第92話:大商館の事務室 〜探検家の価値〜
極上の食事と温かい湯によって、すっかり生気を取り戻した水夫たちは、与えられた清潔な寝所で泥のように眠りこけていた。
しかし、クリストファー・コロンブスだけは眠ることができなかった。
彼の頭の中では、未だに現状を処理しきれていなかったのだ。
自分たちは「偉大なる探検家」として未知のインディアスへ到達したはずだった。
だが現実は、得体の知れない超大国の「前庭」に迷い込んだ挙句、彼らに哀れまれ、施しを受ける漂流者に成り下がっている。
「提督閣下。お呼びです」
戸が開き、通訳らしき男を伴った兵士が静かに告げた。
言葉はたどたどしいが、確かにスペイン語に近い南蛮語だった。
コロンブスは、支給された上質な肌触りの着物(浴衣のようなもの)の帯をきつく締め直した。
『気をしっかり持て。私はスペイン女王陛下の名代であり、大洋の提督なのだ』
己の内に残る最後のプライドを奮い立たせ、彼は兵士の後について部屋を出た。
***
案内されたのは、彼らが収容されていた施設から少し離れた、巨大な建造物だった。
道中、コロンブスの目は驚きに見開かれたままだった。
足元は泥濘など一切ない、平たく削られた石が隙間なく敷き詰められた街道。
そこを、巨大な馬車や、荷車を引く人々が絶え間なく行き交っている。
建物の屋根はすべて均一な瓦で葺かれ、ガラスの嵌まった窓からは、夜だというのに煌々と明かりが漏れていた。
すれ違う人々の顔に、飢えや怯えの色はない。
皆、清潔な衣服をまとい、活気に満ちた声で何かを交渉したり、笑い合ったりしている。
『ここは……本当にこの世なのか?』
ヨーロッパのどの巨大都市──ヴェネツィアやパリ、リスボンですら、これほど整然とし、圧倒的な富の匂いを放つ場所は存在しなかった。
やがて彼が通されたのは、「斯波大商館・加里武支店」と書かれた看板が掲げられた、役所のような広い部屋だった。
部屋の中では、数十人の書記官たちが、奇妙な玉のついた道具(算盤)を弾きながら、凄まじい速度で大量の紙の束(書類)に筆を走らせていた。
羊皮紙ではない、薄くて白い紙。
全て同じ大きさに整えられたその紙が、コロンブスにはとても美しく見えた。
その部屋の奥。
一段高くなった立派な木の机で、書類の山に目を通している初老の男がいた。
彼が、この巨大な施設──加里武大関所の責任者であるらしかった。
男はコロンブスが前に立っても、すぐには顔を上げなかった。
手元の茶碗から立ち上る湯気をふーっと吹き、一口啜ってから、ようやく値踏みするような視線を向けてきた。
「……お初にお目にかかる。私がここを任されている、斯波大商館の者だ」
傍らに立つ通訳の男が、その言葉をスペイン語に訳す。
コロンブスは背筋を伸ばし、威厳を込めつつも、あくまで「不慮の事故」を装って名乗った。
「私は、クリストファー・コロンブス。スペイン王国の船団を率いる提督である。……我々は誰も知らない未知の西の海を探求すべく出航したが、不運にも恐ろしい嵐に巻き込まれ、偶然この地に流れ着いたのだ」
日本が関与していない未開の地を探すこと自体は、何ら罪ではない。
関税を免れるために新天地を開拓しようとするのも、一つの正当な目的である。
だが、結果として「手形を持たずに日本の関税網へ侵入した」のであれば、それは条約違反の密航船として捕縛の対象となる。
だからこそ、彼は「自らの意思でこの海域へ侵入した」のではなく、あくまで「嵐による不慮の遭難」であり、救助を求めて上陸したという主張を、巡回兵の時から固く貫いていた。
「……すぺいん?」
責任者の男は、全くピンときていない様子で首を傾げた。
そして、机の端にあった分厚い『南蛮諸国要覧』という手引書をパラパラと捲り始める。
「ああ……あったあった。数年前に我が国の艦隊が少しばかり小突いた、西の果ての小さな半島国か。なるほど。我が国と条約を結んだ国だな」
『小突いた、だと……!? 無敵艦隊を沈められた我が国の悪夢を、小競り合い程度にしか記録していないというのか!』
コロンブスは屈辱に顔を赤くしたが、責任者はそんな彼の感情など意に介さず、事務的な口調で話を続けた。
「さて、コロンブスとやら。そなた『未知の西の海』と言ったな」
