのが当たり前の世界だ。


『私は……栄光のインディアス総督になるはずだった……。莫大な黄金を独占し、歴史に名を残す偉大な英雄になるはずだったのだ……』


コロンブスの胸の奥底で、かつての巨大な野望が最後の悲鳴を上げていた。 もしここでこの契約に署名すれば、自分はもう二度と「大探検家」には戻れない。 ジパングの巨大コンツェルンの、いち歯車(従業員)として生きていくことになる。


だが。


昨夜食べた、あの圧倒的な「旨味」を持つ温かいスープの記憶が、胃袋から脳髄へと鮮烈に蘇った。

清潔な衣服。温かい湯。死の恐怖が一切ない、完璧に管理された社会。


あの恐ろしい嵐の海を、劣悪な環境で再び渡るか。

それとも、この絶対的な豊かさと安全の中で、与えられた仕事をこなして生きるか。


理性の秤にかけるまでもない、圧倒的な文明という名の暴力。


「…………謹んで、お受けいたします」


コロンブスは、深く、深く頭を下げた。


差し出された筆を震える手で握り、彼は「雇用契約書」の末尾に、己のサインを書き入れた。


歴史に名を残すはずだった大探検家が。 その誇りと野望を完璧にへし折られ、日本の商社の「契約社員」へと成り下がった瞬間だった。


しかし、署名を終えたコロンブスの顔には、不思議と絶望の色はなかった。

むしろ、もう二度とあの飢えと恐怖に怯える必要はないのだという、強烈な安堵の涙が、その頬を伝い落ちていた。

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