第91話:哀れな漂流者たち 〜加里武大関所のカルチャーショック〜
それは、大探検家クリストファー・コロンブスが描いていた「栄光の征服」とは、あまりにもかけ離れた結末だった。
彼らが乗るサンタ・マリア号をはじめとする三隻の船は、巨大な山のような漆黒の船に両脇を挟まれ、為す術もなく牽引されていた。
抵抗など、考えることすら愚かだった。
すれ違う巡回船の大砲の数は、スペイン王国の全艦隊を集めても及ばないだろう。
何より、彼らが牽引されていく先に見える「陸地」の光景が、コロンブスたちの理性を根底から打ち砕いていた。
未開のジャングル。
裸で踊る、無知な原住民たち。
ガラス玉と引き換えに黄金を差し出す、愚かで純朴なインディアス。
コロンブスが夢想し、水夫たちに語り聞かせていたその景色は、どこにも存在しなかった。
朝靄が晴れた先にそびえ立っていたのは、幾何学的に計算され尽くした、巨大な石積みの港湾施設群だった。
絶え間なく行き交う無数の巨大船。
天を突くような複数の物見櫓。
そして、海岸線を埋め尽くすように広がる、瓦屋根の家々と煉瓦造りの巨大な倉庫群。
「ヤツら……ヤツらの、箱庭だったのか……。西の海の果てまでも……!」
甲板にへたり込んだコロンブスは、血の気を失った唇を震わせた。
彼の航海士としての論理的思考は完全にショートし、ただ圧倒的な恐怖だけが全身を支配していた。
『殺される』
コロンブスは確信した。
異教徒の領土へ不法に侵入したのだ。
火あぶりか、四つ裂きか、あるいは生きたまま皮を剥がれるのか。
水夫たちも皆、これから始まるであろう野蛮な拷問と処刑を想像し、互いに抱き合って震え上がっている。
やがて船は、巨大な石造りの桟橋に横付けされた。
***
「降りろ。大人しく指示に従え」
乗り込んできた兵士たちは、見たこともない奇妙な黒い筒(火縄銃)を携えていた。
彼らはコロンブスたちに乱暴するわけでも、怒鳴り散らすわけでもなかった。
ただ、冷徹に、極めて「事務的」に、手振りと短い号令で下船を促すだけだった。
上陸させられた彼らを待っていたのは、首を刎ねるための斧を持つ死刑執行人ではなかった。
奇妙な、白い布で全身を覆い、口元までを隠した者たちの集団だった。
彼らはコロンブスたちを一列に並ばせると、手にした紙の束に何事かを書き込みながら、次々と指示を出していく。
「なんだ……何をする気だ!?」
言葉は全く通じない。
コロンブスたちは、石造りの巨大な建物の内部へと押し込まれた。
そこは、強烈な薬草のような、鼻を突く匂いが充満する部屋だった。
白い装束の者たちが、身振り手振りで「服を脱げ」と指示してくる。
従わずに立ちすくんでいる水夫の服を、彼らは容赦なく刃物で切り裂き、剥ぎ取っていった。
(生贄の儀式か……!)
コロンブスは恐怖に目を剥いた。
裸にされた彼らは、次に奇妙な部屋へ通され、頭から容赦なく熱い湯と、刺激の強い液体を浴びせかけられた。
「ひぃぃっ! やめてくれ! 燃やされる!」
水夫たちが悲鳴を上げる。
彼らは「検疫」や「消毒」といった概念など知る由もない。
何かの魔法か、恐ろしい毒液を浴びせられているのだと思い込み、パニックに陥った。
しかし、白い装束の者たちは水夫たちの悲鳴など完全に無視し、淡々と、流れ作業のように全員の体からシラミや汚れを洗い落としていく。
その光景は、侵略者に対する報復というよりも、薄汚れた家畜を洗浄しているかのような、徹底した「作業」だった。
***
恐怖の「儀式」が終わった後、彼らはさらに奥の、広大な空間へと押し出された。
「…………ここは、天国か?」
ある水夫が、呆然と呟いた。
コロンブスの目も、信じられないものを見るように見開かれていた。
そこは、スペインの王宮すら比較にならないほど巨大な「池」のある部屋だった。
いや、池ではない。
その巨大な水面からは、もうもうと白い湯気が立ち上っている。
周囲の壁には、見たこともない雄大な山(富士山)の絵が色鮮やかに描かれている。
「浸かれ」