責任者は、書類から目を離し、呆れたような視線を向けた。
「我が国と条約を結んでいる以上、そなたの国の湊にも、我が国の手形を発行する事務所があったはずだ。もし出航前にそこへ出向き、『これから西の海を探検したい』とでも一言相談していれば、そこがとうの昔に我が国の商圏であることくらい、すぐに教えてやったものを。我が国は、世界に対して勢力圏を秘匿しているわけではないのだからな」
『な、なんだと……!?』
コロンブスは内心で驚愕した。
隠していたわけではないと言うのか。
自分が「日本が関与していない、まったく未知の新天地」だと固く信じて出航した結果が、この惨劇だというのか。
誰かに一言でも相談していれば、破産のリスクを冒してまで、こんな海へ乗り出すことはなかったが、この航海は、日本を出し抜く目的があった為、どう転んでも相談する事は無かっただろう。
「条約を締結している国の船が、我が国が管理する海域へ入るならば、関税を払い、手形を得るのが筋というもの。だが、そなたらは手形を持たず、無断でこの海域へ現れた。本来であれば、条約違反の密航船として捕縛の対象となる」
通訳の言葉を聞き、コロンブスの背筋に冷たい汗が流れた。
遭難という言い訳は通じないのか。やはり、密航者として処刑されるのか。
「だが……」
責任者は、ひどく同情するような溜息を吐いた。
「拿捕したそなたらの船の有様や、水夫たちの惨状……それに、あのような旧式のポンコツ船で、事前の情報収集すら怠り、嵐の海を突っ切ってきた無謀さを見るにな。お前の主張通り、これは悪質な密航ではなく、ただの『無知ゆえの遭難』と処理するのが妥当だろう、という結論に至った」
『……よし!』
コロンブスは内心で快哉を叫んだ。
自らの無知を指摘され自尊心はひどく傷つけられたが、合理的な言い訳は見事に通用したのだ。これで処刑は免れた。
「寛大なるご処置に、深く感謝する。我々はただの哀れな漂流者だ」
コロンブスは安堵の息を吐き、恭しく頭を下げた。
「結構。遭難者として保護したからには、そなたらも湯に浸かり、腹一杯の飯を食ったであろう?」
「あぁ。あの極上の食事と温かい湯……心より感謝している」
「結構。しかしな、コロンブス殿」
責任者の男の目が、ふっと細められた。
それは、戦士の目ではない。冷徹に利益を弾き出す、生粋の「商人」の目だった。
「我が商館も、慈善事業で関所を開いているわけではないのだ。そなたらを救助し、検疫し、飯を食わせるのにも、相応の『経費』がかかっている」
コロンブスは息を呑んだ。
「大洋の提督だのという肩書きは、我が国では一文の価値にもならん。私が知りたいのは、そなた自身の『実利』だ」
責任者は、机の上で指を組み、コロンブスを真っ直ぐに見据えた。
「命を助け、飯を食わせてやった分の請求書だ。で、そなたらには何か、商いになる特技はあるか?」
***
沈黙が降りた。
コロンブスは、頭を鈍器で殴られたような衝撃を受けていた。
処刑を免れるために自ら「遭難者」の身分を受け入れた。
だがそれは同時に、大探検家としての名誉を完全に捨て、彼らの冷酷な「資本のルール」の土俵に引きずり込まれることを意味していたのだ。
ヨーロッパという世界を支配していた絶対的な価値観が、ここでは微塵も通用しない。
目の前にいる初老の男が問うているのは、ただ一つ。
『お前は、この国において、労働力としてどれだけの金を稼げるのか?』
それがすべてだった。
相手は自分を、恐ろしい侵略者として警戒すらしていない。
ただの「無一文で転がり込んできた、飯を食うだけの厄介な居候」として、極めて事務的に、経費の清算を求めているのだ。
「……私は……」
コロンブスは、乾いた唇を舐めた。
黄金など持っていない。
持っているのは、ガラス玉や安物の鈴といった、先住民を騙くらかすためのガラクタだけだ。
軍事力など比較にならない。
誇っていた文明すら、彼らの足元にも及ばない。
『私の……価値?』
ヨーロッパでは歴史に名を刻む英雄になるはずだった彼が、今、極東の商社の一支店で、己の「労働力としての価値」を必死に捻り出そうとしている。
そのあまりの惨めさと、圧倒的な現実の前に。
大探検家クリストファー・コロンブスは、完全に己の敗北を悟り、がっくりと肩を落とした。