案内役の男が、湯を指さしてそう言った。
「ま、まさか……この大量の水を、すべて沸かしているというのか……?」
コロンブスは震える足で、湯船の縁に近づいた。
大西洋の過酷な航海において、真水はまさに命そのものだった。
腐りかけた水すら惜しみながら舐めるように飲んでいたというのに、この国では、これほど莫大な量の美しい熱水を、ただ「体の汚れを落とすため」だけに使い捨てているのだ。
一人の水夫が、たまらず湯船に飛び込んだ。
「ああっ……! 温かい……! 悪魔の火じゃない、極楽の湯だ!」
その声に釣られ、飢えと寒さ、そして恐怖に凍えきっていた水夫たちが、次々と巨大な湯船へと身を沈めていく。
コロンブスもまた、誘惑に抗えなかった。
ゆっくりと湯に浸かると、数ヶ月分の航海の疲労と、こびりついていた死の恐怖が、熱とともに溶け出していくのが分かった。
処刑されるはずではなかったのか。
なぜ、自分たちはこのような夢のような扱いを受けているのか。
コロンブスの頭の中は、完全に混乱していた。
***
風呂から上がると、今度は肌触りの良い、清潔で柔らかい布地の衣服(浴衣)が全員に支給された。
シラミだらけのボロ布しか着たことのなかった水夫たちは、そのあまりの心地よさに涙ぐんでいる。
そして彼らは、広々とした畳敷きの大広間へと案内された。
そこには、人数分の小さな木の膳が、等間隔にずらりと並べられていた。
「座れ。そして、食え」
膳の上に置かれていたのは、見たこともない料理だった。
真っ白で艶やかな、小さな粒の山の集合体(白米)。
琥珀色の湯気を立てる、豊かな香りのするスープ(味噌汁)。
そして、香ばしく焼かれた、分厚い魚の切り身(鮭の塩焼き)。
「罠だ……! 毒が入っているに違いない!」
コロンブスは本能的に叫んだ。
彼らが自分たちを歓待する理由が、何一つ見つからないからだ。
しかし、壊血病の恐怖と慢性的な飢餓に苛まれていた水夫たちに、提督の警告など届くはずがなかった。
一人が手掴みで真っ白な粒(白米)を口に放り込み、そのまま琥珀色のスープをすする。
「…………っ!!」
その水夫は、目を見開き、そして号泣し始めた。
「うまい……! なんだこれは……! 旨すぎる……!!」
犬のように皿に顔を押し付け、無我夢中で料理を貪り食う水夫たち。
誰も血を吐いて倒れる者はいない。
コロンブスは震える手で、木の椀を持ち上げた。
琥珀色のスープから立ち上る香りが、鼻腔をくすぐる。
(毒でも、構わない……)
彼は覚悟を決め、スープを一口、口に含んだ。
瞬間。
未知の「旨味(出汁)」が、コロンブスの舌から脳髄へと、稲妻のように駆け抜けた。
「……あ、あぁ……」
温かい汁が、干からびた胃の腑に染み渡っていく。
それは、肉を焼いただけの野蛮な料理しか知らなかったヨーロッパの探検家にとって、魔法のような味わいだった。
塩の辛さでも、砂糖の甘さでもない。
食材の命そのものを抽出したかのような、深く、優しく、そして圧倒的に暴力的な「旨味」。
続いて、真っ白な粒(白米)を口に入れる。
噛むほどに広がる自然な甘みが、香ばしい鮭の塩気と完璧に調和する。
コロンブスは、涙を止めることができなかった。
ぽろぽろと、大粒の涙が木の膳にこぼれ落ちる。
彼はようやく、自分の置かれている真の状況を理解した。
この圧倒的な文明を持つ帝国の者たちは、自分たちを「侵略者」としてすら認識していないのだ。
牢獄されることも、鎖で繋ぐこともない。
ただ、大洋の彼方からボロボロの船で流れ着いた、哀れで、惨めで、無知で、飢えた「漂流難民」
それが、彼らから見たコロンブス一行の評価だった。
歴史に名を残す大探検家としての野望。
新大陸の支配者になるという誇り。
提督としてのプライド。
それらすべてが、この温かく、優しく、そして絶望的に美味い食事の前に、粉々に砕け散っていった。
「……うまい……。悔しいほどに……うまい……」
クリストファー・コロンブスは、むせび泣きながら。
ただひたすらに、与えられた温かい飯をかき込み続けた。




